谷小屋城(たにのおやじょう)
谷小屋城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福井県小浜市上中井
旧国名
- 若狭国
分類・構造
- 山城
天守構造
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築城主
- 寺井賢仲
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 寺井氏(武田氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、櫓台、土塁、堀切
指定文化財
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再建造物
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周辺の城
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後瀬山城(福井県小浜市)[5.0km]
小浜城(福井県小浜市)[6.8km]
小浜藩台場(福井県大飯郡)[9.3km]
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砕導山城(福井県大飯郡)[14.1km]
高浜城(福井県大飯郡)[14.4km]
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今宮城(京都府南丹市)[22.5km]
朽木城(滋賀県高島市)[22.6km]
谷小屋城の解説文
谷小屋城の口コミ情報
2024年05月30日 RED副将軍
大塩城[谷小屋城 周辺城郭]
小規模ながら技巧的な縄張りの大塩氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。1465年に大塩吉信により築かれたと伝わりますが諸説あります。
大塩氏は、播磨国北脇城の大塩氏の一族とされ、若狭入部の経緯は不明ですが若狭守護である武田氏の家臣であったとされます。
大塩氏代々は長門守を称し、大塩城を居城とし、吉信、吉次、吉忠、助秀の四代が続いたと伝わります。
1562年、四代当主の大塩助秀は、湯岡城の南部久方と争うも敗れ、国吉城の粟屋越中守を頼って落ち延びましたが、大塩城は焼き払われたとされます。
見所
口田縄集落の背後に聳える標高134mの大光寺山に築かれています。
最高所にある南城と、北へ伸びる尾根の小ピークに築かれた北城で構成されています。
南城は、最高所に主郭を置き、北に二郭、東側面に帯郭が配されており、主郭と二郭は折れを伴う土塁囲みです。
二郭の北西部と主郭の東側に石列の伴う虎口が開口し、主郭の南背後の尾根は堀切で遮断しています。背後の堀切には3本の土橋が架かり障子堀状になっているのが特徴的ですが、後世の改変であるとの指摘があります。
北城は単郭であり、南端を高土塁と大堀切で遮断しています。
小規模ながら技巧的な縄張りであり、大塩氏のものではなく、その後にこの地を支配した越前朝倉氏により改修されたものと推測されています。
行き方は、大光寺を目標に設定。本堂南側の墓地を進むと整備された登城路があります。比高は約100mです。
2020年02月11日 iggy摂政
谷小屋城
《登城道等》
まずは、麓の妙祐寺を目指します。
手前左側のお墓に通じる小路を妙見社(跡)まで登ります。
フォトで先人方々がコメントされていますように、道はないのでそこから気合いを入れて、右手の山を直登します。
道中、所々、城道か?と思しき道らしいものを感じますが、体をなしていませんので直登するよりほかはありません。
《遺構》
登りきる(15~20分)と1郭(東郭)に到達し、西へ進むと間もなくして1郭2郭(主郭)間の堀切が姿を現します。
さらに西へ進むと2郭(主郭)に至ります。
主郭北端にL字型土塁(やや甘い)を備え、西側背後には4条の堀切(東寄りの小郭は3郭とされ、中ほど2条は空堀か?)を配し尾根を断つ。
なお、主郭(最高所)東側直下に半円形の郭があり、南側に設けられた登り土塁(添付写真、かなりしっかりしているよ♪)を通らなければ主郭へ渡れない構造となっているが、これは本城特有の防御施設とされ見所となります。
また、外側(西)堀切からさらに西へ登る(比高60m、約10分直登)と4郭(詰城)に到達します。
4郭の北端には、高さ170~180cmのL字型土塁(添付写真)が備わり、北側背後に2重堀切を、南側に1条堀切を配し防御する。
全長約500mの直線的な縄張りですが、高低差を利用し防御しているなかなか素敵な城跡だと思います♪
遺構も比較的よく残っているので、引き続き踏ん張ってくだされ谷小屋城!
いやぁ、良かったです♪
城の南山麓には西相生から流れる南川支流があり、北側には同じく本流にそそぐ支流があって山城を三角状に囲んでいる。城の造成されている稜線の南北両側面は急斜面となっており峻険な様相を呈している。
城郭は妙祐寺の裏山、海抜170メートルの山頂に先端部を置き、それより西側稜線400メートルの間に造られており最高所との比高差は70メートル余となる。
先端部は東西に約60メートル、最大幅10メートルを測り、階段状に3郭が連続する。郭の東側先端には一段下がって1郭を造成し、さらに北側下段にも小郭を付属させている。
それより50メートルほど自然斜面を進むと海抜180メートルラインに平坦地があり、7郭が連続して造成されている。本郭はこの城のうち、もっとも規模の大きいもので、全長120メートル、最大幅20メートルが計測される。
この郭の先端はやや突出した稜線の東側終端にある。それより西へ向かって階段状に下がる構造となっており、6郭が認められるものでいずれも小郭である。このうち、第5・6郭の南川には段下がりの帯状郭を付属させ最西端郭へと続く。
西端郭は本城中の単独郭として最大のものであり、全長35メートル、幅20メートルを測る。これがおそらく主郭となるものであろう。これより西側へいったん落ち込み約30メートルの間は馬背状の平坦な稜線となるがそこには三段に空堀を掘って防備している。堀の終わりからは自然斜面となり100メートルほどゆるやかに上昇するが、それより急激な斜面となって海抜244メートルの山頂城郭へ到達する。
ここは稜線に突出して一山を形成し、郭は山頂平坦地を巧みに利用して築城されている。前2郭から離れて造営されていることは地形上の理由もさることながら、加斗・勢方面まで望見できる地勢からと考えられ、見張り台・詰城としての要素が推測される。