砕導山城(さいちやまじょう)
砕導山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福井県大飯郡高浜町宮崎
旧国名
- 若狭国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 逸見氏
築城年
- 永正年間(1504〜1521)
主な改修者
- -
主な城主
- 逸見氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、土橋
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
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砕導山城の解説文
砕導山城の口コミ情報
2023年06月23日 別損山城守変櫓994重砲隊
砕導山城
佐伎治神社から登山道あります。
標高117mの山城。多くの腰曲輪、堀切、畝状竪堀など有り、手入れが良くされており、あたかもグランドキャニオン❓のような巨大な堀切がよくわかり、エメラルドな海に浮かぶモン・サン・ミシェル風❓な高浜城を眼下に見下ろせます。
特に竹の処理がなされており、切岸の様子がよくわかります。
同城と高浜城の御城印・佐伎治神社⛩️御朱印共、同神社本殿にあります。若狭のおすすめ城です♪
2023年06月22日 カズ
砕導山城
駅から近く、城内の道が整備されており、ほぼ緩やかで、訪れやすい城の代表的なものだと思いました。曲輪の数が多く、名前が付けてある曲輪はいずれも大きく、とても万石に満たない国人領主の城とは思えない規模です。また、曇り空の下での登城でしたが、登城路は適度に明るく、要所々々からの眺めも楽しめました。
2023年04月16日 (紀伊守)
砕導山城
駐車場あり、トイレあり、道標も所々あります。
2022年06月07日 RED副将軍
砕導山城
福井県内最大規模の山城🏯凄まじい数の段郭群に圧倒されます。
オススメ度 ★★★★★
砕導山城(さいちやまじょう)と読みます。
築城年代は不詳。若狭国守護武田氏の支族である逸見駿河守昌経により築城。
逸見氏は逸見党と呼ばれ、若狭武田氏の有力家臣でした。
1560年頃に武田義統とその父である武田信豊との間で内紛が勃発。それに乗じて1561年に逸見昌経は丹波国八木城主松永長頼の支援を受けて、国吉城の粟屋勝久とともに謀反を起こします。逸見氏は砕導山城に籠城し、武田義統は越前の朝倉氏から援軍を借りても戦いは半年に及んだとされます。武田朝倉軍は1万1千の大軍勢であったと云われています。
最終的に逸見昌経は敗れましたが勢力は失われず、高浜城を新たに築いて居城とします。後に越前侵攻を目指していた織田信長に仕え、若狭衆の筆頭格に上り詰めました。
見所
地元の保存会により極めて良好に整備されていました。遺構を破壊することなく適度な整備は素晴らしいです。
天王山曲輪、千丈ヶ嶽曲輪、妙見宮曲輪、愛宕宮曲輪、佐伎治宮曲輪の大きく5ヶ所のブロックに分かれ、特に天王山曲輪は雛壇状に帯曲輪が無数に連なり圧倒されます。北東部には食い違い虎口も確認。武田朝倉軍の大軍勢でも簡単に落ちなかったことが想像できます。
千丈ヶ嶽曲輪の南西にはかなり大規模な二重堀切、北に畝状竪堀、北東には土橋を確認。愛宕宮曲輪と妙見宮曲輪は神社建立により改変されていますが、愛宕宮北側、妙見宮南側はそれぞれ二重堀切で遮断されています。
行き方は、佐伎治神社を目標にして下さい。整備された登城路や案内図があり迷うことは無いと思います。何度も書きますが素晴らしい整備です。保存会の方々に感謝感謝✨
写真
①千丈ヶ嶽曲輪の南西にある二重堀切
②天王山曲輪の段郭群
③天王山曲輪の土塁
④天王山曲輪の食違虎口
