不破の関(ふわのせき)

不破の関の基本情報

通称・別名

不破関

所在地

岐阜県不破郡関ケ原町松尾

旧国名

美濃国

分類・構造

関所

天守構造

なし

築城主

天武天皇

築城年

天智天皇2年(663)

主な改修者

主な城主

三輪氏

廃城年

延暦8年(789)

遺構

(発掘調査:土塁)

指定文化財

県史跡(不破の関跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

松尾山城(岐阜県不破郡)[1.4km]
長比城(滋賀県米原市)[4.2km]
菩提山城(岐阜県不破郡)[4.3km]
京極氏城館(滋賀県米原市)[5.2km]
垂井城(岐阜県不破郡)[6.1km]
八講師城(滋賀県米原市)[7.6km]
西高木家陣屋(岐阜県大垣市)[8.0km]
長松城(岐阜県大垣市)[10.1km]
御茶屋屋敷(岐阜県大垣市)[11.5km]
横山城(滋賀県長浜市)[11.9km]

不破の関の解説文



不破関(ふわのせき)は、古代東山道の関所の一つ。現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあり、史跡としては不破関跡(美濃不破関跡)と呼ばれる。

歴史 

創設

『日本書紀』巻第28壬申紀(天武天皇元年(672)6月壬午(22)条)によれば、壬申の乱(672年)において大海人皇子(後の天武天皇)が美濃国出身の舎人である村国連男依らに命じ、安八麿郡(安八郡)湯沐令の多臣品治(多品治)が郡で兵の徴発を行って「不破道」を塞ぎ、これが大きな勝因となった[1]

壬申の乱後、律令体制のもとで都の警護のため、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに東山道に不破関が「三関(さんげん)」として整備された[2]

不破関の創設時期については、遺跡からの出土遺物のほとんどが8世紀初頭以降のもので、史料上「三関」の初見が『続日本紀』和銅元年(708) 3月乙卯(22)条であることなどから8世紀初頭と考えられている。

管理

軍防令置関条においては、関を置いて守固すべき場合は兵士を配し、分番で勤務・非番することとされた。特に不破関は三関であったことから、美濃国府の国司4等官が分番守固した。

不破関の範囲は1974年(昭和49年)からの調査で、藤古川の段丘崖を西側に、北、東、南の三方を土塁で囲む台形状で広さは12.4ヘクタールに及んでいた。

2023年(令和5年)には初期の政庁と考えられる8世紀前半の遺構が初めて確認された[3]

廃止

789年(延暦8年)、突如として三関停廃の詔が出され、兵器や粮糒(ろうび、食料のこと)は国府(美濃国府)に運収され、館舎は郡衙等へ移建された。ただし、三関停廃の詔以降も、灰釉陶器や山茶碗などの出土品がみられ、何らかの施設があったと想定されている。

関の停廃後も幕末まで儀礼的な「固関」(こげん)の儀式が行われた。最初に「固関」の儀式が行われたのは養老5年 (721年) 12月の元明太上天皇崩御の際で、持統太上天皇や文武天皇崩御の際に何故固関が行わなかったかについては議論がある。

現況 

  • 現在の岐阜県不破郡関ケ原町松尾が不破関の所在地である。岐阜県と関ケ原町の指定史跡[4][5]
    • 敷地の一角には不破関資料館が設置され、発掘された和同開珎や陶器が展示されている。

    文化 

    中世以降、多くの和歌や俳句などに歌われた。

    • 「人住まぬ 不破の関屋の 板庇(びさし) あれにし後は ただ秋の風」(藤原良経)
    • 「秋風や 藪も畠も 不破の関」(松尾芭蕉)
    • 「しのぶ草 庇にうゑよ ふはの関」(小林一茶)
    • 「大友の 王子の王に 点うちて つふす玉子の ふわふわの関」(大田南畝(蜀山人)の狂歌)
    など

    注釈 

不破の関の口コミ情報

2024年03月04日 伊豆守隠岐守
不破の関

国道から不破関資料館への入口には良く目立つ看板があります。資料館への入場料は110円と大変リーズナブルです。

2023年12月31日 名無しの温かい人。
宇喜多秀家陣跡[不破の関  周辺城郭]



全国11018人の秀家ファンの皆さんこんばんは!
今日は豊臣の貴公子、イケメン宇喜多秀家さんだよ。
本来なら秀家さんの関ケ原合戦後の行動と揖斐川町に残る史跡も紹介したいところだけど、それはまた機会があれば。

という事で、関ケ原で西軍最大兵力17000人を率いて戦った「宇喜多秀家陣跡」だよレッツゴー!

