熊川城(くまかわじょう)
熊川城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福井県三方上中郡若狭町熊川
旧国名
- 若狭国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 沼田統兼
築城年
- 永禄年間(1558〜1570)
主な改修者
- -
主な城主
- 沼田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、竪堀、櫓台
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
伊井城(滋賀県高島市)[9.2km]
朽木城(滋賀県高島市)[9.6km]
大倉見城(福井県三方上中郡)[9.7km]
新保山城(福井県小浜市)[9.8km]
田屋城(滋賀県高島市)[11.2km]
清水山城(滋賀県高島市)[14.1km]
田中城(滋賀県高島市)[14.6km]
後瀬山城(福井県小浜市)[15.4km]
小浜城(福井県小浜市)[15.5km]
細川城(滋賀県大津市)[17.8km]
熊川城の解説文
熊川城の口コミ情報
2024年09月07日 三河守ぱーる
熊川城
熊川宿資料館 宿場館の裏(陣屋跡)から登りました。少しすると竪堀や曲輪が表れ、進むと15分くらいで主郭に着きます。整備されていますが、9月の初めはまだ暑いからか誰もいませんでした。
公共交通機関利用の場合は近江今津から小浜行きのバスに乗り途中若狭熊川宿で降りると便利です。今年は春〜秋までの土日祝日に敦賀、三方方面からもバスが出ているようです。朽木に行くバスがあるとなお良いなぁと思いましたがそれはないみたいです。
2024年06月12日 RED副将軍
膳部山城[熊川城 周辺城郭]
若狭武田氏家臣である松宮氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。城主の名に松宮玄蕃清長が伝わります。
松宮氏は若狭武田氏の家臣であり、松宮清長は武田義統に仕えていました。
1569年、松宮氏は自らに従属していた沼田氏の熊川城を奪い若狭と近江を結ぶ街道を掌握します。その後、若狭衆として織田信長に従うと1570年の朝倉攻めの際には熊川城を織田信長の宿所としたとされ、1573年の朝倉攻めにも参陣。
1582年に本能寺の変で織田信長が没すると、松宮氏は明智光秀に味方した武田元明に従ったため、山崎の戦い後に没落しました。
見所
標高292mの膳部山に築かれています。
南北に伸びた尾根上に築かれた連郭式であり城域は広く南北約240mにおよびます。
最高所の主郭を中心に階段状に郭が北西尾根と南尾根に連なりますが登山道により一部が削られている様です。
城域南端と北東尾根、北西尾根に堀切が残り、南端堀切は登山道で一部改変を受けている様に見えますが、北西の堀切は明瞭に残ります。
南尾根を進むと瓜生上砦、瓜生下砦と続きますので併せての訪城をオススメします。
行き方は、脇袋公民館に駐車させてもらい、その奥の谷筋に登城口があります。登城路は整備されており比高は約240mです。
2024年05月03日 RED副将軍
安賀里城[熊川城 周辺城郭]
周囲を畝状竪堀群が張り巡らされた粕屋氏の出城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
安賀里城(あがりじょう)と読みます
築城年代は不詳。天文年間(1532年〜1555年)に粟屋光若により築かれたと云われています。
粟屋氏は若狭国守護の武田氏重臣であり、山内城の粟屋光若は天文年間に安賀荘の代官に任じられており、この頃に築かれ山内城の出城として機能したと考えられています。
見所
丹後街道沿いで郡境の倉見峠も押さえる標高147mの山塊に築かれています。
小規模な単郭の城郭で、主郭には金比羅神社が鎮座し東側背後は土塁と堀切で遮断されています。
東側以外の三方は畝状竪堀群が張り巡らされており最大の特徴です。
西側と南側は明瞭に確認できますが、北側は風化しており二条の竪堀のみ明瞭に残っています。
行き方は、諦応寺を目標に設定。裏山が城域であり尾根に取り付き登ると辿り着きます。比高は約80mで15分程度でした。
西側麓の安賀里生活改善センターの北側にも参道の登り口がある様です。
2023年05月24日 忍びⅡ
熊川城
宿場町から約15分で本丸まで行けますので、初めて山城を訪れる方にお勧めです。遺構も良く確認できます。駐車場も十分あります。御城印もお忘れなく!
