福知山城(ふくちやまじょう)

福知山城の基本情報

通称・別名

福智山城、横山城、臥龍城、八幡城、掻上城

所在地

京都府福知山市字内記

旧国名

丹波国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

複合連結式望楼型[3重4階/1699年築/破却]、複合連結式望楼型[3重4階/1985年再/RC造外観復元]

築城主

明智光秀

築城年

天正7年(1579)

主な改修者

有馬豊氏

主な城主

明智氏、朽木氏

廃城年

明治6年(1873)

遺構

曲輪、石垣、井戸、移築番所、門

指定文化財

市史跡(福知山城跡)

再建造物

復元大・小天守、釣鐘門、石碑、説明板

周辺の城

猪崎城(京都府福知山市)[1.3km]
石原城(京都府福知山市)[4.4km]
鬼ケ城(京都府福知山市)[5.1km]
河守城(京都府福知山市)[10.6km]
綾部城(京都府綾部市)[11.6km]
鳴岩城(京都府福知山市)[12.9km]
黒井城(兵庫県丹波市)[13.3km]
細見辻城(京都府福知山市)[13.9km]
八田城(京都府綾部市)[19.1km]
柏原陣屋(兵庫県丹波市)[19.2km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)158 福知山城

設置場所

福知山市郷土資料館(福知山城)入口受付[地図
福知山観光案内所(JR福知山駅構内)[地図

福知山城の解説文



福知山城(ふくちやまじょう)は、丹波国天田郡福知山[1](現・京都府福知山市字内記内記一丁目周辺)にあった日本の城(平山城)跡。江戸時代には福知山藩の居城であった。1965年10月14日、市の史跡に指定[2]。2017年には、「続日本100名城」(158番)に選定された。

概要 

現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。

現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。福知山市郷土資料館の施設となっている。また福知山城公園親水広場内には2023年初夏に福知山鉄道館ポッポランドが移転整備されることになっている。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。

市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。

東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく地である。東、北、西は断崖で要害の地でもあった。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からうかがえ、夜間はライトアップされている。また多数の桜が城周辺に植林されている。

歴史・沿革 

中世(室町時代)

小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われている。塩見頼勝は後に姓を横山に改め、さらに城主はその息子である塩見信房へと代替わりし、城名も横山城となる。

中世後期(横山城の戦い)

明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。

これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らが城代となっていたが、丹波国の掃討戦が開始された。同年8月20日より四王天政春、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。塩見信房とその弟塩見信勝と共同で防戦したが、破れて自刃して死去した。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れた。猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、逃走する途中に林半四郎らに川北周辺で戦死した。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。

明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変となり明智秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は明智秀満の父が福智山城の留守居役となっていたらしく、羽柴秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、京に連行し同年7月2日粟田口で処刑された。明智光秀は山崎の戦いで敗北し後に殺害された。明智光秀の在城期間は3年間だけであった。

中世末期(安土桃山時代)

福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする羽柴秀勝が城主となり、次いで杉原家次が城主となったが病没後、小野木重勝が城主となった。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、細川忠興親子が立て篭もる田辺城を攻めた。この時細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦した結果、どうにか和議にこぎつけた。関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、徳川家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は敗れ、亀山城下の寿仙院で切腹させた。

近世(江戸時代)

関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成した。はじめ6万石で入国したが間もなく2万石(飛び地で三田・父の遺領の継承が許される)の加増を受け8万石の領主となった。

山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として改修を行い、現在に残る姿とした。

しかし元和6年(1620年)12月、武功を重ねた豊氏は久留米藩に加増転封され、翌元和7年(1621年)8月岡部長盛が亀山城から移る。3年後その岡部長盛も大垣藩に転封すると、稲葉紀通が摂津国中島藩より移る。その稲葉紀通も福知山城の城主となった24年目の1648年(慶安元年)、宮津藩の京極高広と争いとなり、乱心し自殺したのではないかと伝わっている。翌慶安2年(1649年)2月刈谷藩から松平忠房が入部したきた。20年程統治したが島原藩へ転封する。

寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、1869年(明治2年)まで約200年に亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治した。