ところで17000人て人数、想像付く?40人1クラスとして、425クラスだよ!?…余計分かんない?CGじゃ実感湧かないし、いつの日か関ケ原で15万人を陣地に配置してリアル関ケ原合戦イベントしてくれないかしら、岐阜県さん。

うーん、なんて書こうか…
よく、南宮山の毛利秀元陣跡からは関ケ原が見えない!あそこは大垣城の後詰め!大垣城での籠城を構想してたのに三成が家康におびき出されてまんまと関ケ原に移動しちゃった!なんて言われる事もあるけどそれは無い。籠城も想定の1つだったのかもしれないけど、兵糧や武器の中継地点であった福束城は落城しちゃったし、岐阜城もすぐ落城しちゃった。だから、仮に籠城したとしても長くもたないことはわかってたと思う。

マップで「関ケ原」を検索して航空写真にしてズームアウトしてみて。右には広大な濃尾平野。でも、関ケ原は山々に囲まれて急激に狭~くなってるでしょ?ボトルネックになってて敵を迎え撃つには絶好の地形。だからここで壬申の乱が起きてるの。(同じく壬申の乱激戦地であった「瀬田の唐橋」も琵琶湖の狭い箇所に橋が架けられてるボトルネック)
でね、関ケ原はこの狭い盆地に東山道、北国脇往還、伊勢街道が交わってるの。 それに、大谷吉継陣跡と小早川松尾山秀秋の間に、北から東海道本線、中山道、国道21号線、新幹線、名神高速道路という主要な交通網が入り組んでる。関ケ原が交通の要衝である事がよくわかるでしょう?

合戦当時、関ケ原松尾は三成さんの領地。
そして三成さんは過去に美濃に所領を持ってて、大垣の真北にある神戸村に拠点を置いてたからこの辺りの土地勘がある。
三河尾張の境→清州→木曽川と、想定していた防衛ラインは西へ西へと後退していったのかもしれないけれど、大垣城を拠点にしたならその先の関ケ原を防衛ラインに想定したことは想像が付く。関ケ原を破られるとその先には石田一族が守る佐和山城。ここが最後の防御ラインと決め、既存の地形や遺構を活用して更にパワーアップして迎え撃つ!と関ケ原を整備した。だから、西軍が関ケ原へ誘き出されたなんて、ありえない。
金吾が松尾山を占拠しなければ。田辺城と大津城の軍隊3万が到着していたならば。◯◯一族が稼働していたならば。そんなifが重なってたら或いは…。

前置きが長くなったけれども。
秀家さんと行長さんの陣は、西へ向かう2本の街道、 北国脇往還と東山道のド真ん中西軍ガチ勢!南宮山周辺で弁当食って高みの見物してる◯◯&烏合の衆とはそもそも本気度が!殺る気度が!違うんじゃっ!!…大体おめーらやる事がセコイんだよ!大減封は当然なんだよっ!てかさ。てかさっ!処刑されなかっただけありがたいと思えって話だよ!AKさんなんか身代わりでしょ違うの?ごめんなさいつい個人的見解が…。

とにかく。殺る気・元気・宇喜多!は大所帯で五大老(清華成)、実質西軍の現地総帥。陣もそれに相応しい大人数を収容できて堅固な守りじゃなきゃいけない!その陣とは…。

不破関の土塁で防御された陣城。

今も2m近くの高さが残る土塁は合戦当時はより高く、柵など設け防御を強化した事でしょう。
そして新たに土塁、堀、竪堀など普請し、強固な陣城を構築した。不破関の土塁からは福島隊が放ったと推測される鉛玉が検出されてるの。不破関資料館に展示されてるから見て。

関ケ原には宇喜多陣跡以外にも遺構が沢山残ってて。余り知られていないけど、うっとりするような綺麗なS字カーブを描く土塁、謎の土塁、謎の堀など、いつ誰が何のために構築したのか私には判断できない不思議な、きっと人工的に作られた遺構も沢山あります。
超方向音痴で物覚えの悪い私は、人の何倍も現地を歩かなければ理解できない。漠然と「もっと関ケ原を歩きたい知りたい」と思ってて。昨晩忘年会の場で城友さんが突然「私の歴史の原点は関ケ原」と仰り、私も当然同意見。より一層その思いを強くしました。
遠征する事は無く、何年経過しても僅かな攻略数でその事に引け目を感じる事もあるけれど、誰もがその名を知り、多くの方の羨望地関ケ原に通える事に感謝し、今後も出来る限り関活を継続します。
しかし史跡巡りって、足腰も頭も鍛える事ができる最高の趣味ですね。

口コミは纏まったらサンライズ出版から自費出版して城めぐイベント時に配布するね♡タイトルは「エリカの妄想日記♡」ですよ。

それでは皆さん、よい歴活を!
アディオス!

2023年11月06日 名無しの温かい人。
大谷吉継の墓[不破の関  寺社・史跡]



全国3000万人の関ケ原ファンの皆さんこんばんは!
趣味は妄想のお姉さん。今日も元気に妄想しているよ!

