長比城(たけくらべじょう)
長比城の基本情報
通称・別名
- 長比砦、野瀬小城、野瀬山城
所在地
- 滋賀県米原市柏原/岐阜県不破郡関ヶ原町今須
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 浅井長政
築城年
- 元亀元年(1570)
主な改修者
- -
主な城主
- 浅井氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、竪堀、虎口
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
松尾山城(岐阜県不破郡)[3.8km]
八講師城(滋賀県米原市)[4.1km]
京極氏城館(滋賀県米原市)[4.2km]
不破の関(岐阜県不破郡)[4.2km]
菩提山城(岐阜県不破郡)[7.8km]
横山城(滋賀県長浜市)[8.5km]
西高木家陣屋(岐阜県大垣市)[8.7km]
垂井城(岐阜県不破郡)[10.4km]
鎌刃城(滋賀県米原市)[10.8km]
太尾山城(滋賀県米原市)[11.3km]
長比城の解説文
長比城の口コミ情報
2024年03月21日 RED副将軍
須川山砦[長比城 周辺城郭]
小規模ながらも技巧的な縄張りの長比城の出城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。
長比城と立地が近いことや類似する城郭構造であることから同時期に浅井長政により築かれたと考えられています。
長比城は浅井長政が織田信長勢に備えるために美濃との国境付近に築いたものであり、須川山砦はその出城として機能したものと思われます。
見所
長比城のある野瀬山から北西の尾根続きの峰に築かれています。
南北に細長い単郭に高く分厚い土塁が巡り、南北両端に虎口が開口。南虎口は土塁を設けて南東へ下るスロープ状のものであり、北虎口は外桝形が認められ、西下には南北に二ヶ所の土塁があり横堀を形成し、南は竪土塁により側面移動を制限しています。
北側尾根は堀切で遮断され、更にその北側に東に二条、西に三条の竪堀が落ちています。
単郭で小規模ながらも虎口と高土塁で囲まれた技巧的な縄張りです。
行き方は、長比城の登城路に須川山砦への分岐点があります。道は明瞭ではありません。無理に直登するよりも回り込んで緩やかな尾根に取り付くのが正しいルートです。
2023年11月09日 釆女正佐吉。
成菩提院[長比城 寺社・史跡]
良い子のみんな元気?
妄想命お姉さん元気だよ!
「英雄たちの選択〜小早川秀秋の関ケ原〜」見た?外岡先生が、千田先生と論戦繰り広げて杉浦アナがオロオロしてたって仰ってたんだけど… 論戦、あった?ばっさりカットされちゃったのかな。
でまあそれはいいんだけどさ!最後の磯田先生の言葉にお姉さんビックリして椅子からずり落ちそうになったよ! 「歴史は3つの視点で考えなければいけない。勝者と敗者と滅亡者」「この滅亡者を考えなきゃいけなくて。滅亡者は語る口がない」
……えっっ!?!?待って待って!!考えなきゃいけない…滅亡者は語る口がない…えっどゆこと??えっ!?お姉さん、それとソックリの言葉をつい先日関ケ原で聴いてめちゃくちゃ感動して必死にメモって歴友3人できゃっきゃして、きゅん♡ってしてたのにもしかしてパ…
感動を、感動を返してっ!!
とまあそんな感想を抱いた英雄たちの選択。良かったですね。秀秋、バリバリ東軍でしたね。そりゃそうですよ。黒田から大久保、徳川からは奥平が目付け役で傍にいるんだもん。
で、その秀秋、実は関ケ原合戦の月に、2度成菩提院に来てるんだよ!
成菩提院…そう、みんな大好き元亀争乱イベントの成菩提院だよ! それに今、寺宝展の真っ只中なんだ!
お姉さんは講演も聴きたかったから勇んで初日に行って来たんだ。てことでお姉さん、地域イベにも口コミしたけど、今回は前回よりねちっこく口コミするよレッツゴー!
