上林城(かんばやしじょう)
上林城の基本情報
通称・別名
- 生貫山城、蝸牛ケ城
所在地
- 京都府綾部市八津合町城下
旧国名
- 丹波国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 上林晴国
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 上林氏、高田治忠、藤懸氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、堀切、(発掘調査:礎石、畝状竪堀群)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
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-
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上林城の解説文
上林城の口コミ情報
2023年04月03日 RED副将軍
上林城
切岸が見事な上林氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。在地土豪の上林氏の居城。上林氏は、清和源氏の系譜である赤井氏の一族とされ、足利尊氏に従い戦功をあげた赤井秀家は何鹿郡上林庄を地頭として拝領し上林氏を名乗ったのが始まりと云われます。
当地の有力土豪でしたが、1575年に織田信長による丹波侵攻において勢力を失い明智光秀に従いました。その後は、明智光秀家臣の高田治忠が城主となりました。
高田氏は関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となり、代わって藤懸氏が入封し麓に藤懸陣屋を築きました。
上林氏の一族は宇治で茶業にも携わっており、豊臣秀吉の時代には日本一の大茶業師、江戸時代には幕府の御物茶師の頭取として名を馳せました。現在でも、日本コカコーラの緑茶ブランドである「綾鷹」の開発に協力した上林春松本店は子孫にあたります。
見所
山頂に主郭を配し、南側は石垣により一段上がっていて櫓台の様になっています。天守台と呼ばれていますが櫓台と思います。主郭の南側尾根筋には南郭が美しい造形で広がります。主郭と南郭の間には堀切があった様ですが登城路となり消失している様です。
主郭東に東郭、北に馬掛郭、西に西郭が設けられ、西郭の南東側面には発掘調査で畝状竪堀群が見つかったそうです。いずれの郭も鋭い切岸が特徴的ですが、公園化による改変を受けている様にも見えます。
現在は公園となり駐車場完備で登城路もキレイに整備されています。桜とモミジが植栽されており、桜の季節に訪城しましたが桜の名所としても楽しめました。
2021年12月12日 近江守フロクニ
八田城[上林城 周辺城郭]
城の西側に有る給水設備の南から登城開始。山の中腹に有る貯水設備に至るルートが整備されているのでそこまで進み、そこから東に尾根伝いに進むと頂上手前に堀切りが有る。その先に広い主郭が見える。
1枚目主郭 2枚目給水設備から先 3枚目給水設備 4枚目貯水設備
古城山の名が残るこの丘陵上には、かつて上林氏の居城が築かれていた。上林谷のほぼ中央に位置するこの独立丘陵上に構えられた城は、上林城あるいは生貫山城、蝸牛ケ城とも呼称される。
歴史
上林氏は、丹波氷上郡の土豪赤井氏の一族で、足利尊氏に従って功を立てた赤井秀家がこの地何鹿郡上林庄に住み、初めて上林姓を称したと言われている。天文2年(1533)の光明寺再建奉加帳には上林一族11名が有力施主として名を連ねていたことから、この頃までには上林氏が上林城を拠点に上林谷一帯を治める大きな存在となっていたようだ。構造
上林城址は昭和53年~56年に発掘調査され、城の規模や構造が明らかになった。城は、丘陵頂部の本丸を中心として東西南北に廊を配している。発掘で検出された石垣などの数々の遺構から、この城が高度な築城技術による本格的な居館であったことが判明。また、多量の出土遺物からは、この城の最盛期が16世紀前半であることも分かった。