お姉さん先日、「外岡慎一郎先生と行く関ケ原史跡ハイキング」に参加してきたよ。 みんなもちろん外岡先生は知ってるよね?浜っ子で専門は日本中世史。敦賀で30年以上オオタニサーンの研究をされてた、オオタニサーン研究の第一人者だよ。NHKの歴史番組にもよくご出演されてる、ほら、お顔がちょっぴり四角形の…。 …あ~!あの先生ね。って、分かった?ホント??作家の加来先生じゃないよ?そこんとこヨロシク!

そんな外岡先生と「今日は関ケ原でブラシンイチロウ」
…て全くブラじゃなかった!お姉さん外岡先生の事、完っ全に誤解してた。テレビでの座ってるお姿と、講演会で遠くから拝見した事しか無かったから、研究室に籠って古文書読んで分析して論文書いてる、完全に研究肌の人のイメージだった。その外岡先生のハイキングだもん、楽勝〜なんて思ってた。 それが先生歩くのめちゃめちゃ速い!!コレって競歩?それ以前にまず想像してたお姿と全然違う!失礼ながらテレビだとちょっぴり太めなイメージだったんだけど、全然。足細っ!長っ!スタイルいい!キャップ被ってて後頭部見えないから若い!(失礼w)何ならカッコイイ!(だから失礼w) とにかくいい意味で思ってたんと違う(ホント失礼w)素敵でめちゃめちゃフィールドワークな先生でした。そんな外岡先生のフォト貼っておくから削除される前に見て!足長いから♡

そんな「今日は関ケ原で競歩シンイチロウ」のコースは、古戦場記念館出発→東首塚→松平・井伊陣跡→藤堂・京極陣跡→福島陣跡→松尾山眺望地 →吉継陣跡→吉継墓→宇喜多陣跡→小西陣跡→開戦地→島津陣跡 →家康最後陣地だよ。3時間でこれだけ陣跡行って解説しなきゃだから早歩きだったの。 沢山解説して下さったよ。

そうそう、外岡先生11/8の英雄たちの選択、歴史探偵、12月には最早年末恒例?の決戦関ケ原IIIに出演されるんだって!元同僚の千田先生と熱い論戦を繰り広げたって仰ってたから超楽しみだね!ちなみに千田先生はまた山中の大谷陣跡周辺でお城を発見したらしいよ?ボヤ騒ぎのあった辺かな?それとも反対側かな?稜線沿いだって。最近は赤色立体図で発見できちゃうからね。でも楽しみだね。

ところでお姉さん常々、なんで吉継は西軍で参戦したのかすごく疑問に思ってたんだ。 よく三成との友情、なんて言うけど、こう見えても成人してるお姉さん、義とか友情なんて言葉に騙されるほどウブじゃないの。戦国武将だもん、お家の事とか家臣の事とか考えちゃうでしょ?当初は挙兵に反対したのに結局西軍として戦って、関ケ原の地で自害しちゃった…。
みんなは疑問じゃない?

で、外岡先生は、その吉継がご専門なんだよね。 お姉さん、この日のハイキングと翌日・翌々日の講演会で、3日連続で外岡先生のお話しを拝聴したんだ。それぞれ演目は吉継と三成で微妙に違うけど、全て秀吉亡き後から関ケ原に至るまでの内容だったの。
でね、3日間のお話しをお姉さんなりに纏めると。
「秀吉が亡くなり三成や吉継は、秀吉存命中は服従していた家康をはじめとする豊臣大名の勝手な行動による政権崩壊を恐れた。三成と吉継は豊臣政権における車の両輪だった。吉継が目指した秀頼政権の構想には、三成は無くてはならない存在だった。」て事なんだ。

現代に生きる私たちは、関ケ原の戦いが僅か半日、東軍の圧勝で終わった事を知ってるから、お姉さんはつい「吉継はなんで西軍で参戦したんだろ…」て思っちゃうけど、惨敗するって思ってる訳じゃないもんね。家康が謀反人だったんだし、勝機がある!イケる!時は今!と信じて挙兵するんだもんね。

島津陣跡で先生が「家が残ると文書が残るし、子孫によってこんな立派な石碑も建つ。西軍では島津くらい。石田、大谷、小西、宇喜多ら、語ることのできなかった人たちの事を考えなきゃいけない。西軍の名誉を守りたい、明らかにしたいというのが研究者の思い。」と仰ったんだ。(必死でメモした)

お姉さん、深く感銘を受けたよ。
一気に外岡先生推しになったよ。
それは冗談として(半分本気)、先生のお話しを聞いてお姉さんもお姉さんなりに、語りたくても語れない人たちの思いを少しでも語る事、てのは烏滸がましいけど、何かできたらなって思った。それは本当に小さな小さな。ここに書く事だったり、現地で話す事だったり。

そんな事を思い口コミを書く、11月6日の今日は新暦推しの命日。(間に合った…)

2023年10月21日 名無しの温かい人。
薩摩池[不破の関  寺社・史跡]



