三田村城(みたむらじょう)
三田村城の基本情報
通称・別名
- 三田村氏館
所在地
- 滋賀県長浜市浅井町三田
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 三田村氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 三田村氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- 国史跡(北近江城館跡群)
再建造物
- -
周辺の城
-
横山城(滋賀県長浜市)[3.6km]
小室城(滋賀県長浜市)[4.6km]
虎御前山城(滋賀県長浜市)[5.1km]
小谷城(滋賀県長浜市)[5.5km]
下坂氏館(滋賀県長浜市)[6.2km]
長浜城(滋賀県長浜市)[6.2km]
山本山城(滋賀県長浜市)[10.0km]
京極氏城館(滋賀県米原市)[10.2km]
太尾山城(滋賀県米原市)[11.7km]
長比城(滋賀県米原市)[11.9km]
三田村城の解説文
三田村城の口コミ情報
2023年10月14日 じんしょ
三田村城
平城の名残として屈曲した土塁がある。三田公会堂裏にも土塁がある。小谷城から近い。
2023年06月19日 図書頭RedKing
三田村城
姉川古戦場すぐ北の集落の真ん中のお寺が土塁に囲まれた城跡です。北近江の農業集落よろしく排水路と言い集落道路セットで見事に現在進行形で活用されています。長浜からほぼ東で国道365号からすぐです。鐘撞き堂は盛土に石垣がパターンですが、こちらは土塁ままのようです。
2023年05月08日 RED副将軍
国友城[三田村城 周辺城郭]
鉄砲職人集団である国友衆で有名な国友氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。室町時代に在地土豪である国友氏により築かれた居城とされ、戦国時代の城主には国友伯耆守の名が伝わっています。国友は、鉄砲鍛冶として有名であり鉄砲職人は国友衆と呼ばれて全国で活躍しました。
国友鉄砲鍛冶は、1544年に将軍足利義晴の指示により見本の銃を示されて作ったのが始まりと伝わります。また、中国から種子島を経て国友に渡ってきた長子孔という中国人が製法を伝えたとの記録もあります。国友氏は、元々は浅井氏に従っていましたが浅井氏滅亡後は織田信長に恭順。鉄砲の威力を知った織田信長は国友を庇護しました。織田信長が没した後も豊臣秀吉、徳川家康の天下人は鉄砲製造技術を高く評価し国友を庇護。鉄砲の産地として盛えました。
見所
遍増寺の南側が殿屋敷と呼ばれ、城跡とされますが耕作地となり遺構は消失しています。水路に堀跡の名残りを感じられる程度です。城跡というより国友鉄砲ミュージアムと国友一貫斎屋敷跡などの街並みを目的に訪れる方が良いと思います。国友鉄砲ミュージアムの駐車場を利用。入館後に周辺散策しました。
写真
①②国友一貫斎屋敷跡
③国友城跡
④国友鉄砲鍛冶の碑
⑤国友与五郎屋敷跡
⑥国友鉄砲ミュージアム
⑦国友河原の合戦後
2023年03月12日 RED副将軍
宮部城[三田村城 周辺城郭]
豊臣秀吉の御伽衆として有名な宮部継潤の居城🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。宮部継潤を輩出した宮部氏の居城。宮部継潤は、湯次神社の社僧善浄坊清潤の養子となり、比叡山で修行した後、家督を承継しました。浅井氏に仕えていましたが、1572年に横山城の羽柴秀吉の調略により宮部継潤は織田信長に降ります。浅井氏の小谷城攻めに際しては、虎御前山城と横山城との繋ぎの城として重要視されました。その後も宮部継潤は羽柴秀吉の与力として中国攻めで活躍。但馬国豊岡城二万石、因幡国鳥取城五万石の大名となりました。
見所
