新田城(しんでんじょう)
新田城の基本情報
通称・別名
- 多田城
所在地
- 兵庫県川西市新田3
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 源満仲
築城年
- 承平年間(931〜938)
主な改修者
- -
主な城主
- 塩川氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
山下城(兵庫県川西市)[4.1km]
池田城(大阪府池田市)[4.4km]
高山城(大阪府豊能郡)[7.1km]
小浜城(兵庫県宝塚市)[7.8km]
麻田陣屋(大阪府豊中市)[8.5km]
善福寺原城(大阪府箕面市)[8.5km]
野間城(大阪府豊能郡)[9.2km]
有岡城(兵庫県伊丹市)[9.3km]
三蔵城(兵庫県宝塚市)[10.8km]
原田城(大阪府豊中市)[11.1km]
新田城の解説文
[引用元:Wikipedia「新田城」の項目]
新田城(しんでんじょう)は、兵庫県川西市新田3丁目付近にあった日本の城(平山城)。
概要
新田城は、別名「多田城」ともいい、旧新田村にあった城。新田城の広い意味では、東を塩川、西側から南側にかけて猪名川が流れ、東南隅で合流している2つの川に囲まれた地で、源満仲(多田満仲)と御家人が集落を作っていた地域を新田城と呼ばれていた。軍事施設としての新田城は、新田3丁目付近にある丘陵部に築城されたと考えられている。この付近は、御家人中で有力者であった塩川氏が代々守り、本城としていた。しかし、天正年間の塩川国満時代には山下城が本城と考えられて、新田城は山下城の支城として存在していたと考えられている。有岡城の戦いでは多田神社をはじめ新田城や付近一帯も焼き討ちにあっている。荒木村重が当初織田信長に反抗するための備え城とした「多田城」とは、この新田城の可能性もあるが、『川西市史』によるとこの時期「山下城の塩川国満」とあるので山下城の可能性を指摘している。天正6年(1578年)10月-12月にかけて、この地域を焼き討ちにした武将は中村直勝で、川西市の多田神社以外の寺社としては、満願寺、栄根寺なども焼き討ちにあった。『明治八年新田村地寺図』によると新田城の中心地として「城山」、「城山ノ下」、「城ノ下」、「東堀」の字名があり、現在の場所でいうと新田3丁目付近に主郭があった。昭和中期までは、新田城の礎石、削平段、竪堀跡があったと言われているが、現在は宅地化され多田グリーンハイツとなっている。
2013年(平成25年)度までに13次の発掘調査が行われており[1]、1998年(平成10年)の第6次調査では溝や柱穴などの遺構や陶磁器等が出土している。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 能勢電鉄 妙見線 多田駅 下車徒歩 約10分
参考文献
- 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、330頁。
- 川西市史編集専門委員会『かわにし(川西市史第二巻)』兵庫県川西市、1976年3月、16-20頁。
- 川西市史編集専門委員会『かわにし(川西市史第七巻)』兵庫県川西市、1977年3月、322-323頁。
- 川西市教育委員会「新田城址遺跡 第6次」『平成10年度 川西市発掘調査概要報告』川西市 1999年
- 川西市教育委員会「新田城址 第13次」『平成25年度川西市発掘調査報告』川西市 2015年
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新田城の口コミ情報
2024年01月14日 紅棗大蔵大輔
新田城
源満仲の最初の拠点、その後戦国時代は多田院御家人筆頭の塩川氏の居城だったとも言われる。今は住宅地で特に城跡と思われるものはありません。傾斜地で細い道が多いので古い街だったことはわかります。
2023年06月18日 駒王コジ丸雅楽助
多田神社[新田城 寺社・史跡]
能勢電鉄多田駅から歩いて15分ほどのところです。970年に創建され、清和源氏発祥の地として有名な神社で、源満仲公から曾孫源義家公までの五公が祀られています。神社の直ぐ側には猪名川が流れ、まるでお城のような神社だと思いました😳
JR川西池田駅のロータリーには源満仲公像があります🤗
※写真:冬撮影
2022年08月14日 #91右近衛中将
新田城
徒歩で行きました。住宅街なので、徒歩が望ましいですね。在城当時を思わせる物は無く、城山と名の付くマンションや公園が、リア攻め感を盛り上げてくれました。この付近に引っ越せば、城主争いが有利なるのかな?
2022年04月18日 尼崎城駿河守一口城主
新田城
4月16日、尼崎からママチャリサイクリング🚲で登城。当日は快晴でサイクリング日和であった。
毎度、長い枕となりますがこの日は源氏三神社の多田神社を先に参拝してきました。志納金を納めて御本殿の近くまで入らせて頂き源満仲公、頼光公の御廟所をお参りしました。大江山の鬼退治伝説の鬼首洗池も見学しました。多田神社は織田勢によって焼かれ、江戸時代四代将軍の家綱公によって再建されたことや大工は中井家が担当したことを教えて頂き勉強になりました。境内には清和源氏の系図があり凄いとしかいいようのない一門だと感じました。また境内には三ツ矢サイダーの由来についての説明板もあったので載せておきます。
そろそろ本題に戻ります。多田神社から御社橋を渡らずに左手に進みます(東進)。多田小学校を過ぎると郵便局🏣が見えてくるので手前を左折(北進)。道なりに進み坂道を上がりながらアプリのお城マークのポイントにたどり着き住宅街の中でリア攻め達成。周辺に遺構らしきものが見当たらず先人方の情報を頼りに新田城山公園に到着。
帰路、多田銀山橋より猪名川を眼下に新田城の遠景を撮影。この地が源氏と武士団発祥の地なのだなと思いを馳せながら眺めていました🏞
2021年04月20日 福山治部丞武市
新田城
すでに民家が立ち並び城の雰囲気はまるでありません。怪しまれるので写真も撮ることはできませんでした。
2021年01月04日 異邦人 摂津守 主殿頭
新田城
現地で城郭の痕跡や情報を得ようとすると、大きく期待を裏切られるかもしれません。
ところが、現地の南南東約250mにある、万代多田店の2階の駐車場から遠く新田城を望むと、なかなかに趣きのある景色に出会えます。
戸建て住宅やマンションまでもが『その気』なれば城郭の一部に見えますよ?
2013年03月22日 太政大臣さかな
新田城
再度、新田城の痕跡を探しに行ってきました。城の解説文にある「新田3丁目」へ行きましたが、城の痕跡は発見できません。
ちなみに新田の地域に入り込むと迷路のようで、脱出に苦労しました。←侵入者を拒むかの如し(>.<)
2013年01月14日 太政大臣さかな
新田城
このアプリの地図が示す地点まで行きましたが、城に関連ある物は何もありませんでした。(>.<)