長比城(たけくらべじょう)
長比城の基本情報
通称・別名
- 長比砦、野瀬小城、野瀬山城
所在地
- 滋賀県米原市柏原/岐阜県不破郡関ヶ原町今須
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 浅井長政
築城年
- 元亀元年(1570)
主な改修者
- -
主な城主
- 浅井氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、竪堀、虎口
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
松尾山城(岐阜県不破郡)[3.8km]
八講師城(滋賀県米原市)[4.1km]
京極氏城館(滋賀県米原市)[4.2km]
不破の関(岐阜県不破郡)[4.2km]
菩提山城(岐阜県不破郡)[7.8km]
横山城(滋賀県長浜市)[8.5km]
西高木家陣屋(岐阜県大垣市)[8.7km]
垂井城(岐阜県不破郡)[10.4km]
鎌刃城(滋賀県米原市)[10.8km]
太尾山城(滋賀県米原市)[11.3km]
長比城の解説文
長比城の口コミ情報
2020年05月27日 近江守Silvine
須川山砦[長比城 周辺城郭]
須川山砦は浅井家の重臣遠藤氏の詰の城で、麓の須川に在地していました。
長比城とは北西の尾根続きにあたる位置で、長比城登城路の虎口前左手にある「竪堀」の看板から奥へ進み、リボンに従って尾根を進むと10分程でたどり着きます。
砦という名に相応しいコンパクトな城ながら、土塁はよく残り、桝形の虎口や北の連続竪堀など防衛の意識を強く感じさせる遺構でした。
2019年01月17日 カーネル
長比城
東海道線 柏原駅から
線路沿いに東へ向かうと正面に長比城の山が見えます
T字で右折して線路から離れ、その先の信号で左折すると集落に入り、中山道の柏原宿の石碑や見附などがあります
再び線路沿いに出たら、道が右カーブしているところで線路を渡り100mくらい東に進むと、神明神社参道の脇に長比城登山道の石碑があります
舗装路を登り続けると、砂防ダムがあり、手前左に秋葉神社への案内があるので山道を登る
神社裏を登ると文字が読めない看板があり、まっすぐの道が立派だけど左折して尾根を登り続ける
本丸直下は竪堀で、土塁の切れ目から入り山頂には長比砦の標柱ありました
往復して90分かかりました
2017年05月16日 青コアラ美濃守
長比城
国道21号から来ると、柏原東交差点を北に入り踏切を渡って右折、すぐ左の神社の脇の道に入り分岐を左へ。砂防ダムの手前に数台分の駐車場があります。
あとは山頂まで道標に従って20分ほど。
城跡碑は少々分かりにくいですが、主郭の真ん中辺りにあります。
主郭の西側虎口付近からの眺望が良く、21号・名神高速・東海道本線・旧中山道などが一望の下に見渡せ、いかに要衝の地に位置していたかがよく分かります。
2016年03月04日 近江守Silvine
長比城
以前は登城口がわかりにくかったとの事ですが、のろし駅伝を実施した為か道がかなり整備されています。
砂防ダム手前に城の説明看板があり、その後ろの「野瀬山山頂」と書いてある方向が城跡です。
100mおきに「山頂まで○m」と書いた看板があり、おそらく迷うことはないと思います。
肝心の城跡のほうですが、西曲輪〜主郭虎口までは草も刈ってあり、かなり見やすいです。
ただ、主郭は草木もあまり刈られておらず、残念な感じです。
これはおそらく、主郭虎口でのろし駅伝を実施した為、その場所までの草だけ刈った為だと思われます。
主郭虎口にはその時使用したドラム缶などが放置してあり、知名度を上げる為のイベントの功罪を感じさせます。
2011年01月10日 まったり丹波守屋
長比城
さらに山を登ると秋葉神社に出ます。神社付近に道標があります。途中から道がわかりにくく成りますが尾根沿いに登れば着きます。帰りに迷わない様に気をつけてください。
2010年12月23日 足軽越中守一歩
長比城
入り口より1km弱の所が城跡との説明あり。が、突き当たりが砂防ダムで、そこなのか?さらに山道を歩いて登るのかわからず。
2010年10月27日 古楽侍従広家
長比城
織田信長の金ヶ崎退き口の後に、信長の近江侵攻に備えて東山道を浅井方が抑えるために築城された堅城。竹中半兵衛の調略によって戦わすして開城。
米原は江南の六角氏と、江北の京極氏、さらに浅井氏の境に加えて、東側で美濃国(岐阜県)と接する国境地帯でもあったため、国境警備の山城「境目の城」が多く構えられた。長比城もその一つである。
長比城が「境目の城」として明確になっていくのが、浅井長政による織田信長への離反である。元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討伐していた織田信長に対して、信長の妹お市の方の婿である浅井長政が信長を攻撃した。九死に一生を得た信長は軍勢を整え、元亀元年6月浅井長政の討伐へ向かった。これに対して、浅井・朝倉連合軍は、美濃の国境に防御ラインを設けた。『信長公記』には、「去程に、浅井備前越前衆を呼越し、たけくらへ・かりやす両所に要害を構え候」とある。信長の侵攻に対して、越前衆の力を借りて、長比城・苅安城(上平寺城)を改修したのである。しかし、守備していた堀秀村・樋口直房は信長軍に内応し、両城はあっけなく落城した。
長比城の遺構は、大きく東と西の曲輪から成り立っている。両側の曲輪は、東西約50メートル、南北最長で約30メートルで、分厚く高い土塁が巡り、東側に食い違いの虎口を設け防御している。東の曲輪は、西の曲輪より一回り大きく、東側の土塁は厚く高いものとなっている。東側と北側に食い違いの虎口を設けており、東側(美濃側)を意識した構造となっている。
情報提供:米原市教育委員会歴史文化財保護課