城郭遺構は消失し、現在の宮部神社一帯が城跡と云われますが正確な場所は分かっていません。宮部神社の境内には宮部継潤、田中吉政の記念碑が立ち、分かりにくい場所ですが伝宮部城址の碑もあります。
2023年02月21日 noble権中納言弥勒菩薩
三田村城
土塁は見事!結構な雨の中、お寺横の空き地で地元(町内会とか?)の方々がイベントやってました。
2022年05月18日 釆女正佐吉。
上坂氏館[三田村城 周辺城郭]
今日は敬愛する先生の講演会。最前列ゲット♪お気に入りのフリフリお洋服着てきたわ!開演まで隣の女性とお喋り。やだ…私の顔とお洋服を交互にチラ見してる!やっぱり似合ってるのね。
あ、開演だわ。今日はやたらと先生と目が合う!ううん、気のせいじゃない…今日の講演もイケボで良かったわあ。
さて、足を伸ばして長浜まで行こうかしら。あら?上坂氏館跡?そこは行ったことないわ。決まり!そこにしましょ。
案内板によると上坂(こうさか)氏は室町時代からの京極氏の有力家臣なのね。その後浅井氏の家臣になって兄の伊賀守意信は小谷城在番、弟の信濃守貞信が上坂城に居城したのね。で諸々あって帰農したんだ〜。
この児童遊園が丸之内で、堀と土塁に囲まれてたのね。低土塁が残ってる!高さ30〜40㎝程かしら。私と一緒で可愛らしい土塁。それに茅葺門があるわ!門を入ると石造りの橋と石碑もある。児童遊園にされた割には随分立派よ〜。それに、伊賀守屋敷(いがんど)と信濃守屋敷(しなんど)の土塁が残ってるみたい。これは行ってみなくちゃ。
いがんどに来たわ。藪々だけど土塁が残ってる!さっきの案内板の図によると喰い違い虎口みたいだけど、住宅に超密接してるし藪よ藪〜今日のフリフリでは入っていけないわ、残念。
次、しなんどに来たわ。あ!土塁!でもこっちも藪よ〜。すぐ隣は住宅にソーラー。もう少し奥へ入って…きゃー蜂よ蜂!戻るわ!ジタバタしてたらお爺さんが何か話しかけてくる。ナンパかしら…ううん様子がおかしい。…待って待って不審者と間違えてる?こんな可愛い不審者いる訳ないじゃないッ‼︎
ふう…アワアワ説明してわかって貰えたみたいよ。
お爺さんによると、50年程前までは児童遊園(丸之内)はもっと土塁が残ってたそうよ。茅葺門も当時は児童遊園外の北にあったのを今の場所に移築したんだって。場所からすると伊賀守屋敷の門だわ。
それにしても、私が児童遊園に入ったら4〜5人いた子供達が顔を見合わせ口々に「帰ろ…」「帰ろ…」って蜘蛛の子散らすように去っていったけどなんだったのかしら?みんな恥ずかしがり屋さんなのね、きっと。
①丸之内全景
②低土塁
③案内板
④移築門
⑤いがんど土塁
⑥しなんど土塁
いがしなもスポット登録しておいたわ。あなたも行くといいわよ。
2022年03月14日 583系備前守きたぐに
三田村城
鉄道利用の場合、最寄りは虎姫駅となりますが、私は先に小谷城や他の城にも寄ったので、河毛駅でレンタサイクルを借り、長浜駅で乗り捨てました。3段変速機のママチャリタイプ1日500円、乗り捨て代800円です。河毛駅、虎姫駅と2回借りた方が安いですが、電車が1時間に1本なので、この選択となりました。
城跡は伝正寺という寺院になってますが、隣地も寺院と神社ですので、ご注意を。向かいの三田公会堂に見取り図付きの案内板が、伝正寺山門に城主肖像画入りの案内板があります。遺構などの状況は基本情報で、萩原さち子さんが書いておられるとおりです。
2021年11月06日 大納言Z周防守369
三田村城
血原公園駐車場に車を停めて、県道271号佐野長浜線を西に進み、お市ちゃんタクシー三田南停留所の前の三叉路を北上すると、天満神社が見えてきます。神社には入らず、囲むように左回りへ曲がるとお寺のような建物が見えてきます。そこが城跡です。土塁が残っています。血原公園から徒歩10分程で到着します。
2021年11月06日 大納言Z周防守369
姉川古戦場跡[三田村城 寺社・史跡]
