西高木家陣屋(にしたかぎけじんや)
西高木家陣屋の基本情報
通称・別名
- 高木陣屋、(多羅城、多良城)
所在地
- 岐阜県大垣市上石津町宮237
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- (平城)、陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 関一政(多羅城)、高木氏(西高木家陣屋)
築城年
- 天正年間(1573〜1592)?(多羅城)、慶長6年(1601)(西高木家陣屋)
主な改修者
- -
主な城主
- 関氏(多羅城)、高木氏(西高木家陣屋)
廃城年
- -
遺構
- 長屋門、母屋、石垣(西高木家陣屋)
指定文化財
- 国史跡(西高木家陣屋跡)
再建造物
- 石碑、説明板(西高木家陣屋)
周辺の城
-
松尾山城(岐阜県不破郡)[6.7km]
八講師城(滋賀県米原市)[7.7km]
不破の関(岐阜県不破郡)[8.0km]
長比城(滋賀県米原市)[8.7km]
垂井城(岐阜県不破郡)[10.6km]
菩提山城(岐阜県不破郡)[11.8km]
京極氏城館(滋賀県米原市)[12.2km]
長松城(岐阜県大垣市)[12.6km]
鎌刃城(滋賀県米原市)[13.7km]
高室山城(滋賀県犬上郡)[14.2km]
西高木家陣屋の解説文
[引用元:Wikipedia「西高木家陣屋」の項目]
西高木家陣屋(にしたかぎけじんや)は、岐阜県大垣市上石津町(旧養老郡上石津町)(美濃国石津郡)多良郷にあった平城である。別名、多良城、多羅城、高木陣屋とも称する。陣屋跡は、2014年(平成26年)10月6日に「西高木家陣屋跡」(にしたかぎけじんやあと)として、国の史跡に指定された。
旗本高木家は、西高木家、東高木家、北高木家の3家があり、交代寄合である。この3家が隔年で参府していた。旗本であるが、大名格を与えられ、普請奉行の役をうけたまわっていた。最も大きいのが西高木家である。この3家を美濃衆という。
なお、3家とも高木家であるが、区別するため、西高木家、東高木家、北高木家と記載する。
概要
高木貞利は美濃国石津郡を所領しており、斎藤道三、織田信長、織田信雄に従った。しかし、豊臣秀吉により信雄が改易された際、甲斐国に蟄居となった。かわってこの地を所有した関一政が多羅城を築いた。築城時期は天正年間とも慶長年間ともいう。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、関一政が伊勢国亀山(現亀山市)に移封されると、再び高木貞利の所領となり、江戸時代には旗本となった。このさい、高木家は3家に分かれ、高木貞利の西高木家(2,300石)、高木貞友の東高木家(1,000石)、高木貞俊の北高木家(1,000石)となる。この3家を交代寄合美濃衆といい、大名格で3家隔年交代で参勤交代を行った。
翌年の1601年(慶長6年)、西高木家陣屋を築く。かつての多羅城は緊急時用として一部が残されたという。
また、1624年(寛永元年)より国役普請奉行を勤め、その後水行奉行(美濃国、尾張国、伊勢国の水利治水事業を行なう役目)にも任ぜられた。
西、東、北高木家陣屋は1868年(明治元年)まで存続する。
屋敷
天保3年(1832年)3月、北高木家の屋敷から出火があり、隣接する西高木家も類焼による屋敷を喪失した。この時には屋敷再建のための多額な資金が必要となり血縁関係のある諸藩や近隣の高須藩に金子借用を依頼した[1]。
表門は1852年(嘉永5年)に、屋敷は1896年(明治29年)に再建されている。また、当時の石垣と1815年(文化12年)建設の埋門の石積みが残っている。
北高木家、東高木家の土蔵が現存するという。
西高木家陣屋跡の敷地内には、1993年(平成5年)上石津町郷土資料館(現・大垣市上石津郷土資料館)が開設されている。
所在地
- 岐阜県大垣市上石津町宮237
交通機関
- 名阪近鉄バス関ケ原時線「宮」バス停下車、徒歩ですぐ。
- JR関ケ原駅より「時」行き
周辺施設
- 大神神社