現代

廃藩置県後の1871年(明治4年)によって廃城となり、1873年(明治6年)の廃城令によって解体された[3]。建物は払下げとなり二の丸の台地は埋め立てられた。二の丸の建物は1887年(明治20年)取り払われ、建物一部の瓦は寺院や民家に使用された。二の丸の台地は削り取られ、城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の山門になったと伝わっており、これらは福知山市重要資料に指定されている。最後に残っていた二ノ丸の登城路付近にあった銅門番所は、1916年(大正5年)に天守台に移築された。

1973年(昭和48年)には東京工業大学の藤岡通夫によって基本設計図が描かれて地質調査も行ったが、オイルショックの影響で天守の復元は中断された。1982年(昭和57年)には塩見精太郎市長が天守再建の意向を示し、1983年(昭和58年)には調査費が計上されると、1984年(昭和59年)には再建(郷土資料館建設)期成会が発足した。1口3000円の寄付を募る「瓦一枚運動」などで5億円以上の寄付金を集めた。一般寄付金1億6000万円、国庫補助1億4000万円、京都府補助230万円などを合わせて、総事業費は8億1372万円。福知山市の一般財源にはほとんど頼っていない。1985年(昭和60年)には小天守と続櫓が完成、1986年(昭和61年)には大天守(郷土資料館)が完成し、同年11月9日に竣工式を行って11月10日に開館した。

2017年(平成29年)には日本城郭協会が認定する続日本100名城(158番)に選定された。

2020年(令和2年)、福知山城天守の写真が発見された。写真は不鮮明ながら全容を確認することができ、ほぼ正しい姿で再建されていることが裏付けられた[4]

城郭 

福知山城は、明智光秀が築造後、その後多少の修築は行われたが、有馬豊氏時代に完成したものと推定されている。

丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150-300mとなっている。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていたが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となってしまった。その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀を巡らしていた。城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされている。いわゆる惣構えとなっていた。

稲葉氏時代の絵図には、本丸と二ノ丸の間は「カラホリ」と「橋」を記している。この時代は本丸と二ノ丸は分断されていたと思われているが、稲葉氏時代の絵図以外には見られないので、それ以外は埋められたものと考えられている。二ノ丸から西の伯耆丸は有馬豊氏の弟有馬重頼(有馬伯耆重頼)の館があったところである。

本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われている。尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。

遺構の調査で転用石材の使用や天守台周辺のIからIII期にわたる改修が確認されており、I期が光秀の支配期と推定されている[5]

天守

『平面古図』によると、天守は三重四階建ての大天守で、北側に二重二階階建の小天守、南側には現存していないが櫓門を介して二重二階建の菱櫓と連結した建物があった。大天守には、トコと棚をしつらえた八畳の上段ノ間、水流し、厠、小天守にもトコと棚をしつらえ住居施設を備えている。大天守と小天守の連結部には縁側をとって座敷風な造りがなされている。『復元大系 日本の城』によると「建築構成は、安土城天守を小規模にしたような形で、共通する点が多い」としており、安土城の天守との共通性を指摘している。復興天守の建設工事に伴い、発掘調査を実施したところ、当初は単独的な形であったがのちに改変付加され規模を順次拡張していたことが明確になった。

復元天守は、大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型である。外観は忠実に再現されているが、構造は鉄筋コンクリート造である。

石垣

1873年(明治6年)の廃城令で建物や堀、石垣もかなり失われてしまい、遺構としては天守台と本丸の石垣が残されるのみとなった。石垣は、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用されている方法で積まれている。石材の加工と用い方は「野面積み」、角部の積み方は「算木積み」、勾配としては、基底部は傾斜が緩やかで段々傾斜を増していき、上部はほぼ垂直になる「扇の勾配」と呼ばれている。また宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれている。一辺が62cmと大型の石材もあり、相当の寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがうかがわれる。点数は現在発掘調査により増加しているが、おおよそ500点で、五輪塔が約250点、宝篋印塔基礎が約35点となっている。種類としては、宝篋印塔、五輪塔の他に、一石五輪塔、石仏、笠塔婆、石臼等があり、これらは現在も石垣の部材として使用されている。福智山城以前の横山城時代の山城やその関係寺院、三岳山周辺の寺院を破却したとの伝承がある。