1570年に、浅井長政が織田信長乗ったとの同盟を破棄して、その復讐戦として、姉川をはさんで、織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍が死闘を繰り広げた場所。
2021年11月06日 大納言Z周防守369
血原公園駐車場[三田村城 駐車場]
姉川の合戦で、多くの血が流れて真っ赤に染まったことから「血原」という地名になったそうです。この付近は徳川軍と朝倉軍の抗戦が繰り広げられた場所で、朝倉軍武将で大太刀をふるって戦った真柄十郎左衛門直隆が討ち死にした場所です。現在は駐車場付きの公園になっています。
2020年12月04日 琉球守風のこうちゃん播守
三田村城
三田公会堂を目指して行きましょう☝️三田公会堂の南に車停めれます!ここに「三田村氏館跡」と書かれた案内板が有ります。ここの南側が館跡で土塁の一部が残ってます。多くは残ってませんが見応え有り☝️
2020年11月29日 能登守さとみっくす
三田村城
国友鉄砲資料館に行った際に寄りました。土塁が綺麗に残っていて感動しました。土塁は伝正寺を囲む様によなっていて石碑もあります。さすが国の史跡になるだけあってすごい城だと思いました。
2018年12月14日 釆女正佐吉。
三田村城
「三田村氏館跡」(三田村城)は、浅井家家臣であり地侍であった三田村氏の屋敷跡です。現在は伝正寺となっています。
平成19年7月26日に国史跡「北近江城館跡群」に指定されました。「下坂氏館跡」に次いでの認定です。
西側に虎口が残り、虎口手前が堀跡となっています。この堀には橋が架けられていたようです。
東側土塁は張り出されており、横矢掛りとなっています。
三田村城の北にある、三田公会堂敷地の東側にも土塁が残っています。
周りを流れる水路、池が堀の跡です。
現在は伝正寺敷地であり、ご住職の住宅が併設されておりますので、節度ある見学が望ましいかと思います。
2018年09月14日 安田大蔵卿秀俊
三田村城
姉川の戦いの際に、浅井家の遠藤直経が味方の武将首を持って偽って織田信長の本陣に近づき 信長を討とうとした。直経は竹中重矩に見破られ討ち取られる。
が、この時に手土産にしていた武将首は三田村館の 三田村左衛門だったといわれる。
2011年08月02日 古楽侍従広家
三田村城
姉川合戦の時に、朝倉勢を率いた朝倉景健が本陣を置いたとされる場所で、この事から朝倉家では姉川合戦を三田村合戦といいます。
今もよく跡が残っている平地の国人居館です。
歴史
築城年代は定かではないが、近江守護・浅井氏の重臣である三田村氏が代々居城とした。三田村氏はもともと京極氏の被官だったが、浅井氏に仕官。元亀元年(1570)の姉川の戦いでは、横山城の守備に当たっていたという。三田村城は姉川古戦場の北岸にあり、徳川家康が朝倉勢を攻撃した際に布陣していたのが三田村城であることが文献史料から推察できる。朝倉景健が入り、三田村城を本陣としていたようだ。
遺構
現在は伝正寺となっている。ちょうど伝正寺の境内が主郭にあたり、後世に破壊された北側を除き、高さ2~3mの土塁で囲まれている。西側に虎口が残り、土塁の外側には堀がめぐっていた。土塁は単純な方形ではなく東側に折れを伴い、西側中央や北西隅、南西の張り出し部には櫓台とみられる高まりがあった。平成17~18年(2005~2006)度の発掘調査で、曲輪と土塁西側に平行する2本の溝が検出された。また、16世紀初頭に構築された土塁が、16世紀前半に倍の高さに改修されていることが判明した。
主郭の北側にはもうひとつ曲輪が配され、北東部に一部土塁が残っている。主郭の西側にもいくつか曲輪があった可能性がある。単なる単郭方形の居館ではなかったようで、折れを伴う土塁を持つ点も含め、戦国期の居館の事例として興味深い。
交通
・北陸自動車道長浜ICから車で約7分参考文献
・『図解 近畿の城Ⅲ』戎光祥出版、2016年。