石山城
石山城([砕導山城 周辺城郭])
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石山城の口コミ情報
2024年07月13日 RED副将軍
武田四老のひとつ武藤氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。武藤氏により築かれたとされます。
武藤氏は、若狭国守護である武田氏の四家老のひとつに数えられた重臣であり佐分利殿と呼ばれていました。戦国時代の城主として武藤友益の名が伝わります。
1570年の織田信長による越前朝倉攻めは、武藤友益の討伐を口実として出陣しそのまま越前朝倉攻めに向かっています。
若狭国守護の武田元明は将軍足利義昭の甥にあたりますが、朝倉義景により越前に拉致され軟禁。事実上、若狭は朝倉氏の支配下となりました。足利義昭は若狭武田氏の再興を目指すも、若狭武田家臣団は足利義昭派と朝倉義景派に分裂していたため、織田信長は足利義昭の命を受けた幕府軍として朝倉派の武藤友益の討伐を名目に出陣しました。
しかし、浅井長政が離反し朝倉氏に転じたため、織田信長は金ケ崎の退き口として撤退戦を強いられます。
織田信長は京に戻ると、明智光秀と丹羽長秀を武藤友益のもとへ送り降伏させ、石山城の破却と母を人質とします。
しかし、反信長勢力として本願寺が決起すると朝倉・浅井氏も呼応して近江に進出し比叡山で織田信長と対峙。武藤友益も蜂起し織田信長に付いた山県氏の賀羅岳城を攻め落としました。
しかし朝倉・浅井氏が織田信長との姉川の戦いで敗れると、武藤氏は織田信長により所領を没収され、逸見昌経に与えられました。
見所
佐分利川の流域一帯を見渡せる標高190mの山塊に築かれています。
山頂に主郭を置き、北へ伸びる尾根上に階段状に郭が連なる連郭式。
尾根から四方に伸びる支尾根をそれぞれ多重堀切で遮断しています。特に主郭から東と南東の支尾根は三重堀切で遮断。南東の三重堀切は発掘調査中でしたが、東の三重堀切は見事に残っていました。他にも南の支尾根は二重堀切、西と北の支尾根も堀切で遮断されています。
発掘調査が続いており、礎石が多数検出されています。
北端と東端は道路開通時に消失した様です。
行き方は、城域東側の県道16号がループする真下に登城口があります。分かりにくいですが旧道沿いに登城口があり駐車スペースもあります。比高は約130mです。