山家城(やまがじょう)
山家城の基本情報
通称・別名
- 甲ヶ峯城、甲ケ峯城
所在地
- 京都府綾部市広瀬町城山
旧国名
- 丹波国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 和久義国
築城年
- 永禄6年(1563)
主な改修者
- -
主な城主
- 和久氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀、土橋
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
上林城(京都府綾部市)[10.0km]
小畑城(京都府綾部市)[12.9km]
石原城(京都府福知山市)[13.1km]
細見辻城(京都府福知山市)[14.5km]
橋爪城(京都府船井郡)[14.5km]
田辺城(京都府舞鶴市)[16.0km]
鬼ケ城(京都府福知山市)[16.9km]
猪崎城(京都府福知山市)[17.2km]
建部山城(京都府舞鶴市)[17.4km]
福知山城(京都府福知山市)[17.5km]
山家城の解説文
山家城の口コミ情報
2024年01月21日 RED副将軍
高槻城[山家城 周辺城郭]
摂津国ではなく丹波国の高槻城です⚠️
大堀切と高く鋭い切岸で硬められた大槻氏一族の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。大槻氏一族の居城と伝わります。
大槻氏は清和源氏の系譜である井上氏の庶流とされ、鎌倉時代に丹波国何鹿郡高津荘に入部して土着。南北朝期には北朝方に与して足利尊氏に従い勢力を拡大しました。
周辺には八田城、栗城、大畠城、高津城など大槻氏が城主とされる城郭が点在しますが関係性についても不明です。
15世紀頃には丹波守護の細川氏に従っていた様で、1489年の丹波守護代である上原氏の横暴に反発して国人衆が一揆を起こした位田の乱では中心となりました。
1575年に織田信長による丹波攻めで明智光秀が攻め寄せると抵抗するも敗れて滅亡。高槻城も周辺の城郭と同様に廃城となったと思われます。
見所
綾部市高槻町甲山の独立丘陵上に築かれています。
頂部の主郭は長さ約40m、幅約30mの広い削平地で南側に大土塁が付き、その背後に土橋付きの大堀切が南郭と分断。主郭西側に虎口が開口し堀底道につながっており、北側には一段下に北郭が配されています。
行き方は、東側の道路沿いに路肩駐車し墓地を経て約5分で辿り着きます。
2023年11月09日 RED副将軍
嶋間城[山家城 周辺城郭]
比高20mでタイパ抜群の大槻氏一族の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
嶋間城(しままじょう)と読みます
築城年代等の詳細不詳。
丹波志には大槻備中守の旧栖とあり、かつて綾部で勢力を奮った有力国人である大槻氏一族の居城とされます。近隣の高城城の支城であったと考えられます。
見所
高城山の西麓にある比高20mの丘陵に築かれています。
東側墓地から登ると直ぐに虎口があり、主郭が広がります。北西背後に土塁を設けられ、南東に一段低い方形土壇とスロープ状の虎口があり、西側下の横堀状の腰郭に続いています。
北側には二郭があったようですが、児童センター敷地となり遺構は削られ消失しています。
今シーズン初の久しぶりに城友さんと綾部市内のマイナー城に攻城。
城友さんは、比高100m以上は致死量という体質をお持ちなので、最初に訪れたのがこの比高20mの嶋間城でした。あっという間に主郭なのでタイパ抜群の良い遺構です。
ちなみに、この日の最高の比高は65mでした。
2023年08月27日 RED副将軍
山家城
山家郷を支配した和久氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1563年に和久義国によって築かれたとされます。
和久氏は、丹波国守護代である内藤氏の家臣である塩見頼勝の庶流とされ、内藤氏の命により何鹿郡に入部して築いたのが甲ヶ峯城です。
1565年に丹波の赤鬼こと黒井城の赤井直正が天田郡に侵攻。和久郷での戦いで守護代の内藤宗勝は討死したため、和久氏を含む天田郡馬廻衆は赤井氏に従いました。
1579年、織田信長による丹波攻めにおいて織田家臣の明智光秀により甲ヶ峯城は落城。和久義国は降伏し、甲ヶ峯城を破却するとの条件で許されました。しかし、破却の命に従わずに和久氏は逃亡し帰農したと伝わります。
1582年、山崎の戦いの軍功により谷衛友が山家を拝領し入城しましたが、谷衛友は山麓に山家陣屋を新たに構えたため、甲ヶ峯城は廃城になった様です。
見所
由良川と上林川の合流地にある標高236mの甲ヶ峯頂部に築かれています。
山頂の主郭部は南北二段に分かれており、南に帯郭を配し、南西下には腰郭を配し、北東背後は大堀切で遮断され、南西尾根先端部は堀切に土橋が架かります。