とある。惟任とは明智光秀のことで、荒木山にあった法興寺や宝積寺から石垣に使用する石を取り集めたとある。

石落とし

石落としは攻城戦に攻城軍が接近した場合に、門・櫓・天守などに設けてある隙間から直下の敵に向けて攻撃を行う防御施設。石落としの幅は8寸とされ、福知山城では大天守の虎口の上、大・小天守の2階の隅に設置されており、1階が1ヵ所、2階が9ヵ所、計10ヵ所になる。2階の石落としは1階の張り出した屋根で隠されている。

豊磐井

本丸、天守の東側に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸が残っている。この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだものである。井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。高所に関わらず水深37mもあり、現在も満々と水をたたえている。伝承ではこの井戸に抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがある。第二次世界大戦前まで二ノ丸の北側に深い洞穴があったようだが、奥が行き詰っており氷室であったという指摘もある。

埋納遺物

1986年(昭和61年)の天守再建に伴う送電線敷設工事時に偶然検出された埋納遺物で、現在の天守台の南、本丸中央部で出土した。この地点は絵図によると、本丸御殿が建っていたところで、検出層位から江戸時代以前の福知山城整地前に埋納された。出土物は以下の5件。

  • 丹波壺 - 口径16.6 cm、高さ41.6 cm。茶褐色で一部緑色の自然釉が薄くかかっている。この壺の中に他の出土遺物が入っていた。
  • 銅鏡 - 直径は9.43 cm、紐は亀形で、縁は垂直に立ちあがっている。一対の鳥と菊花をモチーフとした双雀菊花文鏡である。
  • 竹筆 - 19本出土した。径0.7-0.9 cm、長さは15-23cmで使用の痕跡は確認できない。
  • 小刀 - 錆びついており、詳細は不明。現存部分の長さ19.3 cm、刃部分の幅は2.6 cm。
  • 銅銭 - 総数は約936枚。原型をとどめていない個体もあり、2-3枚程度の誤差を考慮する必要がある。銭種は40種類で、ばらばらに納められていた。鋳造年次の最も新しい銭は朝鮮通宝2枚である。
壺の内部には内底中央部に鏡面を上にして銅鏡1面が置かれ、竹筆19本と小刀1本が立てかけられ、最後に銅銭が納められていた。壺の内部に水が15cm程度溜まっていたが、竹筆は良好な状態で残っていた。『福知山城の歴史』は「遺物の組成、埋納状況からみても、いわゆる備蓄銭ではなく、何らかの祭祀的な色彩を強く感じるものであり、変形しているものの、地鎮、経塚、祈願などの目的で埋納された」と解説している。

関連事項 

福知山音頭

福知山音頭は江戸時代に出来上がった盆踊りの曲で、「ドッコイセ~、ドッコイセ~」という特徴的なフレーズがある。これは、福知山城の築城中に石垣を運ぶ際、このような掛け声をかけて運んでいたことに由来すると言われている[6]

周辺建造物 

  • 明智藪 (蛇ヶ端御藪)- 由良川の流れを曲げ、度重なる氾濫防止と水運交易発展のために築いた堤防。
  • 御霊神社 - 光秀を合祀する神社。「明智光秀家中軍法」等、直筆の書状を所蔵する。
  • 福知山市佐藤太清記念美術館(福知山市立美術館) - 福知山市名誉市民・文化勲章受章者の日本画家・佐藤太清の作品を展示。初期から晩年に至るまでの日展出品作や花鳥の素描など所蔵は幅広い。作家の画室(アトリエ)の再現やミュージアムショップもある。城址公園内にあり、意匠を城にあわせている。
  • 松村家住宅(京都府指定有形文化財)
  • 丹波生活衣館
  • 福知山市役所

施設情報 

郷土資料館

  • 開館時間
    • 午前9時-午後5時
    • (入館は午後4時30分まで)
  • 休館日
    • 毎週火曜日(祝日の場合は翌日)
    • 12月28日-12月31日、1月4日-1月6日
  • 入館料
    • 大人310円、こども(小・中学生)100円