良い子のみんな、先週の合戦祭りは楽しんだ?
お姉さんは祭りを横目に陣城見学会に参加したよ!そんなお姉さん、今日も絶賛関ケ原なう!だよ。

みんな、今日10月21日は何の日か知ってる?
オフ会の日?うん、盛況で何より。確かにそうなんだけど…
けど!10月21日って言ったら「 関 ケ 原 の 戦 い 」が起こった日だよ!!(新暦)
そう、戦国の聖地関ケ原で天下分け目の戦いが起こった日だよ!!
旧暦で言うと9月15日だってのは、アイラブ関ケ原のみんなは知ってるよね。その頃はまだ暑さが残る。ていうかバリバリ暑いよ!でも今日の気候はどう?みんなのお家もきっと肌寒いよね。 そう、実際に関ケ原の戦いが起こった日は肌寒く、前日夜間から降った雨が上がり、立ち込めていた霧が晴れてきた、そんな時に始まったんだよ。
423年後の関ケ原も肌寒いよ。てか普通に寒いよ!風もぴゅ〜ぴゅ〜吹いて何なら小雨も降っててムリしんどい、これから戦が始まる決戦直前体感5秒前だよ!

おっと!気付けばまた前置きがめちゃくちゃ長くなってた。今日はその合戦記念日にちなんだ、関ケ原の島津義弘陣跡(薩摩池)についてだよ。
義弘さんの経歴や人物像についてはまた機会があれば、だよ。逃げてるわけじゃないよッ!...時間稼ぎだよ。

島津義弘の陣跡って言ったら、案内板と薩摩から運ばれてきた大きな石碑がある、あの場所だって思うよね?でもあそこは、義弘の甥で島津隊先鋒の島津豊久がいた場所なんだよ。島津義弘本隊は、そこから北西約250mの薩摩池周辺なんだ。
この「薩摩池」の名前の由来も、薩摩の島津隊がこの池の水を軍用に使用した事からそう言われるようになったんだ。 ゴミが不法投棄されることがあって、かなり埋められちゃって今は小さい池なんだけど、昔は洪水になると水があふれるぐらい水量豊富で、古来より水が枯れることがなかったんだって。 今は、ひび割れた地面が見える事もあるけどそこは気にしないで...。ほら小さくなっちゃったから、気候によってはそういう事もあるよ...。でも体感5秒前の今日はちゃんと水が張ってるよ。

先週はそんな薩摩池近くの陣城の見学会だったんだ。講師は鬼才のお城の先生だよ。
お姉さん、以前も入った事あるんだけど、倒れた五輪塔がいくつも転がってて正直気持ちの良い場所じゃないんだよね。綺麗すぎる、まるで映画を見てるような古戦場記念館のシアターや、立派すぎる馬防柵付きの整備された笹尾山などとは違い、朽ちた五輪塔が生々しくて、ここに来ると、関ケ原はCGだけ観てたんじゃ実感できる筈もない、リアルな戦場だったんだと思い知るよ。
お姉さん、超ビビりの豆腐メンタルだから、普段はサッと行ってサッと写真撮ってすぐ帰るんだけど、この日はみんなと一緒だから大丈夫だった!単純。(季節ハズレの写真があるのはそういう理由だよ)

ここは、小関と呼ばれる関所があった可能性もあり、道で分断されてはいるけど土塁も残ってるんだ。いつの時代の土塁だろう。
石田三成笹尾山からも近く、北国街道を抑える重要な場所だったんだね。勇猛果敢と言われる島津軍。きっとこの地でも攻めの戦をしたと信じたいけど、真相はどうなんだろうね。

池の脇から奥へ入ると、倒れた五輪塔(怖いよ)があり、そのすぐ先に堀。島津は自陣から動かず攻め寄せる敵を撃退したとも言うけど、ここから銃を放ってたのかも。先生が仰るにはここから北天満山へ続く方にも遺構があるんだって。今度見にイコウ。
今も現場なう!なんだけど、ぼっちでビビりのお姉さん。民家から微妙に離れてるし、薄暗いからやっぱり怖い。奥まで入る勇気が無いから、かわりに島津義弘陣跡(豊久の方ね)脇のコスモスが満開だったから、コスモス畑と陣跡のコラボを貼っておくね。

「わぁ~!コスモスめっちゃ綺麗~〜♡」
「…君の方が綺麗だよ☆」
「やっぱり~?よく言われる〜〜♡」

脳内会話です。
異論はゼッタイ受け付けませんっ!!

あ、あうっ…そうこうしてたらみんな伊吹山方面へ敗走してくよ…。お姉さんもそろそろ撤退するよ。

423年後の現場からは以上です!キリッ

2023年08月31日 名無しの温かい人。
不破の関



良い子のみんな、元気にしてた?

