田屋城(たやじょう)
田屋城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 滋賀県高島市マキノ町森西
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 田屋吉頼
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 田屋吉頼
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀、虎口
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
伊井城(滋賀県高島市)[3.5km]
熊川城(福井県三方上中郡)[11.2km]
清水山城(滋賀県高島市)[11.6km]
西岡城(滋賀県長浜市)[13.3km]
大倉見城(福井県三方上中郡)[13.6km]
朽木城(滋賀県高島市)[15.1km]
田中城(滋賀県高島市)[15.5km]
賤ヶ岳砦(滋賀県長浜市)[16.4km]
疋壇城(福井県敦賀市)[16.6km]
山本山城(滋賀県長浜市)[17.0km]
田屋城の解説文
田屋城の口コミ情報
2024年09月30日 玉手箱刑部卿
田屋城
この時期(9月末)ですが、三の丸以外は藪化もなく、遺構もはっきり。大変見応えのある山城です。
①案内板の近くに車を停め。
②案内板イラストにある曲輪配置をパシャリ。
②害獣柵を開け。
③あとは、ひたすら(20分ぐらい)山登り。藪化も無く、登りやすいです。
④三の丸は藪化してますので、北の丸から城攻め。
⑤奥の丸の虎口をみて、周囲を取り巻く土塁を眺めます。
⑥奥の丸から、土橋でつながる捨て曲輪を渡って、駒返し(石柱あり)で折り返します。
三の丸以外は遺構もはっきり。奥の丸を取り巻く土塁は、圧巻です。ただし、蜘蛛の巣が至るところに張っているので、払いながら歩く必要があります。
2023年10月09日 織田上総介晃司
海津城[田屋城 周辺城郭]
海津城専用の駐車場は無いです。
車でマキノ東小学校からの侵入だとかなり狭くヒヤヒヤもんなので湖岸の道路を通り、舟入口の近くのゴミステーション?の土地に停車。
邪魔にならないようサクッと見学。サッと撤収。
2023年10月03日 RED副将軍
田屋城
湖西の有力土豪であった田屋氏の詰め城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。応永年間(1394年〜1428年)に田屋吉頼により築かれたと云われます。沢村城を居城とし、田屋城は詰め城として機能しました。
田屋氏は、高島郡の有力土豪であり田屋明政は浅井亮政の娘婿であったとされます。
1538年、六角定頼の配下である高島七頭が海津に侵攻をした際には、浅井氏に属する田屋氏が山城に撤退したとの記録があり、この山城が田屋城と考えられています。
1575年の大處神社棟札銘に田屋重頼の名があるのを最後に田屋氏の消息は不明となっています。
見所
森西集落の西側背後の標高310.1mの山陵に築かれています。
比高は170mくらいで30分もかかりませんでした。
主に土塁囲みの五つの郭で構成され、奥ノ丸と呼ばれる北側奥の郭が主郭と推定されています。土塁囲みで南側に内桝形虎口が開口。北側背後は大堀切、東側面は連続竪堀、北尾根は食い違いの竪堀で防御線が張られています。
主郭南下に土塁囲み二郭が配されら主郭の桝形とは土橋でつながっています。
二郭の南には、中郭と西郭の東西二つの土塁囲みの郭が並列し、南尾根は二条の堀切と竪堀で遮断。
中郭の東側が東郭であり南東に開口した桝形虎口は麓からの堀底道につながっています。
至るところに横矢がかかった織豊系のテイストの技巧的な縄張りであり、浅井氏滅亡後は織田信長により改修され街道と琵琶湖の海路を押さえる拠点として利用されたのかもしれません。
2023年04月10日 尼崎城駿河守一口城主
田屋城
4月8日、18きっぷでマキノ駅まで行きレンタサイクルにて進軍🚲県道28号(小荒路牧野沢線)を走り、大處(おおところ)神社⛩の石碑(写真①)が建っている所から西に進みました。道なりに行くと説明板(写真②)や案内図(写真③)があり獣害防止用のフェンス(写真④中央)から登山を開始しました🥾フェンスのすぐ近くに屋根付きのベンチがあり登城当日は雨が降ったり止んだりの天気だったので登山態勢を整えるのに助かりました。登り始めるとすぐに右に行くよう道標があり、ひたすら縄張りに沿って進むと迷うことなく山頂に辿り着けました。
山頂に<田屋城址>の石碑があり周囲の桜はほぼ散っていましたがわずかに残っている花びら🌸と合わせて撮ってみました。(写真⑤)石碑の裏面に説明文(写真⑥)があり、文の後半に「〜当時の遺構厳然として残り〜」とあるように遺構がよく分かる城跡でした。私が気に入った遺構は写真⑦のスポットです。高低差が分かりづらい写真ですが急カーブで敵兵のスピードを落として左右両側と正面から迎え撃つような形になっている所が凄いと思いました。
本丸跡からは海津大崎や竹生島を眺めることが出来ました。(写真⑧)※晴れた日は対岸の山本山城、小谷城も望めるようです。(写真②3、4行目)
私事ですが、田屋城が本(城)年度初のリア攻めとなりました。下城後、マキノピックランド(メタセコイア並木)と桜名所100選の海津大崎に寄ってマキノ駅に戻り近江塩津経由で本丸から見えなかった小谷城に向かいました🛤
2023年03月22日 tracer_azu
田屋城
とてもよく整備されており、見どころも満載のバトル山城でとても良かったです。城域に入るとすぐに竪堀や横矢のかかる張り出しがお出迎え、折れる虎口、土塁囲みの郭、枡形と素晴らしいお城です。主郭背後の堀切、畝竪、食い違い竪堀の土橋など遺構の残存度も高かったです。南側にもVに落ちる堀切&竪堀もありこちらは若干浅いながらも防御の高さがうかがえました^ ^非常にお勧めのお城ですが熊出没のエリアなので熊鈴持参をお勧めします。
2023年01月31日 RED副将軍
海津城[田屋城 周辺城郭]
石垣で造られたクランク状の舟入用水路は必見✨
当時の物流は水運が主力で京と北陸を結ぶ重要拠点でした。
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。田屋氏一族の海津政元の居城とされます。
戦国時代は浅井氏に従っていましたが、1570年頃に織田信長に攻められ落城したとされます。
その後、江戸初期に幕府代官の白崎氏が入り、大和郡山藩の代官所が大津からこの地に移転しました。
見所
海津浜に築かれた舟入口の石垣が残ります。
琵琶湖からの舟入の水路はクランクしており水運の要所であった事が覗えます。
2022年11月02日 HS兵部大輔
田屋城
虎口、堀切、竪堀、土塁など縄張り的にも見どころの多い城跡でした。
2021年08月06日 左近衛少将桜姫
海津城[田屋城 周辺城郭]
城跡は小学校です。しっかりしたお堀らしき物の内に、小学校があります。羨ましい環境。行くまでの道はホント狭し! 両側が塀と壁で、車を擦りそうで怖かった。
2021年02月28日 近江守フロクニ
田屋城
県道287号に大處神社の石碑があるところで西に。大處神社と極楽寺を左右に見ながら道沿いに進むと案内図があります。そこから西の防獣柵の門を越え50m程で城跡こちらの看板が。此処から約900mで城跡に到達します。
2019年04月23日 副将軍お城エリコ
田屋城
県道287号線より西に行った森西集落にある極楽寺と大處神社の間の道を西へ進んで行くと説明板があります。その奥の獣避けフェンスを開けて中に入ります。
2019年01月09日 カーネル
田屋城
伊井城の登山口の駐車場から東へ向かい、国道161号の側道を歩く
側道は車が少なく快適で、住宅地にも関わらず猿が横切っていった。県道335で左折して百瀬川を渡り、すぐ左折して大處神社へ向かう
この時点でバテバテだが田屋城→という小さい標識があり救われる