城跡へのアクセス 

鉄道

JR西日本(山陰本線・福知山線)・京都丹後鉄道宮福線「福知山駅」より徒歩15分

乗用車

  • 舞鶴若狭自動車道 福知山IC → 国道9号 → 京都府道55号
    • 周辺に有料駐車場有り

参考文献 

  • 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』第六巻 京都・兵庫・岡山、新人物往来社、1989年2月、98頁。
  • 福知山郷土資料館『福知山城の歴史』新編、福知山市、2009年3月、3-54頁。
  • 創史社『日本城郭大系』第11巻 京都・滋賀・福井、新人物往来社、1980年9月、154-156頁。
  • 碧水社『復元大系 日本の城』5近畿、ぎょうせい、1992年5月、74-79頁。
  • 相賀徹夫編著『探訪ブックス[城6]山陰の城』小学館、1981年4月、42-56頁。
  • 相賀徹夫編著『城郭と城下町』5 近畿、小学館、1984年4月、94-101頁。

福知山城の口コミ情報

2022年05月09日 crea左京大夫
福知山城



福知山駅から徒歩20分程度、適度なお散歩ができましたよ。貴重な石垣が見れました。

2022年03月01日 契丹
福知山城



駅から歩いて行ける距離にあります。ハートの形をした石垣がいくつかあるそうです。黒井城に行く前に寄りました。

2022年02月27日 まるぺこ右近衛少将
福知山城



下から見上げるのも良し、近くて見るのも良し。転用石が多数使用されて、なかなかの見応え。

2021年11月21日 中々主水
福知山城



当時の築城に思いを馳せることのできる天守台の転用石は必見です!

2021年09月04日 藤吉郎淡路守秀吉
福知山城



緊急事態宣言の為に天守閣には入れませんでした。お土産処と観光案内所も閉まっています。100名城スタンプも押してもらえません。詳しくはWebサイトでご確認ください。

2021年01月03日 七つ尾阿波守
福知山城



光秀が治水の為に作ったと言われる明智薮は是非見学した方が良いと思う。音無瀬橋から見る福知山城は市のお勧めのベストビューだと橋に看板が有ります。

2020年12月26日 イオ紀伊守
明智光秀が話す自販機[福知山城  その他]



飲みものを買うと明智光秀がしゃべる自販機です(2台あるうちの左側)。金額不足で買おうとすると…(笑)

2020年09月07日 #91摂津守
福知山城



バイクで行きました。お城に繋がる陸橋の下に、地元の人が駐輪してたので、それに倣いました。ラッキーです。天守では、入口で荷物を預かってもらえました。土足で入れるので、ブーツを脱がずに済みました。

2020年08月22日 さびぃ
福知山城受付[福知山城  スタンプ]

御城印(300円/枚)販売されています。階段横にウチワ貸出(無料)があり城内で使えます。

2020年08月18日 金森出雲守
福知山城

本丸にある自販機2台のうち光秀がしゃべってくれるのは1台だけです。今日は、敵は本能寺にあり!と叫んだ後、ドッコイセ〜と福知山音頭も披露してくださいました。

2020年08月16日 俺様666大宰少弐国宝5城完
福知山城



昨日、登城しました。16時閉館だそうです。近くの音衛門で栗入りのアイスクリームをいただきました。お土産でお試しケーキとシュークリームを買いました。どれも甘過ぎず、栗が美味しかった。お勧めです。

2019年10月07日 ▲▲▲千ノ坂修理亮
駐車場[福知山城  駐車場]

ゆらのガーデンと共用の駐車場

夜間閉鎖
23:00~8:30

2019年06月06日 高山修理大夫
福知山城



本丸発掘中でじっくり見るという環境ではありません。
大河に備えて急いで整備中という感じです。
本丸に明智光秀のイラストの自販機があります。
お金を少ない状態でボタンを押すと「信長~」のアナウンスが。!!(゜ロ゜ノ)ノ
またちゃんと買うと...
あとは行った方のお楽しみで。

2019年05月26日 長月河内守十六夜
福知山城



令和元年5月26日登城。
転用石たちがたくさん、目の前に‼️
現在、工事中で立入禁止エリアがあり、石垣ぐるっと満喫とは行かず、残念(._.)