2023年01月18日 RED副将軍
熊川城
主郭背後の多重堀切、大手の段曲輪と畝状竪堀が見事な沼田氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★★
永禄年間(1558年~1570年)に沼田統兼により築かれたと云われます。
沼田氏は、上野国の沼田氏の庶流で鎌倉時代にこの地に入部し、1351年に足利尊氏から瓜生庄下司職を賜わり、室町時代は室町将軍家直属の奉公衆として活躍しました。
1562年には若狭国守護の武田氏家臣である松宮玄蕃允により攻められ沼田氏は近江国に退去。その後は松宮氏の所領となりました。
1573年に越前朝倉氏が滅亡すると、若狭国には丹羽長秀が入封し、熊川城も丹羽長秀の支配下となりましたが、天正年間(1573年〜1593年)に破却されたと云われます。
見所
北川と河内川の間を延びる標高180mの尾根筋先端に築かれています。
ピークに主郭を配し、背後の西側尾根筋は三重堀切で分断されており、南側の尾根筋も二重堀切で分断されています。主郭南側斜面は畝状竪堀も確認できます。
主郭北東尾根が大手であり尾根筋を段曲輪が美しく連なり、先端部は畝状竪堀が配されています。
シンプルな縄張りながらも整備が行き届いており、多重堀切に畝状竪堀、段曲輪群が美しいオススメ城です。
2022年12月10日 ばらく~だ
熊川城
熊川城は曲輪が連続して段々になっており、見ごたえアリだと思いました。登城路は落葉がたまって滑りやすい所があるので、特に下りは要注意です。
2022年11月23日 尼崎城駿河守一口城主
熊川城
10月9日、JR小浜線の上中駅から徒歩にて進軍。小浜〜上中〜熊川宿〜近江今津のバスがある駅でしたが、次の便までかなり待たないといけなかったので歩いて向かいました。国道27号を少し敦賀方面に進んだ後、国道303号をひたすら高島方面に歩みました。道中、鯖街道の石碑がありました。進軍中、雨が降って☔️きて消耗しなが熊川宿に辿り着きました。熊川宿は風情のある街並みで独法寺というお寺には家康公腰掛けの松の根元がありました。松木神社という義民松木庄左衛門さんを祀る神社もありました。寺社をお参りして、まずは熊川城や歴史を学ぼうと熊川宿資料館に入館しました。熊川の歴史が深いことや熊川城の行き方についても確認して、当日は悪天候に加え、駅から歩いたためか体力が残っておらず登城を断念。またいつか天候のいい時に体力を付けて訪れたいと思います。資料館で熊川城の御城印と細川麝香(じゃこう)さんの武将印を購入。麝香さんのことは入館するまで知らなかったのですが細川幽斎さんの奥さんであり忠興公の母で熊川出身とのことでした。資料館の外観はレトロな雰囲気の建物でした。帰りはバス🚌で上中駅に戻り帰路につきました。
2022年05月08日 国府左京大夫城介
沼田氏出城[熊川城 周辺城郭]
熊川城の北側に位置する出城
【歴史】
築城者・築城年代共に不明ではあるが、熊川を領していた沼田氏が築城したと考えられる。
【遺構】
熊川城から北西500mに位置する山頂(標高212m/比高142m)に築かれている。主郭を中心に帯曲輪があり、北西に虎口らしき箇所がある。また、南側の尾根には堀切が三条あるが、真ん中の堀切には中央に穴がある土橋になっている。一番南の堀切は東側の竪堀のみ生きており、西側は埋められている。戦時中は対空監視所があったらしく、主郭にある不自然な地形はその影響と思われる。
【感想】
熊川城と比べるとかなり単純な縄張りとなっていることから、熊川城を築城するまでは沼田氏の詰城だった可能性もあります。熊川城築城後は、街道の北側を監視する目的が主任務であるように思います。
地元の方によると、熊川城から沼田氏出城へのトレイルコースを計画しているようですが、結構難航しているようで、今の所実現の目途は立っていないとのことです。一応ルートとしては、鯖街道のある北側から登城するルートがあるのではないかと考えているようですが、かなり険しく見つけられず断念したとのことです。
個人的には、南尾根に堀切が三条とかなり厳重に警戒していることから、北側から城内に入るルートはないように感じます。若しくは北側から南尾根に出るルートがあるのかもしれませんが…