成菩提院。正式名称は寂照山円乗寺成菩提院。最澄が開いた説があるけど、実際に礎を築いたのは貞舜法印で、1400年頃に柏原談議所が誕生したんだ。談議所っていうのは学問を学ぶお寺の名称だよ。多くの僧侶が集い、学んだり修行したりしたんだって。でね、成菩提院は県下唯一のお宝が沢山残されているんだ!お姉さんそれが不思議でさ。だって、滋賀でお寺って言ったらヒェェー山エーンエーン暦寺じゃん?百歩譲って三井寺じゃん?どの道大津じゃん?都に近いんだもん、滋賀で1点残るとしたらそれは大津でしょ!て素人は思う訳ですよ。なんで都から遠く離れた、美濃との国境の成菩提院にお宝が残ってるのか知りたくて、柏原宿歴史館長であり成菩提院檀家総代でもある谷口先生にお尋ねしたんだ。
それはね、一言で言うと「寺格が高い」んだって。アレですよアレ「お前んチとウチとじゃ格が違うんだよ格が!」てヤツですよ。(実際はそんな言い方ではなく穏やかに小声で、寺格が高いんです…て仰ったよ)他の寺にもお宝はあったんだけど、焼き討ちしたのは何も信長だけじゃなくて、延暦寺vs三井寺でも何度も行われてるんだよね。 当然お宝も焼失するし、焼失を恐れて成菩提院に避難させたり、または学問のため貸出してたりもしたそうだよ。元々は成菩提院の物だったけど、延暦寺に提供したお宝もあるそうだよ。いずれにせよ成菩提院はあの天海も(兼任とはいえ)住職を務めてた「格が違うんだよ格が!」なお寺で延暦寺とも密接な交流があったんだ。そして、都から離れてた事が幸いしたんだね。
戦国時代には信長、秀吉、秀秋など錚々たる武将が宿泊したんだ。でね、ここからが重要!
秀秋は慶長5年9月(関ケ原合戦月)に2度宿泊してて、2枚の禁制札が残ってるの。そして成菩提院の住職は、関ケ原合戦が終わったすぐ後に家康に戦勝祝いのぼた餅を届けてるの。それはつまり、秀秋が東軍で参戦して東軍が勝利することが前もってわかっていたから、早くからぼた餅の準備に取り掛かることができたって話なんだ。 ただしこの話はお寺で伝わっているだけで、谷口先生も「どこからそういう話が出てるのか…」て苦笑されてた。だからあくまで諸説あり!だよ。だけど妄想が膨らんじゃうよね~。
後はお姉さん的には「石田三成成菩提院村掟書十三ヶ条」と「三成マンホール」が必見とお伝えしておきます。 他のお宝についてはネットで検索してね♡(丸投げ)
さあ帰りましょとなった時、おじいさんが話しかけてきたよ。おじいさん仏教の難しい話をしてきて「へ~そうなんですね!」「すごい!」って相槌打ってたら、気分が乗ってきたのか「わしは長浜の〇〇(地名)や」って言うから「あ~〇〇城の近くですね」て応えたら「隣(町)や!」「ボランティアでガイドしたる」「歴史の会を立ち上げとる」「ウチに〇〇合戦の地図がある」「一応名刺渡しとくわ」って矢継ぎ早に喋って名刺を探してたけど「名刺無いわ。携帯…」て携帯取り出したからお姉さん(これって番号交換する流れじゃね?)と危険を感じて咄嗟に「あ、今スマホないです~…」と危機を乗り切ったよ。
これって完全なナンパですよね!?!?