駐車場は無料で広い。すぐそばにおしゃれなカフェ、ガーデンがある。

2019年05月04日 つぼすけ
銅門番所[福知山城  遺構・復元物]



この建物は福知山城の銅門の脇(現在の市役所の東)にあったもので、城内にあった建築物の当時の面影を偲ばせるもの。
大正時代に小天守台に移築。昭和59年に現在の位置に。
石碑には詳しい由来が書いています。

2018年11月11日 美濃守せんとくん
福知山城

11/24〜11/25に福知山城で竜王戦がある為、11/19〜11/26は天守閣は臨時休館されます。
本丸広場は11/19〜11/23の正午までと11/26以降は入れますが、11/23正午〜11/25は登城坂から通行止めされます。
と福知山城に看板が出てました。

2018年07月24日 みず
福知山城

スタンプがある郷土資料館は火曜定休です。しかし、福知山駅北口にある観光案内所にスタンプあります。あと、福知山城の中には入れないけど天守や天守台や石垣は定休日でも見ることできます。駅から歩けますが、観光案内所には
レンタルサイクルもあります。

2018年03月22日 ゆい
福知山城

朽木さんのお城です。遺領は3人の息子に分割された。嫡男・朽木宣綱の朽木宗家は6470石、朽木友綱2015石となり旗本に、朽木稙綱は1100石となった。
 この3男・朽木稙綱は、将軍・徳川家光に仕えて若年寄となる出世をし、最終的に土浦藩30000石までなった。子孫は丹波福知山藩主として、明治維新まで存続している。

2017年06月18日 まるき〜主殿助
福知山城

この城の特徴〜!野面積みの中に転用石が多い!
なぜか天守台南側に多く使われている

理由、この地域の豪族等に武力や地位の優位性を見せつけるため、わざわざ近隣から奪ってきて城の石垣にした…とか
風水的な魔除けであったのでは無いかと…学芸員さんの意見。

天守内は資料館!ガラスケース内の資料は撮影禁止!
なぜか伊達政宗、真田幸村の鎧が展示
これは訪問者に喜んでもらう為〜
座敷には兜の試着コーナーがありまーす。子供は喜ぶかも〜

銅(あかがね)門番所は唯一の建物遺構〜(移築)残念ながら福知山城に残ってる"建物"の遺構はこれだけー!

パッと見た目もかっこいい福知山城
続百名城にも選ばれました、是非!

天守入城 320円
駐車場は無料です。

2017年02月24日 織田上総介晃司
福知山城

福知山城東側の駐車場に停めて昇龍橋と呼ばれる太鼓橋を通り登城。

福知山城の遠望は現代チックな昇龍橋や電柱があって私はあまり撮影しようと思わない。

石垣には自然石の他に多くの転用石が使われ、見つけるのも福知山城の散策の楽しみ方です。
大天守と小天守の二層が下層より張り出してるように見えるのは気のせい?

明智光秀築城。だが、光秀の治世はわずか3年。他領主の治世のほうがはるかに長く、天守も松平時代の絵図を元に復元されたが、やはり福知山城は光秀の城である。

2016年07月17日 虎御前淡路守
福知山城

特急はしだてでは、福知山駅到着前、福知山城が見えるところで解説のアナウンスが入ります。お陰で位置関係と距離が分かりました。

2015年12月20日 ソバッソ81.8
福知山城

土師(はぜ)川と由良川の合流地点に、明智のみっちゃんが作った城郭っす。

丹波丹後攻略の足掛かりに作ったそうですが、当時はその二本が雨ごとに氾濫する湿地帯やったらしく、そこに城そして街を作る為に河川整備から始めたそうっす。
竹を植えた堤防を長距離に作って水をブロック、そして税金を免除して街に人を集めたらしいっす。ちなみにその堤防地元で明智藪って呼ばれて、遺構としてまだ残ってます。(京都市にも同じ通称の場所あり)

さて明智側の城郭なのに、山崎の戦い後に破却されずに残ったみたいっす。
転用石の有名な石垣の上に昭和61年(やったと思う)に再建した天守が、資料館として乗ってます。
ここの受付のお姉さんがスゲェべっぴんさん‼︎あの方に会う為だけにもっかい行きたいっす!写真アップしてぇ〜!