【アクセス】
熊川宿西口駐車場から鯖街道を西に徒歩8分ほどにある林道から登城する。林道の入口から徒歩で15~20分ほど登ると城内に入ることができる。ただし、倒木があったり、道路の半分ほど崩落している箇所があるので、注意して登城してください。なお、林道に入って直ぐの所に南京錠で固定されたゲートがあるため、車は通行できない。
【写真】
1:堀切1(竪堀)
2:堀切2
3:堀切3
4:主郭
5:東側の帯曲輪
6:北側の帯曲輪
7:北西の虎口
2021年06月22日 近江守フロクニ
熊川城
宿場館の右細道の奥に車を停めて宿場館で地図と城印を手に入れて80m程歩くと鳥居が有る。ここからまっすぐ進んで突き当たりを左に。石段の先に白石神社があります。神社の左方向に進むと城案内が。登城ルートはきちんと整備されてて登り易いです。途中と主郭付近には張り出したステージも有り、景色も良いです。地元愛を感じます。
2020年10月19日 つぼすけ
熊川城
熊川宿側の白石神社境内から入れます。登りの所要時間は10〜15分。ただし、道は階段のように整備されていないところが大半で狭いです。登山側と下山側がすれ違うことはできません。足元も滑りやすいので管理者が用意してくれている杖を借りることをお勧めします。
2018年09月17日 木下近江守湖一郎
熊川城
登り口は白石神社の境内にあります。隣に松木神社がありますので、間違えないように、注意してください。
遺構ですが、最初に遭遇するのは竪堀です。きれいに形が残っています。その後、すべる足元、倒木、ヒル、ムカデに注意しながら登ると山城らしい段曲輪に出会います。主郭には土塁(らしき高まり)があり、西端の堀切は、3重になり、尾根からの動線を遮断しています。
里山の城とはいえ、しっかりした靴での登城がおすすめです。
お城の後は、麓の宿場町で葛餅や焼き鯖、鯖寿司に舌鼓を打ってはいかがでしょうか。蒸し暑い日でしたので、葛餅の清涼さが体に染みました。
2014年02月28日 若丸織部佑
熊川城
駐車場は白石神社の登り口横に4,5台分、あとは熊川宿各所に観光客用に駐車場があります。
2014年02月28日 若丸織部佑
熊川城
白石神社から登れます。途中道がくずれてるとこがありますので行く方は、しっかりした靴を履いて行ったほうがいいと思います(´・ω・`)腰郭へ行く道が寸断されてました。主郭へはなんとか登れますが足元気を付けてください。
歴史
築城年代は定かではないが、沼田弥七郎統兼または沼田勘解由左衛門清延が永禄年間(1558~1570)頃に築いたとされる。沼田氏は、観応2年(1351)に足利尊氏から瓜生庄の下司職を賜り、代々足利将軍家の直属士官として奉公したとされる。永禄12年(1569)、熊川城は武田氏の被官である松宮玄蕃に攻められ落城。沼田一族は近江へ逃れた。沼田統兼は城に籠もって戦ったとされるが、明らかではない。
永禄12年以降は、松宮氏が熊川城を使用していたらしい。『信長公記』によれば、元亀元年(1570)に信長が越前朝倉攻めに向かう際には、若狭入りの第一夜を過ごしている。
天正12年(1584)に丹羽長秀が若狭に入ると、廃城になったとみられる。
天正17年(1589)に浅野長政が小浜城主となると、若狭街道の宿場として熊川宿が整備された。
遺構
近江と若狭の国境にあり、両国を結ぶ若狭街道を見下ろすようにのびた丘陵上に築かれている。東側は河内川、西側は急斜面に守られた立地だ。最高所に主郭を置き、尾根の先端に向かって7~8段の曲輪が直線的に配置されている。若狭街道に面する山腹には、張出郭と呼ばれる出丸のような空間がある。西側には、侵略に備えて出城が築かれていたらしい。
主郭は3段構造で、南東方向にのびる尾根上にも曲輪が4段ほど続く。先端には両端が竪堀となる堀切が設けられている。主郭背後に設けられた、尾根を分断する3本の堀切がよく残る。
交通
・舞鶴若狭自動車道若狭上中ICから車で約15分参考文献
・『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、1980年。