太尾山城(ふとおやまじょう)
太尾山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 滋賀県米原市米原
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 米原氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 米原氏、岩脇氏、中嶋宗左衛門尉
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 市史跡
再建造物
- -
周辺の城
-
鎌刃城(滋賀県米原市)[2.4km]
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彦根城(滋賀県彦根市)[5.9km]
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太尾山城の解説文
太尾山城の口コミ情報
2024年11月06日 ノプピロ民部卿
太尾山城
麓のお寺から城跡までは高低差100mのそれなりに激しい山道です。
2024年10月12日 釆女正佐吉。
大谷吉継の首塚[太尾山城 寺社・史跡]
全国4429万人の吉継ファンのみなさんこんにちは。
今日は「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」米原開催を記念して、米原の 「大谷吉継の首塚」の紹介だよ。
歴ヲタ女子人気ナンバーワン(お姉さん調べ。異論は聞いとく)我らが吉継さん!盟友吉継さん!だよ。それじゃ早速、レッツ遺構♪
…米原の首塚ァああ?ナニ言ってんの?我らが吉継さんは、湯浅五助の介錯で関ケ原で自刃したの。御首は五助がそこに埋めて隠したの。五助が自分の命と引き換えに藤堂仁右衛門と交わした漢の約束とか、吉継さん為広さんが交わした辞世の句とか、吉継さん三成さんの厚い友情とか、関ケ原には沢山の物語が詰まってるの。腐女子大歓喜♡、BLネタの宝石箱や~~♡なんて、不純な動機で吉継さんを推してる訳じゃないの!(知らんけど)
脱線したけど、実は吉継さんの首塚と伝わる場所は、米原と、揖斐郡揖斐川町春日にもある。 米原の首塚は「長浜・米原を楽しむ観光情報サイト」によると、「(~略)吉継の甥で僧でもあった祐玄が吉継の御首を錦の袋に入れて、敦賀への逃亡の途中に米原のこの地に埋め隠した」と言われる。吉継激推しの歴友曰く、京都の東殿(吉継母で、高台院=ねねの高級侍女、取次役)に届ける途中だった説もあるんだって。知らんかった。
頭部って重さが5㎏前後あるから、ここで力尽きちゃったのかなぁ。それとも、大谷氏は米原にゆかりがあった説もあるから、わざわざこの地を選んで埋めたのか。
江戸時代の「淡海木間攫」では、ここは長束正家の墓だよって書いてたんだけど、その後発刊の「近江国 坂田郡志第二巻」(1941年)ではそれを否定して、祐玄が葬った説になってる。(どうして長束正家説があったのかは気になるところ。長束については、いずれまた機会があれば)
お姉さんは以前米原のガイドさんに「子供が供養塔を蹴って遊んでいたらお腹が痛くなった。それできちんと供養するようになった」って説明を受けたよ。
吉継はハンセン病を患ってたから自刃前「敵に首を渡すな」と言い残したと伝わる。大将の遺言通り首を守る一心で、自刃した関ケ原の地中に埋めたのか、首を持って石田・小西・宇喜多と同様に北に逃げ春日に埋めたのか、それとも大谷陣地に近い東山道を経由して米原に埋めたのか…。
お姉さん陣地、首塚候補地、街道、敦賀を見比べてはうんうん唸ってるけど、3ヶ所のどこに首を埋めたのか、答えは出ない。
…いや、待って。 あ の 吉継が「首を渡すな」と言い残した事を考えると、二重三重に保険を掛けた気がしないでもない。実は、首塚と伝わる場所は全てダミーで、本物の吉継は今なお人知れずひっそり別の何処で眠ってる。春日も米原もいかにもあり得そうな場所だし、甥が運んだ話も出来すぎな気がする。首は(辺りに幾つもある)遺体から調達し、剃髪した人夫に運ばせたら御首と甥の一丁上がり。上手く作られた場所とエピソード。…妄想が止まらない。
まあ、でも。藤堂家が建立したと伝わり、戒名と没年月日も彫られている上、五輪塔の専門家が 「関ケ原の戦いのあった慶長年間の塔とみて問題はない」としている五輪塔のある関ケ原の墓所に埋められていると信じたい。きっと。多分…。
一つ確かな事は、吉継は関ケ原合戦当日の9月15日、新暦10月21日に亡くなった事。 西軍諸隊の大将が皆逃げ出す中、唯一関ケ原で自刃した大将、吉継。
お城EXPO米原開催日の10月20日は吉継命日前日に当たります。 関ケ原に近い米原の地で、合戦当日の気候や空気を感じ、漢・吉継に思いを馳せたならば、あなたも首塚に手を合わせずにはいられないでしょう。供養塔である事に違いはないのだから。
米原駅からもEXPO会場からも徒歩約10分前後。アクセス抜群、駐車場完備。記帳ノート備え付けあり。吉継愛を思う存分綴って下さい。
母さん、ぼくのあの首、どうしたでせうね?