そしても一人の受付のおっちゃん、「明智に関する資料閲覧可能」との張り紙があるので、拝見したい旨を伝えると快く会議室へ回してくれました。(ちなみに小天守が会議室)
色んな質問にお答えして下さる親切なお方で、福知山城の成り立ちを理解する事が出来ました。

お二方、ありがとー。

2014年10月16日 ぺんた
福知山城

数日前から始まった企画らしいのですが1000名程度限定(用紙がなくなり次第)に天守入り口でアンケート用紙をもらい後で提出することを約束すると天守と隣接の美術館の入場料それとバスが無料で利用することができます。

アンケート用紙は最終福知山駅よこにある交流プラザふくちやま1Fにあるカフェで用紙を提出すると、なんと310円のカップアイスまでもが無料でもらえちゃいます。

なんとも太っ腹な企画を実施中ですのでこの機会に皆さんも是非福知山城に行ってみてはいかがでしょうか。

タダで良いからまずは来てくださいという福知山市の姿勢にグッと来ました。

2011年10月22日 太政大臣M三郎
福知山城

福知山城は、由良川近くの独立峰に本丸を置く平山城であり、模擬天守や楼門等が再建されています。本丸は、後に拡張を受け幾つかの様式の石垣が混在しますが、南面と天守石垣は、明智光秀の創建当時のもののようです。南面は隅角部が曖昧な穴太積であり、天守石垣には隅角部等に多くの仏塔等の矩形の礎石の転用が見られ、天下統一途上にあって築城に期間を掛けられなかった当時の事情と苦労が垣間見えます。また、天守は南北に細長く、西から大きく複雑に見える平面形であり、攻略目標の山陰を意識したのでしょうか


福知山城の周辺観光情報

御霊神社

市街地の中心に位置する御霊神社は、もとは稲荷社で商売とのかかわりも強く、町の鎮守、庶民の神社として親しまれている。現在は、明智光秀の霊が合祀してあり、光秀ゆかりの神社としてもよく知られている。

詳細はこちら

佐藤太清記念美術館

福知山城の下にある、城の外観をした櫓風建物で福知山市出身で文化勲章を受章した現代日本画家・佐藤太清画伯の見ごたえのある花鳥画を中心に、日本画を展示している。

詳細はこちら

情報提供:福知山市観光振興課

福知山城の周辺スポット情報

 銅門番所(遺構・復元物)

 豊磐井(遺構・復元物)

 銅門番所(遺構・復元物)

 釣鐘門(遺構・復元物)

 内榎原門跡(遺構・復元物)

 天守閣(遺構・復元物)

 小天守(遺構・復元物)

 大手門跡(碑・説明板)

 福知山城碑(碑・説明板)

 松平好房屋敷跡(碑・説明板)

 銅門跡(碑・説明板)

 二の丸跡(碑・説明板)

 伯耆丸(碑・説明板)

 清水口門跡(碑・説明板)

 蛇ヶ花御藪(碑・説明板)

 京口門と番所跡(碑・説明板)

 正眼寺(寺社・史跡)

 法鷲寺(寺社・史跡)

 照仙寺(寺社・史跡)

 明覚寺(寺社・史跡)

 一宮神社(寺社・史跡)

 永領寺(寺社・史跡)

 久昌寺(寺社・史跡)

 成徳寺(寺社・史跡)

 御霊神社(寺社・史跡)

 円浄寺(寺社・史跡)

 照光寺(寺社・史跡)

 善行寺(寺社・史跡)

 福知山城受付(スタンプ)

 福知山観光案内所(スタンプ)

 福知山公園トイレ(トイレ)

 美術館前トイレ(トイレ)

 天守閣前トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 福知山光秀ミュージアム(関連施設)

 丹波生活衣館(関連施設)

 呉服町「街角の森」(その他)

 明智光秀が話す自販機(その他)

 ゆらのガーデン(その他)

 御霊公園(その他)

 福知山市役所(その他)

 福知山駅(その他)

 自衛隊基地(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore