山下城(やましたじょう)

山下城の基本情報

通称・別名

龍尾城、一庫城、塩川城、獅子山城、多田城

所在地

兵庫県川西市山下、一庫

旧国名

摂津国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

塩川氏

築城年

天文11年(1542)以前

主な改修者

主な城主

塩川氏

廃城年

天正12年(1584)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、堀切、竪堀、井戸跡

指定文化財

再建造物

周辺の城

新田城(兵庫県川西市)[4.1km]
野間城(大阪府豊能郡)[5.9km]
高山城(大阪府豊能郡)[6.7km]
地黄城(大阪府豊能郡)[7.9km]
丸山城(大阪府豊能郡)[7.9km]
三蔵城(兵庫県宝塚市)[8.3km]
池田城(大阪府池田市)[8.4km]
善福寺原城(大阪府箕面市)[10.4km]
小浜城(兵庫県宝塚市)[11.3km]
麻田陣屋(大阪府豊中市)[12.4km]

山下城の解説文



山下城(やましたじょう)は、兵庫県川西市にある向山(標高:188.4メートル)と、谷を隔てて城山(標高:181.4メートル)にある2つの山からなる日本の城(山城)。城山の方は登山道も整備され、巨大な堀切跡など多数の遺構が確認できる。一庫城とも言う。

概要 

この城は二山一城で、北側と西側に一庫川が流れており、南側を初谷川が流れ一庫川に合流している。また城山の山麓にある下財町周辺には山下城の居館があり、下財屋敷は一辺が約160メートルであったとされている。また山下町や初谷川より南側全体が山下城の城下町が形成されていた可能性も指摘されている。近くには一庫ダム、川西市郷土館がある。

沿革 

築城3説

田中政一の著書『多田雪霜談考』によると山下城の築城は3説存在している。

1.天禄年間(970年 - 973年)に源満仲の婿、塩川仲義が新田城の支城として築城した 2.南北朝時代に塩川仲章が築城した 3.天正7年(1579年)4月20日、塩川国満が織田信長から与えられた

諸説あるが、山下城という名称は江戸時代以後に使われていたものであり、「龍尾城」という別名も史料には登場しないので城史については不明とされていた。しかし、近年新たな文献の考察により山下城の実態が明確になりつつある。

それは、『高代寺日記』(内閣文庫所蔵)の下巻『塩川家臣日記』という副題がある史料で1542年(天文11年)の項目に、

とあり、この獅子山城というのは山下城の事をさしており、越後守というのは11世紀の源頼仲のことではないかと思われている。つまり塩川家臣日記では[源頼仲の古城跡に塩川国満が改修した]と記載されている。これらにより兵庫県民俗芸能調査会によると『細川両家記』に記載されている「一庫城」は山下城を指すことになる、としている。

一庫城の戦い

畿内で大騒乱となった享禄・天文の乱も、天文4年(1535年)に大坂本願寺法主証如と細川晴元が和睦して終結、中嶋城で挙兵した一向一揆も木沢長政が天文5年(1536年)7月に奇襲し、制圧した。細川晴国も同年7月に隠れ家が発見され殺され、これにより細川晴元政権も畿内で安定するかに思えた。ところが、同年の少し前、1月に三好長慶が上洛した時から争乱の兆しが見え始めてきた。

天文10年(1541年)8月に晴元は三好政長、三好長慶、波多野秀忠らに多田一庫城にいる塩川政年(細川両家記では塩川政年と記載されているが、塩川国満の父で、この時実質上の城主は国満であった可能性もある)の攻略を命じた。これは大物崩れで討死にした細川高国の妹が政年の妻で、高国の残党狩りをもくろんでいた三好軍は一庫城を包囲した。

これに反感を抱いたのは、政年の縁戚にあたる伊丹親興(伊丹城主)や三宅国村(三宅城主)で、一庫城攻撃の不当性を将軍足利義晴に直訴し、木沢長政に救援を依頼、親興自身も急遽援軍に向かった。その後、伊丹城に木沢、伊丹、三宅軍が集結し、その動きを察知した三好軍は一庫城の攻囲を解き、同年9月29日に越水城に退却した。

廃城

塩川国満の所領は川辺郡となっており、その東隣は能勢郡で領主となっていたのは能勢頼次で両者は度々領土争いを展開していた。

この時代、畿内は豊臣秀吉の天下となり、能勢頼次は豊臣軍の九州征伐の先鋒として天正12年(1584年)6月に出発した後、塩川国満は積年の領土争いに決着をつけるべく、同年10月14日、枳根之宮合戦に発展する。

まず能勢頼次の主要の城である地黄城田尻城をその日のうちに落城させたが、逆に11月5日に三草山清山砦を守っていた塩川国良は能勢軍の反撃にあって討ち死にした。主が留守の能勢軍も抵抗をみせたが、大勢は能勢軍の敗北であった。知らせを聞いた頼次は12月10日に大坂城に帰着、秀吉に面会後、13日に地黄城に帰城した。

この報告を聞いた秀吉は、勝手に戦を仕掛けた国満に激怒し、池田輝政らに討滅を命じ15日に山下城を取り囲んだ。この時若干の戦闘はあったようだが、秀吉の許しが難しいとさとった国満は山下城を開城し、切腹して死去した。この時の首が山下城の大手門に葬られ、これによって山下城は廃城となった。

城郭 

山下城は二山一城で城郭も2箇所存在している。城山の方が遺構が多数残っている、面積が大きい、という点から中心は城山の方で、向山は補完する存在と思われる。

城山と向山の間には城郭施設が見受けられず、連絡路のみ見受けられる。このような城郭を築いた理由として、谷を挟んで両翼から防御できる、片方の城が落城しても、もう片方に敵が押し寄せるのは時間がかかり反撃できる、などが考えられる。

城山

最高所は、本城曲輪(30メートル×40メートル)があり、その東側には土塁、北側には櫓跡があり、本城曲輪から更に北側には、深さ10メートルの巨大な「二重堀切」が確認できる。またこの本城曲輪を起点に、東曲輪群と西曲輪群が尾根伝いにある。

  • 東曲輪群
    • 木戸曲輪、二の段、三の段、四の段、腰曲輪、六の段、七の段(愛宕神社)
  • 西曲輪群
    • 腰曲輪、二の段、三の段、四の段、五の段

向山

向山の縄張りは城山に比べると簡単で、山頂に主郭が確認でき周りに土塁と腰曲輪を配置し、主郭の中心部には礎石が散在しているので、こちらにも何らかの建造物があったことが想像される。

向山には登山道が整備されていないため、登山には注意が必要である。

城跡へのアクセス 

  • 公共交通機関でのアクセス
    • 能勢電鉄山下駅 - 徒歩 北西750m - 登山口
  • 車でのアクセス
    • 阪神高速道路池田線池田木部第二出入口 - 国道173号
    • 周辺に駐車場なし
  • 徒歩でのアクセス
    • 登山口 - 徒歩 - 城山山頂 約35分

参考文献 

  • 【書籍】「日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫」
  • 【書籍】「戦国合戦大事典」
  • 【書籍】「ひょうごの城紀行」

山下城の口コミ情報

2023年10月11日 tracer_azu
一庫城[山下城  周辺城郭]



獅子山ノ城、一庫城、山下向山城などとも言われていますが、表記どおりここでは一庫城とします。

一庫城の西、トンネル脇のフェンスより直登するとすぐに辿り着けます。築城者は恐らく塩川長満で織田勢力に与してからの築城もしくは改修があったものと思われます。 塩川氏は能勢氏と北摂では二大勢力として君臨しておりまた、多田源氏の流れの血筋です。

一庫城は単郭の城ですが、オレのある横堀に土塁があり戦国期後期のお城の遺構の雰囲気があります。 塩川長満の娘の寿々姫は織田信忠の側室で、織田秀信の母との説があります。

2023年09月04日 上田図書頭雪娘
山下城

北東側の竪堀は立派です。また、向山城にも堀切があります。尾根筋を歩き往復2時間かかりました。

2023年05月30日 生駒讃岐守江現蔵21日九州
一庫城[山下城  周辺城郭]



一庫城と書いて、ひとくら城と読みます。一庫ダムの近くにある摂津山下城の出城で、山下古城とも言いますが、アプリ登録の山下城の周辺城郭で、一庫城で登録されていたので、このまま使用します。

本城の標高184mの古城山に築かれている山下城から縦走して、北に谷を挟んだ向山に築かれています。築城年代は不明ですが、摂津の有力国人の塩川氏の築城と言われています。

5月の蒸し暑くなってきた午後、阿波と土佐の城友さんと、お昼にニンニクラーメンを食べて体力回復。山下城を訪城後に一庫城に向かうルートです。

先に訪れた山下城ですが、登る山を間違えていて、下山せずに横移動して45度の斜面を登って城域に到着したので体力消耗。山下城から20分ほど山道を進むと、土橋があり、城域に到着です。

単郭の城ですが、周囲に土塁を巡らせ、南に虎口があり、堀切もあります。この城の1番の見所は横堀で、途中で屈折していて横矢を掛ける構造となっています。ワンルームマンションのような縄張り図ですが、土塁が所々出っ張っていて、櫓台があったのかも?と想像出来ます。

30分ほどゆっくり探索した後、山下城に引き返して帰ると言っていた城友さんが、予定を変更して、ここから下山すると!

私はいつも付いていくのみなので、最後は滑りながら降りて、こんな所から人が出てくるはずないでしょうと思われるフェンスの横から地上に到着。

山の中はぐるっと周って遠かったのに、地上に降りると出発地点まで近かった案件でした。
暑くなってきて山城シーズンも終了。次回また秋に城友さん達と摂津の城をリアしたいと思います。

2023年02月12日 ん君
山下城

城山、向山の両城に行きました。向山城は、城山東端の二重堀切から東に登り、三角点まで行くと西に降ります。25分くらいで着きます。山道の傾斜も緩めです。ただ、三角点から向山城までは、道の状態がイマイチです。イマイチですが、道はしっかりあるので、急斜面やブッシュ突破に自信のある方以外は、道以外のところは通るべきではありません。僕はなぜか道を外れて城山と向山の間の尾根を谷底まで下ってしまい、大変な目に会いました。

遺構は土塁や横矢の掛かった横堀など見どころがあり、城山だけで引き返さず、ぜひ足を伸ばしていただきたいです。帰りは、道がないという向山からの直接下山を避け、三角点から城山経由で降りました。時間はかかるかもですが、傾斜もキツくないし、25分で城山に戻ってこれるので、素人にはこちらの方が良いと判断しました。

ちなみに駐車場は、立ち寄ることを条件に川西市郷土館のPに停めさせていただきました。入館料300円ですが、和式邸宅、洋式邸宅、美術館などを見ることができ、こちらもおすすめです。

2022年07月12日 尼崎城阿波守一口城主
山下城



山下城後編。6月12日、川西市郷土館を出て登城しました。資料館を出る際に山下城の登山口を聞いていて良かったです。写真のお地蔵さんの祠の横から登っていきます。※入山出来ない時期もあるようで、その場合は入山禁止の看板が出ているとのことでした。登山開始から約10分で<獅子山ノ城址>の石碑がある本丸に辿り着きました。石碑の日付を見ると平成31年4月吉日とあったので平成最後の月に建てられたのだなあと思いました。本丸の周囲は木々が生えていて城下は見渡せなかったのですが、中腹からは城下の町並みを見ることが出来ました。 
翌週、能勢町の城攻めに向かう際に一庫(ひとくら)ダム方面からも山下城を眺めてみました。国道173号が山下城を貫通していることが分かりました。

2022年07月12日 尼崎城阿波守一口城主
山下城



山下城(前編)。6月12日、尼崎からママチャリでひたすら北上して城攻めに向かいました。登城前に予習しておこうと川西市郷土館に立ち寄りました。お城に関するコーナーはなかったのですが色々な展示物や建屋の居間や庭それに絵画🖼などが見れて良かったです。多田銀銅山のことは知らなかったので勉強になりました。
また、郷土館の敷地内にある旧平賀家住宅も趣のある建物でした。映画🎬やドラマのロケ地にもなった建物でした。背景の山(山下城)の写真も上げておきます。後編に続きます〜