何度も言うけどお姉さん、高齢者とハチだけにはモテるの。
あんまり嬉しくないの。
2023年10月19日 rigret
長比城
伊吹山文化資料館にて、長比城の御城印あり。この他にも6城の御城印を販売。
館内に設置されているフリーペーパー類に米原市教育委員会が発行している『米原市遺跡リーフレット』が1階に、『米原市文化財 佐加太』が2階にある。
この地域周辺の情報や歴史等について取り上げられており、城や武将等に関することも話題に上っている。もちろん長比城のことも。
フリーペーパーだから無料ではあるが、要入館料。200円、JAF会員証を提示すれば40円引き。
2023年08月13日 鈴木剛
須川城[長比城 周辺城郭]
浅井家の家臣で姉川の戦いで討死した遠藤喜右衛門直経の居館があったそうです。今は観音堂があり遠藤家の守り本尊十一面観音が祀られているそうです。観音堂のすぐ南には近年迄遠藤直経の墓があったそうです。
2023年08月13日 鈴木剛
須川山砦[長比城 周辺城郭]
浅井・織田両家の同盟破綻後に、浅井長政が築城。土塁・堀切・竪堀があります。
2023年08月12日 鈴木剛
河瀬館[長比城 周辺城郭]
蓮台寺城主河瀬壱岐守の後裔の居城だと考えられているそうです。今はただの草原の空き地状態です。
2023年06月19日 内匠頭RedKing
長比城
このところ赤色立体図で脚光を浴びる玉城に対比して、そう江濃国境を夫々正面に睨みあっていたのでしょうか。そう彼方は抑も不破郡大字山中の城山でした。松尾山も南方の伊勢街道に向いていたそうです。柏原宿方はなだらかにそして明るい雑木林の山々が続きます。対して関ヶ原、今須宿方は最難所今須峠に向け暗く濃い緑の杉林になります。往時、天秤棒を担いだ近江商人が、伊勢講の遍路が通った道も街も楓の木々もその佇まいを遺しています。
2023年03月22日 RED副将軍
長比城
織田信長の侵攻に備えて浅井長政が築いた境目の拠点🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
長比城(たけくらべじょう)と読みます。
1570年に浅井長政により築城。
織田信長による越前朝倉攻めにおいて、同盟関係にあった浅井長政が突然裏切り。窮地に追いやられた織田信長は京へ落ち延び、浅井長政は敵対することとなりました。
浅井長政が織田信長勢に備えるために美濃との国境付近に築いたのが長比城と苅安城(上平寺城)です。
築城に際しては朝倉氏の助力もあったと伝わります。
浅井氏家臣の堀秀村と樋口直房が守将として入城しましたが、織田信長勢の調略により内応。
あえなく落城しました。
見所
近江と美濃の境目で東山道沿いにある標高390mの野瀬山に築かれています。
山頂に東曲輪を配し、西側に30mほど離れた西峰ピークに西曲輪を配しています。
両曲輪ともに土塁囲みであり、東曲輪は西、東、南の三方に虎口が開口し桝形が形成。南尾根は堀切で遮断されています。
西曲輪は南北に長い曲輪で東に食い違い虎口、南西隅に平虎口が開口しています。
虎口が素晴らしい山城です。
行き方は、南麓の旧東山道沿いに長比城入り口の石碑があり、その上に駐車場もあります。
ハイキングコースとして登城路も整備されています。
写真
①〜④東曲輪
⑤〜⑧西曲輪
2022年10月07日 バカてら伊豆守
長比城
山頂まで約30分往復1時間弱でした。登山口まで国道からすぐですが、線路を渡ったら右へ行って下さい。Gマップのなびだと左折させられました。マップの登山口には、道がつながってなかったので仕方ないのかも知れません。県境なので北近江も美濃方面も良く見えました。
2022年02月27日 いち近江守喪中
白清水[長比城 その他]
白清水の泉。古くから、白清水または玉の井と呼ばれています。中世仏教説話「小栗判官照手姫」には、姫のおしろいで清水が白く濁ったことから白清水と言われるようになったとあり。また伊吹山の神に打ち惑わされた日本武尊が、この清水を飲んで正気づいたという伝説が残されている。(伊吹山山麓各地に多数伝説の水はあり)
2021年12月14日 釆女正佐吉。
須川山砦[長比城 周辺城郭]
長比城を目指すルートから登城しました。道々何ヶ所も案内板が設置されており、須川山砦へ行く案内も出ています。
長比城への遊歩道には、ありがたい事に「山の動物に人が来たのを知らせてあげよう!たたいて鳴らして!」と書かれた小さな鐘が設置してあります。
