山本山城(やまもとやまじょう)
山本山城の基本情報
通称・別名
- 山本城、阿閉山城、阿閉城、(朝日山陣屋)
所在地
- 滋賀県長浜市高月町西阿閉他
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 山本氏
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 山本氏、阿閉氏、浅見氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、帯曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
虎御前山城(滋賀県長浜市)[5.2km]
賤ヶ岳砦(滋賀県長浜市)[6.3km]
小谷城(滋賀県長浜市)[6.6km]
田上山城(滋賀県長浜市)[7.5km]
小室城(滋賀県長浜市)[9.1km]
長浜城(滋賀県長浜市)[9.5km]
三田村城(滋賀県長浜市)[10.0km]
西岡城(滋賀県長浜市)[11.2km]
東野山城(滋賀県長浜市)[11.7km]
下坂氏館(滋賀県長浜市)[11.7km]
山本山城の解説文
山本山城の口コミ情報
2021年11月15日 イオ左衛門佐
宝厳寺唐門[山本山城 寺社・史跡]
宝厳寺には唐門や観音堂のほか、日本三弁才天(他は江の島と宮島)最古の大弁才天を本尊とする本堂(弁才天堂)、鎌倉期の石造五重塔(重文)、江戸初期の焼失から350年ぶりに再建された三重塔、唐門移築の普請奉行を務めた片桐且元手植えのモチノキなどがあり、さらに宝物殿(大人300円)には様々な寺宝が収蔵されています。
2021年11月15日 イオ左衛門佐
都久夫須麻神社本殿[山本山城 遺構・復元物]
舟廊下の先の都久夫須麻神社の本殿(国宝)は、伏見城の日暮御殿の移築と伝わります。本殿は明治の神仏分離令により宝厳寺と都久夫須麻神社が分かたれるまでは宝厳寺の本堂であり、唐門などと同時期に豊臣秀頼の寄進によって移築されたようです。
また、都久夫須麻神社南端の竜神拝所からは琵琶湖が一望でき、願い事を書いたかわらけを投げて、眼下の鳥居をくぐれば願いが叶うと言われています。
2021年11月15日 イオ左衛門佐
舟廊下[山本山城 遺構・復元物]
宝厳寺観音堂から都久夫須麻神社に続く渡廊(重文)は京都・豊国廟からの移築で、朝鮮出兵の際の秀吉の御座船「日本丸」の船櫓の部材により建てられたことから舟廊下と呼ばれます。懸造で建てられており、唐門や観音堂と同時期の移築ながら渡廊には華美な装飾は見られません。
2021年11月15日 イオ左衛門佐
宝厳寺唐門・観音堂[山本山城 遺構・復元物]
竹生島・宝厳寺の唐門(国宝)は、豊臣秀吉の死後、大坂城の極楽橋が京都の豊国廟に移築され、さらに片桐且元を普請奉行としてこの地に再移築されたと伝わります。極楽橋は山里曲輪と二の丸を結ぶ望楼付き廊下橋で、唐門はその入口の唐破風部分にあたるようです。7年に渡る全体修理によって令和2年3月に黒漆塗の建物と飾金具、極彩色の彫刻がよみがえり、豪華絢爛たる豊臣期大坂城の姿の一端を見ることができます。
唐門に隣接する観音堂(重文)も豊国廟からの移築で、極楽橋の一部と考えられます。斜面に建つため懸造となっており、内陣の見学はできませんが、外陣の廻廊に至るまで黒漆塗りに極彩色の装飾が施されています。千手千眼観世音菩薩像(秘仏)を本尊とする西国三十三所観音霊場の札所です。
2021年07月19日 しげしげ主税頭信繁
山本山城
朝日山神社から登城しました。登城路はそこそこ広く歩きやすく整備された感じですが、やはり山城ですので結構こたえます。主郭付近から琵琶湖に浮かぶ竹生島が見えました。
2021年03月12日 首藤但馬守通宗
朝日山陣屋[山本山城 周辺城郭]
奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍に破れた山形藩水野忠弘が明治3年になってから5万石の藩庁を築いた跡。現在は朝日小学校が建つが遺構なし。
2020年06月20日 MACHT征夷大将軍
山本山城
朝日山神社から約30分で本丸跡へ。本丸は周囲が土塁で囲まれかなり強固に守られている。北側には堀切、竪堀が連続して設けられ、こちら側からの攻めへの備えは万全。山頂からは琵琶湖もよく見え城を築くにはよい場所だと実感する。
2019年01月17日 カーネル
山本山城
北陸本線 河毛駅から直線で3.9km
駅を背に西へ向かい、国道8号で右折。次の速水北信号で左折して、ひたすらまっすぐです。この信号には山本山城の案内もあります
途中まで歩道があります。大雨だったので歩道がなくなると辛い
県道252号を超えた先の橋の脇に、山本山登山口→の看板があるので右折
正賢寺を通過した先の十字路で左折(案内あります)して先へ進み、右手の朝日山神社の参道を進みます
同神社の境内の左手に登山口があり、ここから山道
登ると獣害避けの金網と鳥居の珍しいコラボが見れます。キツメの坂道を登り、三の丸、二ノ丸を経て本丸
反対に下ると馬場跡、二重堀、土橋がありました。その先で引き返して駅に戻ったら180分経過しておりました
2017年04月06日 梅鉢近江守Silvine
山本山城
宇賀神社から登ると、若宮山古墳までの間に段曲輪のような削平地が見られますが、種路城の遺構とのことです。
古墳を越えてからが本格的な登りで、前の方が書かれているように、かなりきついです。
30分ほどで二の丸跡の看板のところに出ますが、ここは重機で破壊されてしまったそうで、ただの段地になってしまっていますが奥琵琶湖と竹生島の眺めは良かったです。主郭から先は土塁と堀切がよく残っています。
2013年11月18日 ŧ‹”ŧ‹”。
山本山城
神社裏手より登城しました。
結構急な斜面を約30分ほど登ると、二の丸に着きます。
途中には、小さな古墳群も見られました。
案内板によると、山本山の分りやすい
容姿より、見当山とも呼ばれていたそうです。
途中、獣避けの柵がありましたが
至る所に、猪の掘り起こした痕かありました。
二の丸、本丸と連続して続きますが
かなりの広さがあり、ここからは
琵琶湖側も北国街道側も一望できます。
本丸より、賤ヶ岳側に下ると堀切や竪堀
土橋も小さいながらも2ヶ所ありました。
琵琶湖側よりも、小谷や北国街道への
守りを固めた造りなのが、竪堀の位置を見るとよく判ります。
竹生島が、直線の導線にあり
賤ヶ岳や奥琵琶湖の眺めは絶品です!
ただ、城についての説明板が
あまりにも少ないのは、残念でした。
2012年05月14日 傾奇揚げ仙兵衛
山本山城
小谷城を攻めるため秀吉が阿閉淡路守を調略した城
確かに麓に阿閉なる地名が
2010年06月13日 まったり丹波守屋
山本山城
宇賀神社の裏からと、朝日小学校の東側から登れます。
宇賀神社は東側に数台駐車可。社殿の裏手から登ります。途中に若宮山古墳が有ります。
朝日小学校東側は近くの神社の駐車場が有ります。
朝日小学校ルートはなだらかで登り易いが砂利道が続くので下りはしんどいです。
宇賀神社ルートは傾斜はあるが下り易いのでオススメです。見所は尾根北側に連なる郭と堅堀群。
山本山城の周辺スポット情報
三の丸跡(遺構・復元物)
二の丸跡(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
一番馬場跡(遺構・復元物)
馬の蹴跡(遺構・復元物)
竪堀(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
宝厳寺唐門・観音堂(遺構・復元物)
舟廊下(遺構・復元物)
都久夫須麻神社本殿(遺構・復元物)
登山口(碑・説明板)
忠魂碑(碑・説明板)
山本判官古城址碑(碑・説明板)
竹生島石碑(碑・説明板)
山内一豊公 初所領之地(碑・説明板)
種路城(周辺城郭)
磯野山城(周辺城郭)
松尾山砦(周辺城郭)
朝日山陣屋(周辺城郭)
宝厳寺唐門(寺社・史跡)
宝厳寺(寺社・史跡)
宝厳寺五重塔(寺社・史跡)
河毛駅コミュニティハウス(御城印)
宇賀神社(駐車場)
駐車場(駐車場)
歴史
築城年代は定かではない。平安時代末期、源氏方の山下兵衛尉義経が籠もった山下城がこの城だったと伝承がある。戦国時代には、京極氏の被官である阿閉氏が居城とした。永正年間(1504~1522)には尾上城の浅見氏が詰城とし、浅見氏が浅井氏の勢力下に組み込まれると小谷城の支城となった。浅井長政により山本山城は再び阿閉氏の城となり、浅井氏の小谷城を防御する重要拠点とされた。
元亀元年(1570)に浅井長政が織田信長から離反し元亀争乱が勃発すると、山本山城は長政が籠城する小谷城を防衛する重要拠点のひとつとなった。信長は元亀3年(1573)に山本山城への攻撃を開始し、『信長公記』にも攻防の様子が記されている。しかし、阿閉貞征が天正元年(1573)に信長に降り、小谷城の防衛線は崩壊。その結果、小谷城は孤立し落城した。
阿閉氏は信長に仕えた後に秀吉方に属したが、天正10年(1582)の山崎の戦いで明智光秀に味方したようだ。結果、阿閉氏一族は秀吉に滅ぼされた。阿閉氏の滅亡とともに、山本山城も廃城となったとみられる。
遺構
賤ヶ岳から南に派生した尾根の南端、琵琶湖東岸の山塊先端部に築かれている。朝日山または阿閉山とも呼ばれ、かつては西側と南側は湖沼が山麓に迫っていたという。最高所に主郭を置き、南側、東側、北側に続く尾根上に曲輪群を配した構造だ。
主郭は東西約23m×南北約38m、四方は高さ2mほどの土塁で囲まれ、東・南側の2か所に虎口が開く。主郭東側には50mほど下がったところに小さな曲輪があり、やはり土塁で囲まれている。西阿閉と山本へ下りる尾根筋の分岐点にあたり、東麓の北国街道を監視すべく重視されたものと思われる。
主郭北側の曲輪群は、土塁と堀切を多用して防御を固めている。巨大な堀切は圧巻で、北端の曲輪にめぐらされた屈曲する土塁も見ごたえがある。
戦国時代後半の構築と推測できる。しかし、元亀3年の小谷城攻防戦の際に改修されたものか、浅井氏の滅亡後に改変されたものかは判断しにくく、近隣の城との比較が必要だ。
交通
・北陸自動車道小谷城スマートICから車で約12分参考文献
・『近江の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版、2006年。・『図解 近畿の城郭Ⅱ』戎光祥出版、2015年。