2021年04月18日 福山治部丞武市
山下城

城山の南西側から登りました。いきなり曲輪のような平坦な部分が見られましたが、その時代のものかどうかはわかりません。その先に行くと本丸まで到達します。途中、畑をされているからか害獣よけの高音が出る機械がたくさんあり、少々落ち着きません。本丸の横を通り北側に回ると二重堀切と土橋があります。堀切は圧巻ですね。静かだったので少々怖かったです。

2019年05月09日 あきおこ
主郭土塁[山下城  遺構・復元物]



主郭北東の土塁。二重堀切上にあり櫓台を設ける。土塁は北東面のみにあり堀切、急峻な切岸と合わせ搦手の防衛ラインを形成。城の正面は主郭を中心とした馬蹄状の2つの尾根に階段状の郭が配置されている。

2019年05月08日 あきおこ
土橋[山下城  遺構・復元物]



二重堀切に続く尾根を歩いていくと段差に浅めの堀切を設けた土橋があります。主要部からかなり離れていますが明確な城郭遺構です

2018年11月17日 ポリタンク大和守
山下城

城山の南東谷筋対岸に竪堀のようなものがあり、本などを読んでいると評価が色々ある感じです(汗)。これを主役にした論考としては、中世城郭研究第28号に掲載の論考「山下城の東側対岸の遺構について」があります。

2018年11月17日 治部少輔しん@蓋と城
山下城

一般的には山下城を新城、向城を古城もする向きもありますが、実際に向城を訪ねてみると、遺構のパーツは向城のほうが洗練されています。歴史には三好による包囲云々と書かれていますが、遺構の特徴は三好というか松永弾正の縄張りを感じられます。

2018年10月08日 甑岩式部卿正頼
山下城

画像も投稿しましたが、10月1日〜11月15日の間、入山禁止でした。個人の土地らしいですし、松茸山とありましたから、期間中は無理に入山しない方が良いかと。
川西市郷土館で山下城に行くと告げると簡単なマップと城にまつわる話を書いた紙をくれました。手書き原稿を印刷したもので味があり、中身もなかなか充実です。
入山禁止期間が終わったら、再訪しようと思います。楽しみです。

2017年02月08日 橘若狭守次郎吉
山下城

山下城は古城山城と向山城の2つに分かれていますが、今回は古城山城の方の口コミです。

登山口は川西市立郷土館の北西近くにあります。登山口を示す看板は特にありませんでした。登山道は整備されていて登りやすいです。

登山口から10分ほど登っていくと神社が出てきます。そこ辺りから城域です。更に登ると再び神社(愛宕神社)が出てきます。此処からは城下が一望できます。

愛宕神社のある曲輪からは東曲輪群で主郭まで段々曲輪がずっと続きます。途中には高さ7M程の切岸もありあす。

登山口から20分ほどで主郭です。主郭の東側には結構長めの土塁があります。主郭の北側には櫓台があります。主郭の北東部の切岸には石垣が一部残っておりました。

山下城(古城山)の最大の見どころは主郭を北東部に下ったところにある二重堀切と2つの堀切の間にある大土塁です!二重堀切からの竪堀も圧巻です。堀切には土橋もありました。

主郭と東曲輪群はよく整備されていましたが、西曲輪群は整備があまりされていない印象を受けました。

見学時間は余裕をもって1時間程でしょうか。

2016年02月01日 INO【兒】左近衛中将
山下城

登り口は南側、平野神社の裏側からになります。
登山道は緩やかですが道のりは長いです。

山下城の周辺スポット情報

 二重堀切(遺構・復元物)

 土橋(遺構・復元物)

 主郭土塁(遺構・復元物)

 獅子山ノ城趾の碑(碑・説明板)

 上杉下所城(周辺城郭)

 一庫城(周辺城郭)

 甘露寺(寺社・史跡)

 平野神社(寺社・史跡)

 大昌寺(寺社・史跡)

 旧平安邸(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 歴史民俗資料館(関連施設)

 登城口(その他)

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