それが3〜4ヶ所もあるし、同行者がやたらと新しめの動物のフンを見つける(シカでは無い何か…「クマやて」と言い切る)し、熊よけ鈴の鳴りが悪いしで、ビビりの私はやたらと「おーい!おるかぁ?」と大声を出しながら登城しました。
そこでもし「おるぞー!」とか「グオォゥー!」的な声が聞こえたらその場で硬直しそうですが、他に適当な言葉が見つからなかったので…。
さて、須川山砦への分岐点から10分程歩いたでしょうか。木に巻き付けられた青リボンと、何となく人が入った形跡が残っているので、迷う事は無いかと思います。
ただ分岐点から先は遊歩道も鐘もありません。それだけで何となく諸々不安なんですよね、諸々…。この辺り特に声を出しながら歩きました。
遺構は(先に須川山砦を見たせいもあるのか)長比城よりも私は好きです。畝状竪堀群もあるし♪長比城は低木が茂っていたり、のろし駅伝の残骸が残されていたりで、須川山砦を見た後だと少々テンション下がる⤵︎奥の虎口でテンション上がる⤴︎といった心境。
須川山砦は遠藤氏の詰めの城を、元亀元年の信長侵略に備え、長比城と共に「境目の城」として改修されたと考えられます。当時は須川山砦を含めて、長比城と呼ばれていた可能性が高いとの事。この「長比」の語源は、近江と美濃の山が高さを競い合ったという伝説から来ているそうです。
苅安城・長比城が近江側の境目の城ならば、高さを競った美濃側の境目の城も大いに気になりますね。
そう、昨今話題の、あのお城です。
2021年12月11日 釆女正佐吉。
長比城
登城口の箱に2枚1組のパンフが入っています。コンパクトながら野瀬山(長比と須川山砦)のルートや情報が沢山記載されていますので、ぜひ手に入れて登城して下さい。
さぁ、出発!パンフの①西尾根ルートを選択。九十九折です。九十九折です。九十九折です。ヒィィィッ!!左っ!!足踏み外したら落ちる!ここ通るの?いや無理…。でも今更引き返す?どうする?あとここだけ九十九ってみる?この先もこんなんだったら戻ろ…緊張するんじゃない!緊張すると能力発揮できない!(元々ないけど!)足が強張るとコケるよ?コケたら落ちるよ?
…ふぅぅ〜何とか九十九ったぜ…今のが最難関の九十九だったぜ…
断っておきますが野瀬山、難山では全く無いです!極度の運動音痴(私)&極度の高所恐怖症(私)でない限りは、多分全然平気!
でも名港トリトンで目を開けられない、郡上八幡城の山頂駐車場への往復では手足の震えが止まらない、運転なんて死んでも無理!な私にとってはまぁまぁの急所だったわふふふ。
道は緩やかな丸太の遊歩道で、足を無理して上げる必要がなく、親切な道でした。先に須川山砦に向かったのではっきりしませんが、登城時間は30分程度でしょうか。
帰り道は覚悟していたからか、すんなり九十九りました。いや、あれは別ルートだったのかなあ。
さて、最近ちょうど「江濃境目の城」の勉強をしたところですので、長比城について少々。
・元亀元年に信長に対処するため朝倉氏の協力を得て浅井氏が築いた。
・東曲輪の虎口の規模は東北隅が一番大きく美濃を意識した構造となっている。(見応えアリ!)
・令和3年米原市調査により東南隅の虎口内部に石が露出した土塁が検出された。内枡形内もクランク状になっていた。
・西曲輪は朝倉氏によって築造または改造されたと考えられる。(元亀元年より後世の改修との見解もある)
・虎口の形態から、東曲輪が先にあり西曲輪を後から築造した際に東曲輪も改造されたと考えられる。
昨今、国指定史跡登録に向けて準備が進んでいます。ただ野瀬山が滋賀県と岐阜県に跨っている事、地権者が何人もいる事などから大変なようです。早く登録されると良いですね。
①東曲輪の東北のくい違い虎口(外枡形)
2021年09月16日 嵜守
長比城
中日新聞びわこ版より
米原市が本年6~8月に発掘調査を実施したところ、東側の曲輪の虎口に新たな土塁が確認された。調査結果をもとに来年、国史跡に申請する予定。
2021年03月24日 橘雅楽助かずひろ
長比城
駐車場に到着した際に、野瀬山会の方にお会いしました。
丁寧にどこから登ったら良いか、途中倒木がある等情報を頂きました。
少し冒険をし過ぎまして、道に迷いましたが、登山道には山頂までの矢印も出ていますので、普通に進めば問題ないです。
あと、今年(令和三年)の5月から県教育委員会の調査が入るという情報も頂きました。
2020年05月27日 近江守Silvine
須川山砦[長比城 周辺城郭]
須川山砦は浅井家の重臣遠藤氏の詰の城で、麓の須川に在地していました。