大手からは土橋を渡ると左へ折れさせ、突き当たりを右へ折り返して腰郭に入る導線。横矢が架かり、竪堀により側面への移動を制限させるなど小規模ながら技巧的な縄張りです。
行き方は、麓の山家城址公園の駐車場を利用。近くの伊也神社が登城口です。比高は130mほどで15分程度の登りで辿り着きました。
2023年04月14日 RED副将軍
山家陣屋[山家城 周辺城郭]
山家藩谷氏の拠点であった陣屋跡🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
1582年、谷衛友により築城。谷氏は、壬申の乱の際には天武天皇に仕えたと云われる美濃国の土豪。谷衛友の父である谷衛好は、斉藤道三、斉藤龍興、織田信長、羽柴秀吉に仕えました。跡を継いだ谷衛友も豊臣秀吉に仕え、各地で転戦。戦功により加増を受けて最終的には丹波何鹿郡山家を領し築いたのが甲ヶ峯城(山家城)です。当初は東側山上の甲ヶ峯城を居城とし、麓に家臣屋敷を構えましたが、やがて甲ヶ峯城を廃して麓の家臣屋敷北側に陣屋を構えました。谷氏は、関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが細川藤孝の斡旋により所領を安堵されたとされます。明治となり1887年の廃藩置県により廃城となるまで谷氏が代々藩主として続きました。
見所
現在は、山家城址公園として整備されています。南側の駐車場から直ぐに模擬城門と城址碑が立ち、一見はよくある公園城かと思いましたが、東西90m、南北180mの広い城域を一周するとなかなか見事な石垣と空堀に驚きました。上林川左岸の断崖上に築かれ、北側に御殿と称される陣屋跡と、南側に中世の甲ヶ峯城麓に敷設された家臣屋敷跡から構成されています。特に陣屋跡の北から西側にかけての空堀と高石垣は必見です。
中世の東側山上にある甲ヶ峯城と併せての訪城がオススメです。
2022年12月31日 tracer_azu
梨子ヶ岡城[山家城 周辺城郭]
玉泉寺に車を停めさていただき裏の獣柵をあけ直登すると竪堀と巡り合うことができました。郭を中心に無数の畝竪がぐるっと張り巡っている構造となっています。一部薮はありますが、それでも堀切や畝竪などは見所ありますし、比高もそれほどないのでサクッと登れてこの遺構なら申し分ないかと思います。
2022年09月18日 ビーンズマン左兵衛督
山家陣屋[山家城 周辺城郭]
しっかりと館の跡が残っており、井戸、石垣などが保存されている。谷出羽守衛友が1万6千石で治めていた。
2022年03月24日 雅楽允最中の雅守
出野城[山家城 周辺城郭]
石垣は当時のものであると思われる。山城だが、整備された超絶急な坂道を歩いて登ることが可能。突き当たり右に長源寺がある道を左折して、auの電波塔があるあたりに登城口の鳥居が見える。
2019年08月03日 ジャスティ大納言タイラー
出野城[山家城 周辺城郭]
鉄塔横の八幡宮鳥居を登れば本丸方面です。四駆の軽自動車なら上がれるかもしれませんが、基本徒歩になると思います。一番上まで徒歩で5分ほどです。
2019年07月09日 【しばぴー】iggy摂政
出野城[山家城 周辺城郭]
《登城口等》
R27出野交差点を県道59号へ折れ、どんつきを東へ進むと間もなくして正面に鉄塔が現れます。鉄塔下に出野八幡宮の鳥居がありますので、そこからの急勾参道を経て徒歩5分ほどでⅠ郭へ。
《遺構》
現参道となっている鉄塔建設のための作業道(地元のおっちゃん談)の開設で城域南側は改変多しとのことです。城域に入ると続いて鳥居があり、鳥居の東側に竪堀が待ってくれてます♪縄張り図では西側にも竪堀があるようですが夏場は藪ってますので、探索困難でしょう。Ⅰ郭に所在の八幡さん東側に土塁(現状低いです)が備わり、北側(北西側)の藪を漕いだ先も土塁で防御♪土塁下にはⅢ郭?があり、外側(北西側)にU字型堀切を配し、北側からの侵入を防ぐ。しかし、堀切の現況はかなり埋まりつつあると言った状況です…
頑張れ出野城!
由良川本流と上林川の合流する綾部市の山家地区にある標高236mの甲ヶ峯山頂に築かれた山城である。地元では「甲ヶ峯城」と呼ばれ、親しまれている。
遺構
現在、この山家城跡には、山家城址公園近くの伊也神社から登ることができる。参道や案内板が整備されているほか、土塁や空堀が当時のまま残っている。歴史
戦国時代には、和久左衛門佐が居城にしたと伝わっている。明智光秀の丹波攻略の際、光秀軍は福知山を平定すると山家に進撃。和久左衛門佐も降伏したが、山家城を破却するとの条件で許されたという。しかし、城域内には「照福寺」という寺があったことから、「(ここは)城ではない、寺である」と称して城郭を取り払わなかったため、天正8年(1580)6月20日、光秀軍により攻め落とされた。
このとき、左衛門佐はいずれともなく逃れたため、光秀は和久氏を探し出して捕らえようと、和知の豪族出野左衛門助と片山兵内にその旨を命じている。