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西高木家陣屋の口コミ情報
2023年11月02日 図書頭RedKing
西高木家陣屋
大垣市の旧上石津町内には中世の山城が沢山あったようです。「麒麟が来る」で俄に伝承が脚光を浴びました。多良の地名に落ち着くまでに色々な表記があったのでしょう。それはさておき、薩摩様(宝暦治水のご恩から当地ではこうお呼びします。)が「捨てがまり」で有名な撤退戦で近江への経路は「薩摩道」の名が付きます。砂防顕彰碑から霊仙山を右手に仰ぎ見て登山する林道そのものの県道上石津多賀線とされています。この近江側多賀町の佐目集落にはミツヒデ伝説があり、見津さんと言うご名字の方もおいでだそうです。もう勢州街道沿、牧田川の河岸段丘は他の方が説明されていますね。水行奉行であったことや保管されていた古文書が名古屋大学で整理・公開されています。
2023年05月13日 【城郭道】たっきー
島津豊久の墓(島津塚)[西高木家陣屋 寺社・史跡]
説明板や島津の家紋である丸十の旗がいくつも立っているところが見えます。そのあたりにあります。先の木々が生い茂る方へ行くとすぐに碑、祠、鳥居などがあります。
江戸時代、島津家が参勤交代の度に使者を派遣したという地。関ヶ原の戦いの際に惜しくも散った島津豊久を偲ぶことができます。なお駐車場あり、付近にも島津ゆかりの地ありなので是非車で色々な箇所を巡ってほしいです。
以城。
2022年10月19日 RED副将軍
西高木家陣屋
石垣群が良好に残る近世陣屋🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
天正年間または慶長年間(1573年〜1615年)に関一政によって築かれた多羅城が始まりと云われます。
元々は清和源氏の系譜である高木氏がこの地を支配していました。勢力を拡大する齋藤道三、織田信長に属し、織田信雄の家臣となりました。しかし織田信雄は豊臣秀吉と対立をしたため家臣の高木氏も転封となり、代わって入部した関一政が新たに多羅城を築いた経緯です。
1600年の関ヶ原の戦いで戦功を挙げた関一政は移封となり、代わって徳川家康に見出された高木氏の所領に再びなりました。その際に高木氏は旗本となり、西高木家、東高木家、北高木家の三家に分かれます。三家を交代寄合美濃衆として大名格に扱われました。
1601年に多羅城を廃して西高木家陣屋を建造。
その後も国役普請奉行、水行奉行を務め明治まで存続しました。
見所
揖斐川の支流である牧田川の河岸段丘に築かれています。
石垣群が良好に残存し、特に埋門跡の石垣遺構が見事です。
また、1852年に建造の下屋敷御門を移築した長屋門も残っています。
2022年05月28日
西高木家陣屋
資料館。100円。今時こんな値段ないですよ。ただ、PayPayにしてください。小銭というか現金もってないです。^_^ ふざけた内容はここまでで。
島津との関係。地域の生物。民族など。盛りだくさんの展示がしてあり、一度は立ち寄りください。関ヶ原観光ついでで歩いては無理っぽいですので、松尾山登城と、兼ねて自転車借りてください。
信長との書状(信長が鰹好きとは知らなかった)が、残っていたり、事件は現場で起こってます。訪れ難い場所ではありますが、島津家好きにも、寄り道の価値ありです。
2021年12月18日 釆女正佐吉。
樫原城[西高木家陣屋 周辺城郭]
上石津はまあまあの雪。長靴履いて樫原城行くぜ!
堀切るんるん
横堀撮りたい!…ここ今日は長靴で降りるんか。
大丈夫大丈夫!ゆっくり降りれば余裕余裕!!
大丈夫大丈夫、そうそう木を持ってゆっくり…
あァァァぁああァァァーーーー!!!
滑ったあアァぁぁーーーー
い痛っっったアァぁぁーーーー
手のひら皮むけた!足完全に捻った!!
立てれへん!とととりあえず座ったまま横堀…
ヤバいお尻雪で冷たい!
はーーどっこいしょっ…
①堀切
②堀切
③美しい曲線を描く土塁
④見事に削平された郭と君たちお行儀良いね杉の木
⑤土塁
⑥痛い…痛いよ横堀
⑦虎口。内枡形虎口に見えませんか?
