上林城(かんばやしじょう)
上林城の基本情報
通称・別名
- 生貫山城、蝸牛ケ城
所在地
- 京都府綾部市八津合町城下
旧国名
- 丹波国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 上林晴国
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 上林氏、高田治忠、藤懸氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、堀切、(発掘調査:礎石、畝状竪堀群)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
山家城(京都府綾部市)[10.0km]
行永城(京都府舞鶴市)[10.4km]
田辺城(京都府舞鶴市)[11.8km]
建部山城(京都府舞鶴市)[14.6km]
泉源寺城(京都府舞鶴市)[14.7km]
今宮城(京都府南丹市)[15.1km]
中山城(京都府舞鶴市)[16.4km]
砕導山城(福井県大飯郡)[18.8km]
小畑城(京都府綾部市)[19.4km]
橋爪城(京都府船井郡)[19.8km]
上林城の解説文
上林城の口コミ情報
2025年06月14日 ᴿᴱᴰ 副将軍
日置谷城 東城[上林城 周辺城郭]
日置谷城の入り口を堅める小規模城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代や築城主等の城史は不詳。
当地の有力土豪である上林氏の属城とも云われますが、西側の別尾根にある日置谷城の技巧的な縄張りは織豊系の特徴であり、明智光秀の勢力が改修を行った可能性が指摘されています。
見所
日置谷城から東へ200mの北東に伸びた別尾根に日置谷中城があり、さらに東へ100m進むと別尾根に日置谷東城があり、東西に繋がる三つの峰にそれぞれ城郭遺構があります。
日置谷東城は上林禅寺の背後に位置し、北東に伸びる尾根上に築かれています。
東西に段郭が連なり、西側に薄い堀切が二条認められます。
立地的に日置谷城の出城として機能したと思われます。
2025年06月13日 ᴿᴱᴰ 副将軍
日置谷城 中城[上林城 周辺城郭]
日置谷城の東側をを堅める小規模城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代や築城主等の城史は不詳。
当地の有力土豪である上林氏の属城とも云われますが、西側の別尾根にある日置谷城の技巧的な縄張りは織豊系の特徴であり、明智光秀の勢力が改修を行った可能性が指摘されています。
見所
日置谷城から東へ200mの北東に伸びた別尾根に築かれています。さらに東へ100m進むと別尾根に日置谷東城があり、東西に繋がる三つの峰にそれぞれ城郭遺構があります。
日置谷中城は北側に土橋の架かる堀切と土塁が設けられており南側は自然地形です。東側には腰郭が敷設。
北側のみ防御を堅める必要があったのか、築城途中であったのかは不明です。
2025年06月13日 ᴿᴱᴰ 副将軍
日置谷城[上林城 周辺城郭]
南麓まで続く大規模な竪堀と畝状竪堀群が特徴的な詳細不明の山城🏯
オススメ度 ★★★★★
日置谷城(へきたにじょう)と読みます
築城年代や築城主等の城史は不詳。
当地の有力土豪である上林氏の属城とも云われますが、石垣や技巧的な縄張りは織豊系の特徴であり、明智光秀の勢力が改修を行った可能性が指摘されています。
見所
上林禅寺背後の標高240mの丘陵上に築かれています。
南北に長く土塁が囲繞する主郭が特徴的で、東西2ヶ所に虎口が開口。東虎口は平虎口で南に櫓台状に高さがあり桝形状の空間に繋がります。西虎口は食い違い虎口で土塁囲みの馬出し状の小郭に繋がります。
主郭南下の二郭から南麓まで続く長い竪堀が最大の見所で、竪堀に囲まれた三郭、四郭が南に連なり、四郭の南中央には平虎口が開口。
主郭と二郭の周囲は畝状竪堀群で堅められ、主郭背後の北尾根と西尾根は堀切で遮断されています。
2025年06月08日 生駒伊予守江現蔵✿
日置谷城[上林城 周辺城郭]
日置谷城(へきたにじょう)は丹波国綾部市の上林川北岸にあり、蝸牛城と呼ばれる上林城とは川を挟んで相対する標高240mの山に築かれています。築城年代、城主共に不明です。
6月初旬の天気が良いリア日和、直登クラブでの丹波遠征、本日のラスト8城目です。
7城目にリアした上林城本丸から全景を見たのが16時、あと1城なら時間的に余裕でいけるなぁと思っていたのですが、国宝二王門に寄り道してしまい、登り始めたのが17時30分、日が長くなってきたとはいえギリギリです。
縄張り図を見ると城は3つに分かれています。上林禅寺から獣除けの柵扉を開閉し、東から西へ、古い時代の東城、中城、日置谷城の順で探索します。讃岐を寅の刻出発の丹波遠征、さすがに疲れてきますが、あと一踏ん張り。
道が無いので直登し、5分程で段になっている標高160mの尾根にある段曲輪地形の東城に到着。防御機能はあまり見られなく、土塁も確認出来ませんでしたが、中城との間に薄い竪堀がありました。
隣の中城は、標高220m地点の南北に伸びた尾根に築かれていて、北側からの攻撃に備えるように、北に土橋の架かる堀切と土塁を確認しました。曲輪にはそんなに力を入れてない感じです。日置谷城との間に大きい竪堀がありました。
そしていよいよメインの標高240m地点の南北に伸びた尾根に築かれた日置谷城へ。まず東側の立派な長い竪堀に到着。曲輪を挟んで西側にはU字型の堀切2つを確認、東の竪堀と並行して二重竪堀もあります。この縄張りは素晴らしい!