⑤千丈ヶ嶽曲輪北の畝状竪堀
⑥千丈ヶ嶽曲輪北東の土橋
⑦妙見宮南側の二重堀切
⑧愛宕宮北側の二重堀切
2022年05月14日 国府左京大夫城介
砕導山城
若狭では最大級の山城で逸見氏の居城
【歴史】
築城年代は不明であるが、逸見氏によって築かれた。逸見氏は度々武田氏に対して叛逆しており、永正14年(1517)には逸見国清、天文7年(1538)、永禄4年(1561)、永禄9年(1566)には逸見昌経が反旗を翻しており(天文7年に関しては行っていない可能性もある)、永正14年から永禄4年までの間に築かれた可能性がある。
永禄4年の反乱にあっては、長い籠城戦の末、落城し、廃城となった。この反乱には、国吉城主の粟屋勝久も立て籠もっていたらしい。
【遺構】
高浜城から南に1.5kmに位置する妙見山(標高142m/比高132m)全体に築かれている。11の曲輪群、土橋、堀切、虎口、切岸、竪堀が極めて明瞭に残っている。特に曲輪の数が尋常でないほどある。11の曲輪群の内、名称が付いているもの(天王山、千丈ヶ嶽、愛宕宮、妙見宮、忠魂碑、佐伎治)は、史料がないため仮称となっている。
【感想】
若狭だけでなく、福井県においても最大級の山城であることは間違いありません。福井県で行ったことのある一乗谷城、戌山城、後瀬山城と比較しても、頭一つは抜け出している位、城域が広いです。電車の都合等もあり、四時間ほどの滞在でしたが、隅々まで回りきることはできませんでした。恐らくは半日は見た方がいいのかもしれません。
城内は保存会によって見学ルートがあるので、案内通りに行けば、特段迷うことなく、この城の見所である堀切や切岸、土橋を見逃すことはありません。しかし、見学ルートを外れた所にも、素晴らしい遺構が残っています。
特に、天王山曲輪の北東にある喰違虎口、千丈ヶ嶽曲輪下に南西にある二重堀切、愛宕宮曲輪北側の二重堀切、妙見宮曲輪南側の二重堀切は中々のものだと思います。ただし、場所によってはかなりの急斜面を降りていくことになるので、無理はしないでください。
という訳で、若狭攻めをする際は、国吉城・後瀬山城だけでなく、この砕導山城も訪れてください。体力的には後悔をするかもしれませんが、期待は決して裏切らないと思います!
【アクセス】
若狭高浜駅から徒歩で7分ほどにある佐伎治神社から登っていく。
【写真】
①竪堀
②喰違虎口
③二重堀切(愛宕宮下)
④二重堀切(妙見宮下)
⑤切岸(千丈ヶ嶽曲輪)
⑥畝状竪堀
2022年03月26日 マイ兵庫助リバ【扇に月丸】
砕導山城
砕導山城は天王山曲輪、千丈ヶ嶽曲輪、妙見宮曲輪、愛宕宮曲輪、佐伎治宮曲輪と大きく分けて5つの曲輪に大別される城郭です😚特に天王山曲輪の周辺では後述の籠城戦の際に増設されたであろう夥しい数の雛壇状🎎の帯曲輪が取り巻いており、「曲輪祭り」状態を楽しめます←1番写真で伝わらないやつって言うの禁止🚫😂
また、千丈ヶ嶽曲輪までの途中に出てくる堀切凹は2条が良好な状態で遺っていますし、反対の西側には土橋👃も見られ、同曲輪が砕導山城の主郭であった可能性が高いと云われています🤔最高所の妙見宮曲輪からは高浜城を望むことができ、海近物件🏖ならではの眺望を楽しめます🤩
登城日はあいにくの雨☔️だったので、滑りやすい土質に苦戦しましたが、ある程度の倒木アスレチックはあるものの良く整備されており、遺構も見やすかったです😚保存会の整備に感謝です🙇♂️佐伎治神社⛩にお断りして、駐車場をお借りしました😌
〜以下、登城口の解説板より〜
砕導山城跡
逸見昌経は、若狭 地方を治めた守護大名武田氏の重臣である。1561年(永禄4)年、重臣の一人である粟屋氏の一部や丹波の松永長頼と手を組み、武田氏に謀反を起こした。砕導 山城はその拠点となり、逸見側は8,000人が結集したが、武田•朝倉連合軍11,000人に攻められ半年で落城したとされる。