お姉さん、今回初めて関ケ原の史跡の口コミを書くよ。関ケ原の事を書くんだったら、アレもコレも詰め込みたいと願っちゃう欲張りお姉さん、纏めるのがタイヘンでついつい後回しにしちゃうんだよね。 不破関も口コミ書こうと思い、何度写真を撮りに行ったことか…。 おっと、隙あらば自分語りしちゃうのがお姉さんの悪い癖。お口チャック!とっとと始めるわよッ!

チャックお姉さん「関ケ原町不破関跡発掘調査現地説明会」に行ってきたんだ。
そうなんだよ!不破関はナント!50年ぶりの!発掘調査の!真っただ中なんだよ〜!
もう、ワクワク・土器土器だよ~~!!

そもそも「不破関」(ふわのせき)て何ぞや?ってそこのキミ、疑問に思う事は大切だよ。 読んで字の如く、不破郡関ケ原町の東山道に設置された関所だよ。
もう少し掘り下げると、672年に起きた「壬申の乱」の勝者、天武天皇(大海人皇子)の命令によって、8世紀初頭に設置された関所の一つ。中でも不破関と鈴鹿関と愛発関は重要な関所で、三関と呼ばれるんだ。
関所ってのは、情報漏洩を防ぐ、違反者が畿内から東国へ逃れるのを防ぐ、反対に東国から畿内へ侵入するのを防ぐなどの目的で作られたんだ。
要するに、都の防衛施設さ。
不破の地は壬申の乱の舞台でもあり、大海人皇子は東と西を繋ぐこの地を抑えたから戦いを有利に進めることができたんだ。不破の重要性・危険性を誰よりもよく知ってたからこそ、この場所に関所を置いたんだね。

で、この不破関のすごいのはさ、8世紀初頭に築かれた関所の「土 塁 が 現 存 し て い る」んだよ!!
自由に、タダで、土塁の上を、「歩 け る」んだよ!!
いいかい?もう一度言うよ? 「1300年前に作られた土塁が、今も目の前にあるんだよーー!!」

危ない危ない!関ケ原の事になると冷静でいられないイケナイお姉さん。 今日は土塁の話じゃなくて、発掘調査現地説明会のレポだったよ。

不破関では2022〜2026年度まで調査が行われているんだ。 50年前の調査で、西は藤古川による自然地形の防衛、北東南には外郭土塁、内郭には築地塀、その中に掘立柱建物の構造、外郭の主要拠点には監視用の望楼が設けられていた等は判明してるんだ。
今回の調査では不破関資料館の南側2ヶ所(1トレンチ・2トレンチ)約30平方mで、築地遺構の再確認が行われたよ。

イケナイお姉さんが興味を持ったのは1トレンチ。
一辺約60cmの柱穴が7つ見つかったんだ!
この穴が、築地側溝に切られる形で発見されたから、築地塀(って何?て人はググるんだ!)ができるより前に、西に庇を配置した南北棟の格の高い掘立柱建物(ググるんだ!)があったと想定できるんだって。
つまりさ、元々立派な建物があったのに、もっと立派な建物に建て替えてレベルアップしてたんだよ!ロマンだよねえ〜。

出土遺物は少なかったんだけど、この事から逆に、(瓦が沢山検出されてる)東山道沿いには目立つ瓦葺きを施し、街道から見えない内部は板葺きで済ませていたという仮説が立つんだって。 人目に付く所ドヤッ!内部は堅実。おうちでヨレヨレの部屋着を着てるお姉さん、一気に親近感湧いたよね~。

ヨレヨレお姉さん、実は前からすごく気になってる事があってさ、説明会終了後に梶原教授に「大友皇子の首が埋められたと伝わる自害峰は発掘されないんですか?」って尋ねたんだ。教授は楽しげに「なになに?皇子の首が出てくるの?」って茶化しながらも「骨は残んないからねー」と相手をして下さった。お姉さん「でも、塩漬けにされた首が入れられてた壺とか…」って食い下がってみた。 教授は「うーん…確かに藤古川の辺りは色々面白いんだけどねー」云々(発掘したら何か出てくるだろう的ニュアンスだったよ)。
もう少しお聞きしたかったけど、教授への取材待ちの新聞社の圧を感じて、お礼を言ってその場を後にしたよ。お姉さんは忖度できる人なんだ。照れる。

でもね、大友皇子の御首が埋められたのは間違いないと思うんだ。 藤古川より西の、大友派として戦った地元の人々が皇子の御首を葬り、皇子を祭神として麓に若宮八幡宮を建立した。 これこそ歴史ロマンじゃないか!