長比城とは北西の尾根続きにあたる位置で、長比城登城路の虎口前左手にある「竪堀」の看板から奥へ進み、リボンに従って尾根を進むと10分程でたどり着きます。
砦という名に相応しいコンパクトな城ながら、土塁はよく残り、桝形の虎口や北の連続竪堀など防衛の意識を強く感じさせる遺構でした。
2019年01月17日 カーネル
長比城
東海道線 柏原駅から
線路沿いに東へ向かうと正面に長比城の山が見えます
T字で右折して線路から離れ、その先の信号で左折すると集落に入り、中山道の柏原宿の石碑や見附などがあります
再び線路沿いに出たら、道が右カーブしているところで線路を渡り100mくらい東に進むと、神明神社参道の脇に長比城登山道の石碑があります
舗装路を登り続けると、砂防ダムがあり、手前左に秋葉神社への案内があるので山道を登る
神社裏を登ると文字が読めない看板があり、まっすぐの道が立派だけど左折して尾根を登り続ける
本丸直下は竪堀で、土塁の切れ目から入り山頂には長比砦の標柱ありました
往復して90分かかりました
2017年05月16日 青コアラ美濃守
長比城
国道21号から来ると、柏原東交差点を北に入り踏切を渡って右折、すぐ左の神社の脇の道に入り分岐を左へ。砂防ダムの手前に数台分の駐車場があります。
あとは山頂まで道標に従って20分ほど。
城跡碑は少々分かりにくいですが、主郭の真ん中辺りにあります。
主郭の西側虎口付近からの眺望が良く、21号・名神高速・東海道本線・旧中山道などが一望の下に見渡せ、いかに要衝の地に位置していたかがよく分かります。
2016年03月04日 近江守Silvine
長比城
以前は登城口がわかりにくかったとの事ですが、のろし駅伝を実施した為か道がかなり整備されています。
砂防ダム手前に城の説明看板があり、その後ろの「野瀬山山頂」と書いてある方向が城跡です。
100mおきに「山頂まで○m」と書いた看板があり、おそらく迷うことはないと思います。
肝心の城跡のほうですが、西曲輪〜主郭虎口までは草も刈ってあり、かなり見やすいです。
ただ、主郭は草木もあまり刈られておらず、残念な感じです。
これはおそらく、主郭虎口でのろし駅伝を実施した為、その場所までの草だけ刈った為だと思われます。
主郭虎口にはその時使用したドラム缶などが放置してあり、知名度を上げる為のイベントの功罪を感じさせます。
2011年01月10日 まったり丹波守屋
長比城
さらに山を登ると秋葉神社に出ます。神社付近に道標があります。途中から道がわかりにくく成りますが尾根沿いに登れば着きます。帰りに迷わない様に気をつけてください。
2010年12月23日 足軽越中守一歩
長比城
入り口より1km弱の所が城跡との説明あり。が、突き当たりが砂防ダムで、そこなのか?さらに山道を歩いて登るのかわからず。
2010年10月27日 古楽侍従広家
長比城
織田信長の金ヶ崎退き口の後に、信長の近江侵攻に備えて東山道を浅井方が抑えるために築城された堅城。竹中半兵衛の調略によって戦わすして開城。
米原は江南の六角氏と、江北の京極氏、さらに浅井氏の境に加えて、東側で美濃国(岐阜県)と接する国境地帯でもあったため、国境警備の山城「境目の城」が多く構えられた。長比城もその一つである。
長比城が「境目の城」として明確になっていくのが、浅井長政による織田信長への離反である。元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景を討伐していた織田信長に対して、信長の妹お市の方の婿である浅井長政が信長を攻撃した。九死に一生を得た信長は軍勢を整え、元亀元年6月浅井長政の討伐へ向かった。これに対して、浅井・朝倉連合軍は、美濃の国境に防御ラインを設けた。『信長公記』には、「去程に、浅井備前越前衆を呼越し、たけくらへ・かりやす両所に要害を構え候」とある。信長の侵攻に対して、越前衆の力を借りて、長比城・苅安城(上平寺城)を改修したのである。しかし、守備していた堀秀村・樋口直房は信長軍に内応し、両城はあっけなく落城した。
長比城の遺構は、大きく東と西の曲輪から成り立っている。両側の曲輪は、東西約50メートル、南北最長で約30メートルで、分厚く高い土塁が巡り、東側に食い違いの虎口を設け防御している。東の曲輪は、西の曲輪より一回り大きく、東側の土塁は厚く高いものとなっている。東側と北側に食い違いの虎口を設けており、東側(美濃側)を意識した構造となっている。