大處神社から西へ向かうと、城の案内図があり獣害避けのフェンスを越えて山道へ
整備された道を上ると竪堀があり、山頂はなだらかで広い。三の丸から主郭まで土塁に囲まれていて、その先にある竪堀・食い違い堀切が見どころ
下山したら、そのまま東へ向かいマキノ駅へ
伊井バス停から伊井城と田屋城を経てマキノ駅まで6時間かかりました。疲れた
2014年11月24日 ŧ‹”ŧ‹”。
田屋城
獣避けフェンスより、約20分で田屋城跡に
城跡からは、琵琶湖が一望でき
西近江路の街道や海津湊が見渡せるため
当時は、重要な拠点であったのが伺えます。
城郭は、6つの曲輪からなりたっており
かなりの高低差のある土塁で仕切られています。
土塁の高さと竪堀の長さは必見です。
また、近江では数少ない畝状空堀群の
保存状態もよく、その奥には
喰い違い竪堀に土橋がかかっているのは珍しく思います。
ただ、城郭には案内板がないため
下調べもしくは、資料を準備されてから
登城される方が、より山城散策を楽しめるかと思います。
2014年06月19日 VINO-S
田屋城
本城の中枢とはべつに口の丸や奥の丸のある尾根の北側の尾根に馬かけと言われる遺構があります。田屋城登城口の防獣フェンスの北側砂防ダムの北側を直登すると尾根頂部に規模は小さいが土で構成された遺構があります是非とも追加訪問を
(ハッキリした登城道はない)
2014年02月27日 VINO-S
田屋城
高島教育委員会発行の冊子にいい情報が記載されてます縄張り図もあり無料なのでぜひ入手てからの訪城を
2011年08月07日 古楽侍従広家
海津城[田屋城 周辺城郭]
今は小学校になっています。周囲にある水路は堀跡ではないでしょうか?
2011年07月01日 まったり丹波守屋
田屋城
獣避けフェンス前の用水路上に1〜2台ほどの駐車スペース有り。転落に注意。
堅掘越しに横矢の掛かる入口と奥の丸北側のここまでやるか?って位に盛った土塁が見所です。
2011年06月23日 三河守コーキしゃん
田屋城
お城跡の西にある極楽寺の先の行き止まりが登城口です(案内板有り)
登って行くと口の丸がありその先に幾つか曲輪があり土塁がしっかり残っています。更に行くと奥の丸と言う曲輪があり内枡形虎口がしっかり残っています。
各所に竪堀が残っていて見所満載のお城でした☆
歴史
築城年代は定かではないが、田屋吉頼により築かれたと伝わる。田屋氏は高島郡の有力な土豪で、田屋明政は浅井亮政の娘婿とされる。天文7年(1538)には、江南の六角定頼配下の高島七頭が海津方面を攻略。このとき江北の浅井方である田屋氏が山城に撤退した史料があり、この山城が田屋城と考えられている。
遺構
高島郡北部の平野を一望できる、標高310mの稲山丘陵上にある。山麓にある沢集落の長法寺が建つ場所に、居館があったと考えられている。山上部は、土塁で囲まれた6つの曲輪が「L」字型に並ぶ不思議な構造だ。最高所にある「奥の丸」と呼ばれる北端の曲輪が主郭とみられ、そこから南側に2つの曲輪が並び、その東側に3つの曲輪が並ぶ。
「口の丸」と呼ばれる曲輪の南隅には尾根を断ち切る2本の堀切があり、それに伴うようにして南東斜面と南西斜面に竪堀が設けられている。基本的には土塁と切岸で防御しながら、緩斜面や尾根筋は竪堀や堀切で守りを固める構造のようだ。
東側にある小さな曲輪の周辺は巧妙で、3本の竪堀に挟まれた突出部が設けられ、横矢が掛けられる。東端の曲輪も土塁が屈曲し、突出部のある曲輪と連動するようにして反対側から横矢が掛けられるようになっている。3本の竪堀によって斜面の横移動も制限されている。
主郭は南側に内桝形状の虎口がある。背後にあたる北側には、高い土塁と大きな堀切を経て平坦地が続く。この平坦地は曲輪とみられるが、土塁はない。北側には喰い違い状の土橋を設けた堀切がある。主郭背後の大きな堀切は土橋が掘り残され、その東斜面は畝状竪堀で防備が固められている。
交通
・湖西道路志賀ICから車で約30分参考文献
・『図解 近畿の城Ⅰ』戎光祥出版、2014年。