野間城(のまじょう)
野間城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大阪府豊能郡能勢町野間中
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 野間高頼
築城年
- 仁安3年(1168)
主な改修者
- -
主な城主
- 野間氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀、木戸跡
指定文化財
- -
再建造物
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周辺の城
-
地黄城(大阪府豊能郡)[2.1km]
丸山城(大阪府豊能郡)[2.3km]
山下城(兵庫県川西市)[5.9km]
高山城(大阪府豊能郡)[6.0km]
笑路城(京都府亀岡市)[6.9km]
新田城(兵庫県川西市)[9.2km]
神尾山城(京都府亀岡市)[11.1km]
佐保来栖山砦(大阪府茨木市)[11.3km]
善福寺原城(大阪府箕面市)[11.3km]
三蔵城(兵庫県宝塚市)[11.5km]
野間城の解説文
[引用元:Wikipedia「野間城」の項目]
野間城(のまじょう)は、大阪府豊能郡能勢町野間中にあった日本の城(山城)。
概要
仁安3年(1168年)に多田源氏の流れを汲む野間高頼によって築かれたと伝わる。野間氏は、摂津能勢地方において同族の能勢氏、余野氏と共に能勢三惣領の一つとされている。
南北朝時代 (日本)の城主は内藤満幸で、その娘は南朝側の楠木正成の長男楠木正行に嫁いだ[1]。満幸が北朝側の高師直に寝返ったため離縁され、摂津池田氏の池田教依に嫁ぎ直したとされる[2]。
天正年間(1573年‐1591年)には高頼の後裔野間豊後守資持が在城していたと伝わっている。
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野間城の口コミ情報
2022年02月24日 刑部卿山城憲剛
野間城
能勢電鉄妙見口駅から野間城、地黄城、丸山城と大阪府豊能郡能勢町内の3城リア攻めハイクをしました。これら3城の最寄りバス停までのバスは2022年2月23日現在、平日のみの運行となっています。
当地はオオクワガタの産地として有名なところで、ちらほらと台場くぬぎを見ながら里山の風景のなかを歩くのは気持ちよかったです。
妙見口駅から野間城本丸まで1時間ほど。ルートは先人様が詳細に記しているので、そちらをご参照ください。写真ではうまく写っていませんが、本丸後ろの堀切は見ものです。登城路は森林組合が伐採作業をしていたためか、倒木が道をふさいでいる箇所がいくつかありましたが、さほど傾斜のきつくもなく山に入って15分ほどで本丸に着きます。山城入門的な城です。
なお、付近に公衆トイレはありません。また、食糧の調達は妙見口駅前でしないとその先にはありません。
2021年12月02日 RED副将軍
余野本城[野間城 周辺城郭]
マイナーですが大阪屈指の名城です✨極めてテクニカルな縄張りの城跡🏯
オススメ度 ★★★★★
平安時代末期に在地土豪の能勢氏一族が築城し、余野氏を名乗ったと言われています。1493年に余野山城守頼幸が余野城を新たに築城し移るまで余野氏の居城であった様です。また、応仁の乱に出陣するも当主が陣没して廃城になったとも言われています。
豊能郡周辺は、余野氏と共に能勢三惣領と呼ばれる同族の野間氏、能勢氏の城跡も多く密集しており、伝承が混乱している様で確かなことは分かっていません。しかし、かなり技巧的な縄張りからは、決して南北朝時代の古い城郭ではなく、戦国時代まで利用されていたことは間違いありません。
見所
二段の単郭ですが、周囲に土塁、横堀、畝状竪堀、虎口など極めてテクニカルな縄張りです。北から東に掛けて横堀が巡り、要所で竪堀で堅めているのに対し、西側面は畝状竪堀がビッシリです。深い横堀、竪堀が縦横無尽に巡り、遺構の残存度は極めて良好です。
余野自治会館に駐車し訪城。登城路は無く、南西側の畦道から斜面に取り付き直登しました。取り付き場所を探すのに時間を要します。
写真
①主郭南段の櫓台
②土塁が巡る主郭
③④主郭西側下の畝状竪堀群
⑤⑥⑦主郭を巡る長大な横堀
⑧主郭南東下の巨大竪堀
2019年08月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
野間城
登城路については先人の素晴らしい完璧な口コミのとおりです。
自分は西側から直登しようとしましたが読んでおいてよかったです。訪ねる際は一読を。
夜に攻城する方はまずいないと思いますが登城路脇の水田にはリアル電流柵が張り巡らされているので感電注意です。
2019年03月30日 iggy関白
野間城
《登城口》
「圓珠寺」の南を流れる野間川を挟んだ対岸に「ノセクリーンセンター」があり、建物の東詰に会社の駐車スペースと思しき場所に接した農道(舗装)を山へ向け南へ上ります。
舗装が途切れた地点を左折(東進)すると野間館の石垣が現れます。
館跡に感嘆しながら道なりに進み、間もなく現れる「稲生大明神」の鳥居をくぐると参道(登城道)となり、城域へと通じます。
15分もあれば主郭に到達するでしょう。
《遺構》
主郭は南側からの侵入に備え、堀切で遮断、さらに主郭南側三方をコの字型に土塁を巡らし防御しています。
主郭南側の堀切は深く、落ちる竪堀も明瞭でうっとりものですが、4郭5郭にあたる郭東側の竪堀(段違い的に3~4条)は経年のためかはっきりとしません。