みんなも、QR読み込んで関ケ原クリア!だけじゃなくて、壬申の乱と不破関の史跡を歩いてみる事をオススメするよ。藤古川の東にある大海人皇子を祀った井上神社と、大友皇子の若宮八幡宮との違いも感じて欲しい。アナザー関ケ原、だよ。

そうそう、来年度は発掘地を変えて調査が進められるんだって。土器土器♡ダネ♡

①1トレンチ
②2トレンチ
③築地側溝に切られた形で発見された柱穴を説明する梶原教授
④出土遺物

2023年08月05日 不破河内守光治
不破の関



不破の関は昔行った時は周りには木が生い茂っていた覚えがありました。現在はかなり木々が少なくなっており、変わらないのは不破の関資料館の建物と館内の展示物だけです。因みに館内は撮影禁止です(入館料150円)。建物の裏からは壬申の乱の舞台となった東山道が見下ろせます。近くには関ヶ原の戦いの東軍の将、福島正則の陣跡もあります。

2023年06月18日 主税頭RedKing
不破の関



古代三関の内、唯一場所が特定されて史跡として、近年再び発掘調査されるそうです。勿論、壬申の乱前後の記紀の記述と言う神話か伝承はたまた正史なのか、またその解釈も諸説ありと。ただ伝説の黒血川には、梅雨の時季に源氏螢と呼ばれる種類が飛び交います。R21から関ヶ原町立不破の関資料館の駐車場に止めて、東海自然歩道の公衆便所が使えます。資料館で古代も中世そして近代も要衝であることが実感されます。名神高速に東海道新幹線と東海道本線がすぐ脇を抜けています。客観的な東山道が通り、すぐ東には悪名高き西町交差点(北國街道伊勢街道と中山道の接点)です。

2023年03月03日 〒ツロ
徳川家康最初陣跡[不破の関  周辺城郭]



♪モモモモモモもももくばりやま、、♪ この冬バックホゥで削られてた?桃配山の陣跡ですが、どうやら整地が完了したモ様です、、さっそく登って関ケ原を一望すべし!以前に比べ見通しが良くなりました、関ケ原古戦場記念館モみえるし、、

壬申の乱の勝者:大海人皇子が陣を敷き、兵士たちに労いの桃を配ったと伝わる聖地、、

時は巡って再び風雲関ケ原!小雨あとの朝靄のなか家康公はここに最初の本陣を敷き、腰掛けるに丁度いい石(写真参照)に座りて勝利を確信していたのでしょうか?南宮山の毛利秀元陣跡と尾根伝いでつながってたこの場所、、背後からの奇襲なぞ恐るに足らず!!、、、って、うわっ!?ケツちべてェ💦

2022年09月23日 【城郭道】たっきー
田中吉政陣跡[不破の関  周辺城郭]



岐阜関ヶ原古戦場記念館の近くにある3000の兵を率いて黒田長政、細川忠興らと共に石田三成と戦い、壊滅させた田中吉政の陣地です。遺構は無く、石碑や説明板が建っています。この人が三成を捕縛したのも有名な話。

2022年09月23日 千葉相模守早雲【三つ葉葵】
石田三成陣跡[不破の関  周辺城郭]



関ヶ原の戦いを肌で感じてみようと足を運びました😁文字で読んだ事しかない笹尾山石田三成陣跡。山というよりも丘という印象です。しかし感慨深いものがあります。

柵が幾段も設けられ、今も戦闘態勢にありました😁

1.石田三成陣跡全景。
2.通路脇には設けられた柵。
3.数段の柵で防御強化。
4.旗印が陣跡を盛り上げる。
5.笹尾山展望台。三成公になりきって関ヶ原を眺めてみよう☝️
6.陣跡。

2022年07月31日 RED副将軍
不破の関



日本三関の一つ。
畿内と東国を隔てた関所のひとつです✨

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

672年な壬申の乱で、村国連男依が不破道を塞いだことが日本書紀に記されており、翌年の673年に天武天皇の命により、都の治安維持のため東山道不破に関所が設置されました。
他にも東海道鈴鹿関(伊勢国)、北陸道愛発関(越前国)の3つの関所が設置。三関と呼ばれ、畿内と東国の通行が厳重に管理されたもの。
789年、桓武天皇により三関は廃止となりました。

見所
現在は、関守跡と伝わる付近に不破関資料館が築かれています。
かつて関は、西側は藤古川を利用し、残り三方は土塁で囲まれていた様で、高さ2m、基底部の幅6mの北限の土塁が現在も残っています。

2022年07月18日 【城郭道】たっきー
矢尻の池(井)[不破の関  寺社・史跡]



藤古川橋を西に渡った先の急坂を上りから辺りの左手にある池です。大友皇子の兵士が水を求めて矢尻で掘ったものをと伝えられています。現在もその名残があります。付近に説明板もあります。

2022年07月18日 【城郭道】たっきー
自害峰の三本杉[不破の関  寺社・史跡]



672年の壬申の乱で敗れ、25歳の若さで自害した大友皇子の頭をこの丘にまつり、そのしるしに杉を植えたと伝えられています。この場所を『自害峯』と名付けられ、弘文天皇御陵候補地とされています。

森の中の階段を登ったところにあります。

2022年06月25日 【城郭道】たっきー
石田三成陣跡[不破の関  周辺城郭]