⑧井戸跡
2021年10月10日 八咫烏紀伊守鉄龍
西高木家陣屋
陣屋の図面や地格の山城の資料などがあり。寄ってみる価値あります。
2021年05月10日 釆女正佐吉。
樫原城[西高木家陣屋 周辺城郭]
城ヶ平城から車で5分程度です。樫原城跡で検索してください。津島神社と樫原公民館が隣り合わせですので、樫原公民館に駐車させていただきました。8〜10台余裕の広さです。
登城口は、津島神社の鳥居をくぐり、階段を登り切った先の右手階段奥になります。そこに樫原城(かしばらじょう)の概要図と縄張り図の描かれた看板があります。この樫原城、三輪三人衆の1人で三輪佐渡という方が住まわれていた説があるようです。「三輪三人衆」で検索すると、ちょっと悲しい伝承が出てきました。まさに昨日一筆で見た信長被害者友の会の1人だわ…。
さて、ここから徒歩約3〜4分。すぐにお城に到着するお手軽さ!目当ては城ヶ平城でしたが、パンフレットには樫原城も載ってるから折角なので見ておきましょう♪と軽い気持ちで来たお城でしたが、予想以上の!個人的には城ヶ平城以上の!良いお城でした。こちらも城ヶ平城と同じく単郭方形ですが、南には高さ3mの土塁がある!堀切もある!横堀もある!私なんかでも非常に分かりやすい親切なお城です。この規模の高土塁は、この辺りでは珍しいかと思います。
今でこそ大垣市上石津町ですが、旧は養老郡上石津町。三重と滋賀に近い場所で、山自体も鈴鹿山脈の端に当たるのかな?私の感覚では上石津は関西寄りな感じ。(方言も関西に近く感じる)お城の構造も何だか、伊賀や甲賀の山城をコンパクトにした様に感じました。(個人の拙い感想)
ゆっくり見たかったのですが、スマホの充電が!途中で切れちゃった…。もっとじっくり見たかったし、写真も撮りたいのでここはまた再訪したいお城です。皆さまもぜひお越しくださいね。
しかし城ヶ平城と樫原城の口コミを何時間もかけてチマチマ書いてるのって何なんでしょうと自分でも思う…。20文字で「良かったです。また行きたいですウンタラカンタラ〜🎵」って書けばいいのかしら。
①津島神社と樫原公民館
②登城口
③主郭と高さ3mの土塁
④虎口
⑤南の堀切
2021年05月10日 釆女正佐吉。
城ヶ平城[西高木家陣屋 周辺城郭]
行き先を「晴明神社」に設定します。
あぁっ!!京都に向かわないで下さい!!
大垣市上石津町宮の「晴明神社」です。
365号線を南に向かい「下多良」信号で右折し、2本目の道をまた右折し、上石津町祢宜上方面へ向かいます。(他の道からも行けますが、細かったり山道だったりするので、この道から行くのが良いかと)
「晴明神社」と言う名の小さな祠があり、その祠前に、縦列で2台程、横列で4〜5台駐車できます。
祠のすぐ後ろに「多羅城」と書かれた木製の入り口があり、そこが登城口です。
(入り口には「多羅城」と書かれていますが、上石津町のパンフレットによると、多羅城は、ここの他に樫原城、西高木家陣屋、城伝承地等が候補地と書かれており、多羅城との関係性も不明との事。城名も「城ヶ平城」じょうがだいらじょうと記載されています。)
地域に伝わる古い記録には、「天正の頃、大垣の代官が馬瀬城ヶ平に居住」と書かれている、と看板に記載されていました。
登城口からお城までは遊歩道があり、迷う事はありません。5分程度で到着しますが、川を渡る事もあり少し薄暗くてジメジメした感じ…。
まあ、着いてしまえば、木はバンバン伐採されているので解放的ですが。
お城は南北70m、東西65mの方形単郭。
虎口に入る前に横堀が現れ、「おぉっ!!」となります。(語彙力…)
枡形虎口の南には櫓台。
土塁は低いですが、横堀・切岸・竪堀など見応えあります。
切った木があちこちにゴロゴロしており(2021/05/09現在)
邪魔ねー、折角のお城が〜〜…と思いましたが(もちろん!伐採してくださってるのは大変ありがたい)画像で見ると、躍動感や角度が出て悪くない。いやむしろセンス無しヘタっぴには助かるかも?な、ゴロゴロちゃんでした。
上石津にお越しの際は、島津関連史跡の他、西高木家陣屋、城ヶ平城、樫原城もぜひセットで訪れてみてください。
①晴明神社(祠)と入り口。
②お城までの遊歩道。
③東の横堀
④櫓台から見た虎口と土塁。
⑤主郭と井戸跡、西(右奥)の土塁。
⑥西の土塁
⑦北の切岸と竪堀。
2021年02月04日 在来線男右京進
西高木家陣屋
資料館は高台にありますが駐車場はかなり広く大型バス10台くらいからは楽に置けます。ただ川の方から来ると車がすれ違うのは無理で、ちょっと譲って待つ必要があります。建物や展示物は新しく、見やすい陳列になってます。岐阜のお城カードが1枚もらえました。
