鳥屋城(とやじょう)
鳥屋城の基本情報
通称・別名
- 外屋城、外山城、石垣城
所在地
- 和歌山県有田郡有田川町中井原
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 湯浅宗基
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- -
主な城主
- 湯浅氏、畠山氏、神保氏
廃城年
- 天正13年(1585)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(鳥屋城址)
再建造物
- -
周辺の城
-
湯浅党城館(和歌山県有田郡)[7.6km]
岩室城(和歌山県有田市)[7.7km]
大野城(和歌山県海南市)[9.3km]
寺中城(和歌山県海草郡)[12.3km]
日方城(和歌山県海南市)[12.6km]
清水城(和歌山県有田郡)[14.9km]
田尻城(和歌山県日高郡)[16.0km]
雑賀城(和歌山県和歌山市)[16.9km]
弥勒寺山城(和歌山県和歌山市)[17.6km]
小坊子城(和歌山県日高郡)[17.8km]
鳥屋城の解説文
鳥屋城の口コミ情報
2024年10月30日 noble権中納言弥勒菩薩
藤並城[鳥屋城 周辺城郭]
藤並氏の城館。辺りは一面のミカン畑&住宅地ですが、四周を囲っていたと思われる堀跡のうち、北側部分が良好に残存しています。残してくれた地権者の方に感謝。
周囲はごく狭い道で、かつ側溝(というか割りと幅広の水路)もあるので駐車できるところは見当たりません。かなり離れたところに場所を探して短時間路駐しか無さそうです。住宅のあいだをすり抜けて行く、恐らく私道に、案内板が出てきます。城趾の北側です。
2022年01月03日 鈴木剛
藤並城跡の説明看板[鳥屋城 碑・説明板]
鎌倉時代には藤並氏の居城 室町時代には堅田氏の居城 平地に築かれ現在まで残る貴重な史跡です
2022年01月03日 鈴木剛
藤並城[鳥屋城 周辺城郭]
湯浅党支配下の藤並氏の居城 堀と土塁が残っている
2020年11月22日 さっきー
鳥屋城
金屋中学校校門見て左。体育館沿いにあるくと、水道タンク横に、遊歩道入口があります。
2019年05月21日
鳥屋城
父の実家のご先祖様は、この鳥屋城から昇る狼煙を見張ってる家柄だったらしい。伯父さんで15代目です。
2013年09月01日 北川幸人
鳥屋城
有田川町立金屋中学校の裏の水道施設のそばから、遊歩道が整備されています。麓の城山公園に社や説明板があります。山頂主郭部まで約800mです。所々の視界が開けた地点から町並や有田川が見えます。
歴史
築城年代、築城者は定かではない。永和5年(1379)に文献に記される南朝方の石垣城が、鳥屋城を指すと考えられる。紀伊守護の山名義理により攻め落とされたという。
石垣城は紀伊守護の畠山氏の拠点のひとつになった城で、天正13年(1585)の羽柴秀吉の書状にその名が確認できる。秀吉軍は湯川氏が籠る湯川館を攻めた後、畠山氏の鳥屋城を接収。これにより、烏屋城は廃城になったと考えられている。
遺構
西側に有田川を見下ろす、標高304mの鳥屋山山頂に築かれている。山頂を中心とした東側の曲輪群と、鞍部を挟んで南西尾根先に展開する西側の曲輪群とで構成される。細く急峻な山の地形を利用した城だ。
東側の曲輪群は、尾根上に曲輪が並ぶ。東端の曲輪がもっとも広く、端部には土塁がある。斜面には、土留めや遮断線として構築されたと思われる石垣が散見される。高さ約2mの石垣もあるが、ほとんど崩落している。
西側の曲輪群は東側の曲輪群とは様相が異なり、東側曲輪群のような直線的な曲輪配置ではない。土塁が多用されているのも印象的だ。
西側の曲輪群の、中央にある曲輪が主郭と思われる。その西側の曲輪には南北斜面に高さ2mの石垣があり、そこから西側に下がったところには、虎口に対応するような土塁が設けられるなど、戦国時代の改変を思わせる複雑さがある。城域の西端は幅約4m、深さ約1mの堀切で分断されている。
交通
・阪和自動車道有田ICから車で約20分参考文献
・『図解 近畿の城Ⅱ』戎光祥出版、2015年。