石田三成陣地、岐阜県関ヶ原町。
慶長五年九月十五日、石田三成ら西軍は大坂に向かう家康を討つために大垣城を発ち、いわゆる鶴翼の陣という包囲を作った。三成はその最左翼、笹尾山に陣を構え、柵を築き、大砲を構えた。
開戦後は黒田、細川らと戦うが既に知られているように敗走。二十一日に近江国古橋村で田中吉政によって捕縛、翌月一日に三条河原で小西行長、安国寺恵瓊と共に処刑された。

現在は柵や旗などが復元されて非常に気持ちの良い場所となっています。山頂の展望台からは東軍、西軍両方の陣地跡がくっきりと見渡されます。
駐車場やトイレもあるので非常に行きやすいかと。是非行ってみてください。

2022年03月16日 【城郭道】たっきー
薩摩池[不破の関  寺社・史跡]



島津義弘陣所より西側にある薩摩池。関ヶ原の戦いによって島津勢が軍事利用したと言われている池です。付近には説明板もあります。駐車出来そうな場所がありましたので、車でもいけると思います。

島津義弘陣所から近いところにあるから行ってみて。以城。

2021年12月17日 RED副将軍
石田三成陣跡[不破の関  周辺城郭]



天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて西軍大将の石田三成が本陣を布いた跡地⚔

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1600年の関ヶ原の戦いの際に西軍石田三成は関ヶ原の北西に位置する笹尾山に兵力5,820人の陣を布いたと言われています。
合戦の推移は史料により差異がありますが、概ね共通していることは、9月15日の午前中に戦闘が始まり、拮抗する中、小早川秀秋らの裏切りがあり、以降は西軍が崩壊したということ。
約半日で天下分け目の戦いは東軍の勝利で終結しました。

石田三成は、笹尾山ではなく、小早川秀秋が布陣した松尾山の近くにある「自害が峰」に布陣したという有力な説があることも注目です。

見所
関ケ原を一望でき、北国街道が押さえられる山頂です。
当時の三成に想いを馳せ、それぞれの陣跡を俯瞰することができます。
よく整備され、駐車スペースも充分にあります。

2021年08月26日 乱会
不破の関

案内パネルは旧中山道沿いにあります。また、不破の関や壬申の乱について知りたい場合は、道の向かい側に不破関資料館があるのでそちらへどうぞ。優しい職員さんが、中で壬申の乱解説VTRを流してくれます。
関ヶ原古戦場記念館が出来たことによって、一部の展示品がそちらに移されてしまったのがカナシイ…

2021年08月14日 【城郭道】たっきー
徳川家康最後陣跡[不破の関  周辺城郭]

家康が最後に陣を置いた場所。戦いの勝敗が決した後、ここで首実験をを行った。現在は陣場野公園と化している。

2021年07月25日 ばらく~だ
大海人皇子沓脱石[不破の関  碑・説明板]



壬申の乱の際に、大海人皇子が脱いだ沓を置いた石だそうです。すぐそばに、兜掛石もあります。
不破の関の主要な建物は、この石の周囲にあったようです。
関守邸跡から見て、旧中山道の反対側、民家に囲まれた畑の中にあります。入口に小さな案内板があり、民家の間をすり抜けていった先にありました。
通路はそれっぽい感じになっていましたが、やはり畑や、民家の敷地内に立ち入らないよう注意が必要だと思います。

2021年04月01日 石田左京進佐吉
大谷吉継の墓[不破の関  寺社・史跡]



吉継が大好きな子供達と。
小学生でも安全に登れます。

2021年02月15日 島津左馬允義弘
岐阜関ケ原古戦場記念館[不破の関  関連施設]



【データ】
名称:岐阜関ケ原古戦場記念館
所在地:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55
開館時間:09:30〜17:00(入館は16:30まで)
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
    12月29日〜1月3日
入館料:一般 500円(団体 400円)
    高校生・大学生 300円(240円)
    中学生以下 無料(無料)
駐車場:北側無料駐車場(30台駐車可能)
    南側無料駐車場(70台駐車可能)
その他:事前予約制
写真:①〜③外観 ④5階展望室

【感想】
とてもきれいです!シアターは縦4.5m、横13mもあり、とても迫力があります。また、風がきたり、椅子が微妙に揺れたりします。
お土産もとても充実しています。【2021.02.06】

2020年12月14日 【城郭道】たっきー
大谷吉継陣跡[不破の関  周辺城郭]



大谷吉継陣跡は標高約35メートルの丘の山腹に立地し、山中城とも呼ばれました。関ヶ原の最も南にある陣地で曲輪はなく、中山道を見下ろすように土塁を伴う塹壕状の横堀が構えられていました。また、松尾山方向に馬防作が造営されました。
現在は石碑や説明板、旗があり駐車場が整備されてリア攻めしやすくなっています。大谷吉継陣跡からは松尾山城(小早川秀秋陣跡)がよく見えます。