2021年01月11日 装鉄城大膳大夫乱怒
西高木家陣屋
JR関ヶ原駅前観光案内所にて電動自転車レンタサイクル(ただし、4時間1100円とかなり割高)で真っ直ぐ南下すると40分程で到着。
見事な埋門石垣と陣屋門が現存。また敷地内にある資料館には資料が充実していました。
2020年11月16日 曲輪衆三河守名古屋のリラン
西高木家陣屋
関ヶ原インターから南へ国道365号線を上石津トンネルを出て暫くいくと郵便局の有る交差点を右折して道なりにそこが高木屋敷になります。屋敷には入れないので、上石津郷土資料館に詳しい資料があり研究することが出来ます
2020年10月11日 まー刑部卿
西高木家陣屋
以前から行ってみたくて豪雨の中訪れました。資料館の中にある模型を見てみると西・東・北の三家の区分けが広いように思えましたが実際に行ってみたら5mも無かった。
裏門には草が生い茂っておりびしょびしょになりながら見ていました。東の土蔵下の石垣だったり東と北の境の石垣と陣屋というよりお城と言ってもいいような造りでした。雨のためあまり周ることが出来ませんでした。
2020年09月28日 民部大輔与助
西高木家陣屋
公共交通機関ですと、JR東海道線大垣駅から名阪近鉄バス・大垣多良線で「宮」停まで約1時間、そこからは徒歩5分程度です。しかし、やはり自家用車の方が手軽です。名神道関ヶ原ICから国道365線を南下し、上石津第三トンネルを抜けて直ぐの「下多良」交差点を右折、間髪を入れず左の道に入り、道なりで約1km先に「西高木家陣屋跡」の看板があります。右折すると100mほどで右手に陣屋が見えてきます。自分は隣接する上石津郷土資料館の駐車場を利用しました。
資料館には「多羅城」ののぼり旗が掲げられていました。
2020年08月14日 ヒデさん近江守三十郎
西高木家陣屋
民家が密集した中にそそり立つ石垣が良い。陣屋跡に立つ資料館は島津好きならぜひ立ち寄るべし。関連の郷土資料本の頒布があります。車で5分ぐらいで島津豊久公のお墓にも行けますので足を伸ばしてぜひお参りして下さい。
2020年03月15日 breath越後守
西高木家陣屋
コロナの影響か閉まってました。いつまでなのか張り紙や大垣市のホームページなど情報はなし
2019年12月06日 あきおこ
城ヶ平城[西高木家陣屋 周辺城郭]
オフ会の際、ガイドさんが言っていた新発見の城、多羅城が気になってリア攻めに行ってきました。
陣屋跡にある上石津郷土資料館で情報を入手。新城はまだ多羅城に認定されてなくて候補地である事を念を押されました(2019年12月6日現在)。用意されていた案内図を頂き車で入口まで向かいます。資料館からは車で2、3分ですが歩きだと少し遠いかも。山城と書かれた小さい看板があちこちにあるので道に迷う事はないと思います。
フェンスで囲われた一角に木製の扉があり、水色の多羅城と書かれたのぼりがある場所が入口です。しっかりとした駐車場はありませんが数台停めるスペースがあり、入口の脇に車を停めました。
城までは綺麗に整備された道になっています。歩いてすぐ中井先生の縄張図が書かれた看板がありそこから先が城です。
いきなり塹壕状の横堀、深く削られた虎口があり2段登ると主郭虎口に到達します。虎口は内枡形になっていました。登城口から主郭虎口までは黄色いテープで規制されて外は探索出来ませんでしたが東、南斜面には横堀が設けられていました。
主郭は広く削平され北西から北側にかけ低い土塁がありました。井戸跡も数か所あります。北西に堀切があり断崖に落ち込んでました。
多羅城だとしたら信州から移封された関一政の居城の筈で大名の城としては規模が小さく感じました。周囲の削平地も高い切岸がある場所があり城郭の一部にも思えるが・・・。
遺構は単郭でコンパクトながら整備されて非常に見やすく城の各パーツが備わったいい城です。
いつか多羅城として認定されるといいですね。
2017年01月10日 権中納言みきを
西高木家陣屋
車で訪れました。
駐車場は上石津郷土資料館の前にあります。
城めぐりには西高木家陣屋しか登録されていませんが、東高木家、北高木家の陣屋も近くにあるので、一度で3つの陣屋を巡ることができます。
また、この辺りは関ヶ原の戦いにおける島津の退き口だったらしく、資料館ではそれに関する展示もありました。
西高木家陣屋の周辺スポット情報
埋門(遺構・復元物)
城ヶ平城(周辺城郭)
北高木家陣屋(周辺城郭)
東高木家陣屋(周辺城郭)
樫原城(周辺城郭)
島津豊久の墓(島津塚)(寺社・史跡)
白拍子谷 島津豊久自刃の地(寺社・史跡)
城ヶ平城駐車場・入り口(駐車場)