北にある主郭周りは土塁で囲み、東西に小さい曲輪が付随。西と北にある大堀切も素敵です。段曲輪の周りは畝状竪堀、堀切で防御を固めています。食い違い虎口もあり、山城ファン必見の名城です。
18時を過ぎて、畝堀の影が出て写真でも地形が分かります。竪堀から麓へと続く、つづら折りの当時の大手道がありました。
城友さん達と、丹波遠征のラストを飾るに相応しい城だったなぁと話しながら上林禅寺に戻り、1時間20分の楽しい山歩きでした。
暑くなってきたので山城シーズンも終わり、今回まだ未訪の気になる城があるので、秋以降に直登クラブで再訪したいと思います。
2025年06月08日 生駒伊予守江現蔵✿
光明寺 二王門[上林城 寺社・史跡]
6月初旬の直登クラブの丹波遠征で、たまたま次の城に行く前に寄った公共トイレの近くに光明寺がありました。説明板を見ていると、国宝の二王門があるという事で、徒歩で山を降って見に行きました。
二王門とは、左右に仁王像(金剛力士像)が置かれた門のことで、寺の中に悪いものが入るのを防いでいます。
門の柱の上部には、建立当時、最新式だった装飾があり、棟札から 1242年着工1253年竣工とされ、1954年、京都北部唯一の建造物として国宝に指定されました。
平成28年から修復工事が行われ、平成30年に約750年前の姿を取り戻しました。鮮やかな朱色で、荘厳な雰囲気があり、パワースポットです。門好きじゃなくても見る価値ありです。
2025年05月16日 ᴿᴱᴰ 副将軍
八田城[上林城 周辺城郭]
上杉氏発祥の地である上杉荘の詰城
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。
上杉氏の居城である上杉弾正屋敷の東側に位置する山城であるため上杉氏の詰城と考えられています。
上杉氏は、藤原北家勧修寺流の系譜であり、下級貴族である地下家の藤原重房が、宗尊親王が鎌倉幕府将軍に就任したことに伴い鎌倉へ下向。その功により御家人となり、丹波国何鹿郡上杉荘を拝領して上杉氏を称したのが始まりとされます。
室町時代には足利氏と血縁を結び、足利尊氏の生母は上杉重房の孫にあたります。生母の実家として上杉氏は重用され、関東管領を世襲して関東に広く勢力を広げました。
戦国大名となった上杉謙信や五大老になった上杉景勝が輩出されたことは有名です。
見所
上杉荘内の中央西側にある標高約180mの丘陵上に築かれています。
山頂に主郭を置き、西側下の尾根に副郭を配した小規模城ですが、高く鋭い切岸が見事であり、主郭の四隅の下は土塁が付いた堀切で遮断されています。
行き方は、西側麓に水道施設があり、その脇の階段を上がって山頂を目指せば辿り着きます。比高は約70mで水道施設前に一台くらいの駐車スペースがあります。
2023年04月03日 ᴿᴱᴰ 副将軍
上林城
切岸が見事な上林氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。在地土豪の上林氏の居城。上林氏は、清和源氏の系譜である赤井氏の一族とされ、足利尊氏に従い戦功をあげた赤井秀家は何鹿郡上林庄を地頭として拝領し上林氏を名乗ったのが始まりと云われます。
当地の有力土豪でしたが、1575年に織田信長による丹波侵攻において勢力を失い明智光秀に従いました。その後は、明智光秀家臣の高田治忠が城主となりました。
高田氏は関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となり、代わって藤懸氏が入封し麓に藤懸陣屋を築きました。
上林氏の一族は宇治で茶業にも携わっており、豊臣秀吉の時代には日本一の大茶業師、江戸時代には幕府の御物茶師の頭取として名を馳せました。現在でも、日本コカコーラの緑茶ブランドである「綾鷹」の開発に協力した上林春松本店は子孫にあたります。
見所
山頂に主郭を配し、南側は石垣により一段上がっていて櫓台の様になっています。天守台と呼ばれていますが櫓台と思います。主郭の南側尾根筋には南郭が美しい造形で広がります。主郭と南郭の間には堀切があった様ですが登城路となり消失している様です。
主郭東に東郭、北に馬掛郭、西に西郭が設けられ、西郭の南東側面には発掘調査で畝状竪堀群が見つかったそうです。いずれの郭も鋭い切岸が特徴的ですが、公園化による改変を受けている様にも見えます。
現在は公園となり駐車場完備で登城路もキレイに整備されています。桜とモミジが植栽されており、桜の季節に訪城しましたが桜の名所としても楽しめました。
2021年12月12日 近江守フロクニ
八田城[上林城 周辺城郭]
城の西側に有る給水設備の南から登城開始。山の中腹に有る貯水設備に至るルートが整備されているのでそこまで進み、そこから東に尾根伝いに進むと頂上手前に堀切りが有る。その先に広い主郭が見える。
1枚目主郭 2枚目給水設備から先 3枚目給水設備 4枚目貯水設備
古城山の名が残るこの丘陵上には、かつて上林氏の居城が築かれていた。上林谷のほぼ中央に位置するこの独立丘陵上に構えられた城は、上林城あるいは生貫山城、蝸牛ケ城とも呼称される。
歴史
上林氏は、丹波氷上郡の土豪赤井氏の一族で、足利尊氏に従って功を立てた赤井秀家がこの地何鹿郡上林庄に住み、初めて上林姓を称したと言われている。天文2年(1533)の光明寺再建奉加帳には上林一族11名が有力施主として名を連ねていたことから、この頃までには上林氏が上林城を拠点に上林谷一帯を治める大きな存在となっていたようだ。構造
上林城址は昭和53年~56年に発掘調査され、城の規模や構造が明らかになった。城は、丘陵頂部の本丸を中心として東西南北に廊を配している。発掘で検出された石垣などの数々の遺構から、この城が高度な築城技術による本格的な居館であったことが判明。また、多量の出土遺物からは、この城の最盛期が16世紀前半であることも分かった。