2020年10月06日 【城郭道】たっきー
黒田長政・竹中重門陣跡[不破の関  周辺城郭]



黒田長政、竹中重門が陣を構えた地です。

長政は家臣の菅正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長としてせいぐ西軍へ攻撃し、島左近を討ち取るなどの活躍を見せました。

重門は長政と共に西軍との激戦で奮戦しました。戦後は死体の片付けや寺社の修復などをしました。

2020年10月05日 【城郭道】たっきー
細川忠興陣跡[不破の関  周辺城郭]



関ヶ原の戦いでここに陣を構えた細川忠興。
黒田長政と共に石田三成本隊と戦い、136の首級をあげたそうです。

2020年09月26日 【城郭道】たっきー
大谷吉継の墓[不破の関  寺社・史跡]



大谷吉継陣跡から歩いて10分ほどで大谷吉継の墓に着きます。
大谷吉継陣跡をリア攻めした場合、是非行ってみてください。途中、別れ道があり、そこから平塚為平の碑に着くことができます。

2011年08月07日 三河守コーキしゃん
不破の関

松尾山城の北側にあります
周辺に陣跡などがあるので歩いて色々散策すると楽しいです

不破の関の周辺スポット情報

 不破関南限土塁跡(遺構・復元物)

 不破関北限土塁跡(遺構・復元物)

 田中吉政陣跡(遺構・復元物)

 関ヶ原古戦場 開戦地(碑・説明板)

 関ヶ原古戦場 決戦地(碑・説明板)

 岡山烽火場(碑・説明板)

 平塚為広の碑(碑・説明板)

 大海人皇子沓脱石(碑・説明板)

 兜掛石(碑・説明板)

 美濃不破関 南限の土塁跡(碑・説明板)

 石田三成陣跡(周辺城郭)

 島左近陣跡(周辺城郭)

 徳川家康最後陣跡(周辺城郭)

 田中吉政陣跡(周辺城郭)

 小西行長陣跡(周辺城郭)

 島津義弘陣跡(周辺城郭)

 宇喜多秀家陣跡(周辺城郭)

 大谷吉継陣跡(周辺城郭)

 藤堂高虎・京極高知陣跡(周辺城郭)

 細川忠興陣跡(周辺城郭)

 黒田長政・竹中重門陣跡(周辺城郭)

 本多忠勝陣跡(周辺城郭)

 徳川家康最初陣跡(周辺城郭)

 山内一豊陣跡(周辺城郭)

 福島正則陣跡(周辺城郭)

 松平忠吉・井伊直政陣跡(周辺城郭)

 脇坂安治陣跡(周辺城郭)

 蒲生郷舎陣跡(周辺城郭)

 平塚為広陣跡(周辺城郭)

 戸田重政陣跡(周辺城郭)

 木下頼継陣跡(周辺城郭)

 朽木元綱陣跡(周辺城郭)

 小川祐忠陣跡(周辺城郭)

 赤座直保陣跡(周辺城郭)

 寺沢広高陣跡(周辺城郭)

 加藤嘉明陣跡(周辺城郭)

 筒井定次陣跡(周辺城郭)

 生駒一正陣跡(周辺城郭)

 金森長近陣跡(周辺城郭)

 古田重勝陣跡(周辺城郭)

 織田有楽斎陣跡(周辺城郭)

 島津豊久陣跡(周辺城郭)

 筒井定次陣地(周辺城郭)

 生駒一正陣地(周辺城郭)

 金森長近陣地(周辺城郭)

 織田長益陣地(周辺城郭)

 古田重勝陣地(周辺城郭)

 寺沢広高陣地(周辺城郭)

 小川祐忠陣地(周辺城郭)

 赤座直保陣地(周辺城郭)

 朽木元綱陣地(周辺城郭)

 大谷吉継の墓(寺社・史跡)

 東首塚(寺社・史跡)

 西首塚(寺社・史跡)

 島津豊久奮戦の地(烏頭坂)(寺社・史跡)

 長寿院盛淳の墓(寺社・史跡)

 薩摩池(寺社・史跡)

 黒血川(寺社・史跡)

 自害峰の三本杉(寺社・史跡)

 矢尻の池(井)(寺社・史跡)

 関の藤川(藤古川)(寺社・史跡)

 西城門跡(寺社・史跡)

 東城門跡(寺社・史跡)

 鍛治工房跡(寺社・史跡)

 井上神社(寺社・史跡)

 若宮八幡宮(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 笹尾山の駐車場(駐車場)

 開戦地の駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 関ヶ原町歴史民俗資料館(関連施設)

 関ヶ原駅前観光交流館(関連施設)

 岐阜関ケ原古戦場記念館(関連施設)

 不破関資料館(関連施設)

 笹尾山交流館(関連施設)

 関ヶ原ウォーランド(関連施設)

 関ヶ原戦国甲冑館(関連施設)

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