ええ、秋、関ケ原で落とした、あの首ですよ。
2023年08月28日 KOKO.H
太尾山城
米原駅よりすぐ。麓の青岸寺も良い所であった。
2023年08月13日 鈴木剛
米原湊[太尾山城 碑・説明板]
昔はこの辺り迄琵琶湖があり、ここに湊があり京都や大阪迄物資や人運んで賑わっていたそうです。
2023年05月09日 タケロー
登山道入口・案内板[太尾山城 碑・説明板]
湯谷神社からハイキングコースを通ります。濱田口迄は緩やかですが、その先は急で道も細いです。足元も悪いです。
2022年05月05日 VTR美濃守シゲ名城オフ会
太尾山城
青岸寺横の登山口より登城 公民館に駐車場 トイレは青岸寺横のグランドに有ります
なかなか勾配キツイですが20分程で尾根に出ます 登山道しっかりついていて案内板も有り迷う事は無いと思います。松茸山の様です 松茸の時期はテープより内には侵入しない様にしましょう
高い切岸に堀切、土塁と残っていて見応えも有ります 南城堀切から神社方向に降りて周回コース 1.5時間程です
2021年09月15日 RED副将軍
太尾山城
北城と南城から構成される「別城一郭」構造の城郭✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不明。在地土豪の米原氏が築城したと言われる。
1538年、六角定頼による北近江攻めにおいて、永田氏が太尾山に布陣したとの記録あり。
1561年、浅井長政による太尾山城攻めにおいて攻略。中嶋宗左衛門尉を入城させた。
1571年、織田信長による浅井氏攻めで佐和山城が開城。宗左衛門尉も太尾山城を退き、廃城となった。
見所
南城北側の堀切は、城内で最も明確に残る堀切。南北に延びる尾根上に南城と北城の城域をもち、土塁囲みの曲輪や堀切が要所に配されるが全体的に遺構の残存は甘め😿
2020年10月22日 しげしげ主税頭信繁
太尾山城
青岸寺の手前の公民館に駐車して、右側から登城しました。遊歩道の様な感じで所々きつい箇所もありましたが、迷う事無く主郭まで行けます。下りは青岸寺方面の案内板を頼りに下れば幼稚園の近くに出られます。約1時間程でした。
2020年03月18日 宮内卿ピロシキ
太尾山城
神社側からの登り口あたりに堀らしき遺構がありました。
道はかなり急で下りで滑りそうになりました。
近くのカフェのケーキが美味しかった。
築城年代は不明だが、在地土豪の米原氏によって築かれたといわれている。
文明3年(1471)には美濃の守護代・斎藤妙椿が近江に侵攻し、米原山で合戦したとの記録があり、この山が太尾山ではないかと考えられている。
天文7年(1538)の六角定頼による北近江攻めでは、永田氏などが太尾に在陣しているのが記録されている。
天文21年には、京極高広が六角方の太尾山城の攻略を今井氏に命じたが失敗。永禄4年(1561)になると浅井長政による太尾山城攻めが開始され、攻撃に加わった今井定清が夜襲で誤って味方の槍を受け討ち死にするが、ようやく攻略して中嶋宗左衛門尉を入れ置いた。
元亀2年(1571)、織田信長による浅井氏攻めで佐和山城が開城すると、宗左衛門尉も太尾山城を退き、以後廃城になった。
太尾山城は標高254メートルの山頂にある。北城と南城から構成される「別城一郭」の構造で、南近江との境目の城である磯山城跡や菖蒲獄城跡なども同じ構造である。
土塁を巡らした曲輪や、尾根筋を切断する堀切などが要所に設けられている。