日方城(ひかたじょう)

日方城の基本情報

通称・別名

日方山城

所在地

和歌山県海南市日方

旧国名

紀伊国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

南北朝時代?

主な改修者

主な城主

不明

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

大野城(和歌山県海南市)[3.3km]
雑賀城(和歌山県和歌山市)[4.9km]
弥勒寺山城(和歌山県和歌山市)[5.4km]
秋月城(和歌山県和歌山市)[7.2km]
雑賀崎城(和歌山県和歌山市)[7.3km]

日方城の解説文

明徳2年(元中8・1391)の乱(明徳の乱)で大内義弘は、和泉国より700騎を率いて府中(和歌山市)に布陣、海上からは兵船500艘が大野城の山名義理攻略に赴いた(『明徳記』)。この時義理は、大野城の北方約3kmの山に、東西に並ぶ支城を築いて防御壁を造った。その中心が日方城で、その東脇に扇子ケ城、西脇に城の平(二城山)、更に池崎城(一城山)が築かれた。これらが至近距離にあるため、過去の記録の中には所在地や居城者までもが混同して記載されているものが多い。

『日方記』(『海南市史』二)による日方城跡は「奥の谷北山頂上に城跡五百坪計上下段あり、是を日方山城と云フ」とある。この日方山は現在の「城ヶ峰」で、「市民の森」となっている。今、山上の木立ちの中に「城址」の説明板が建てられている。

居城者に諸説があり、『紀伊名所図会』は「畠山義深の家臣遊佐氏を守護代として」とし、『海草郡誌』は「明徳年中桑原弾正」だとしている。この桑原姓は、山名義理が明徳年中に桑原太郎左衛門正利と改名したことに始まるのだと『亀川百年史』は説明している。また『紀伊続風土記』に「青侍西島」とあるが、これは黒江の池崎城にも伝わっている。いずれにしても信頼できるものはなく、畠山氏、山名氏を問わず大野城が本城として存在している時の支城的存在であったことは記録からも判断できる。しかし、それ以後の使用もあったらしく、後述する天正5年(1577)8月の井松原合戦の記録にもしばしば登場し、しかも日方城の落城はこの時だともいう。

城跡は、東西約100m、南北約30mの長方形で、その内部は自然地形の5段から成る。その曲輪を囲むように土塁が残存し、南側のそれは屈折した部分や竪堀と思われる人工的な構造を見ることができる。全体的構造には複雑な面はなく、この広い地域内に兵を集めて指揮を執った陣城的存在で、最小限の防御を備えた県下ではめずらしい構造をした城郭跡といえる。

情報提供:海南市教育委員会生涯学習課

日方城の口コミ情報

紀伊守有酸素運動様[2016年08月15日]
先の方の補足です、且来側からは自動車学校の麓市民プールの横から登れますがこちらも軽四が望ましい道です。
岡田側からだとオフロードのバイクやカブなら何とか行けるが所々倒木もある獣道を攻めれば登れます。

北川幸人様[2016年08月15日]
日方城がある城ヶ峰は、市民の森として整備されているが、麓に案内標識等は見つからなかった。
山の南側、県道16号山崎町2丁目あたりから北へ進むと、小さなお墓を過ぎたあたりから道幅が狭くなり、軽自動車1台分になった。しばらく進むと少し広い場所に到着し、そこに駐車。2、3台分のスペースがあった。
市民の森鳥獣保護区の区域図があり、「岡田城跡」の記載があるので、しばらく歩くと、市民の森に到着。
下草が刈られているので、散策しやすかった。
山頂主郭部にある説明板は、サビやかすれでかなり読みづらかった。
それによると、ここは北の麓にある岡田八幡神社の所有地になっているらしい。

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