神尾山城(かんのおさんじょう)

神尾山城の基本情報

通称・別名

神尾城、神尾寺城、神尾山古城、本梅城、本免城、本目城

所在地

京都府亀岡市宮前町、東本梅町

旧国名

丹波国

分類・構造

山城

天守構造

多聞風櫓?[階層不明/築年不明/破却?]

築城主

柳本賢治

築城年

大永6年(1526)

主な改修者

明智光秀

主な城主

柳本氏、明智氏

廃城年

不明

遺構

曲輪、石積、横堀(空堀)、井戸跡

指定文化財

再建造物

説明板(神尾山金輪寺)

周辺の城

八木城(京都府南丹市)[5.5km]
園部城(京都府南丹市)[7.3km]
丸山城(大阪府豊能郡)[8.9km]
笑路城(京都府亀岡市)[9.0km]
地黄城(大阪府豊能郡)[9.1km]
余部城(京都府亀岡市)[9.5km]
亀山城(京都府亀岡市)[10.5km]
御影山城(京都府亀岡市)[10.6km]
野間城(大阪府豊能郡)[11.1km]
須知城(京都府船井郡)[11.8km]

神尾山城の解説文



神尾山城(かんのおさんじょう)は、京都府亀岡市宮前町宮川にあった日本の城。柳本賢治の居城で、その後明智光秀の丹波攻めの拠点になったのではないかと思われる。

概要 

神尾山城は金輪寺の裏山にあった山城で、金輪寺の周辺には極楽坊跡、竹中坊跡、宝蔵坊跡、東柳坊跡など数多い寺坊跡があり、天台密教の霊地で今も石垣がそのまま残っている。

神尾山城はその聖地に築城され、巨石怪石を利用した特徴のある大形山城であった。

亀岡市街地から西方約16km、西丹波の丹波篠山市に抜ける山陰道に沿った山に築かれており、標高は359m、比高230mの山頂一帯にある。

本目城(もとめじょう)の別名があり、漢字も、本梅城、本免城とも書いた。

沿革 

神尾山城が史上に現れるのが八上・神尾山両城の戦いの時で、大永6年(1526年)の初旬、細川尹賢が摂津で築城していた。この時の様子を「尼崎ノ城」(大物城)(『足利季世紀』)と記述されているが、典厩家の本拠は中嶋で尼崎は含まれていないので、堀城の誤りではないかと指摘されている[1]。この城の作事に香西元盛も加わっていたが、細川尹賢の人夫と香西元盛の人夫が「土一簀」で口論となり、双方の人夫が喧嘩をはじめた。いったん両者とも引き分けたが、納得できなかった元盛の人夫が城中に瓦等を投げ込んだりしたので、尹賢は憎悪感を増すことになった。

尹賢は元盛が無学であるのを利用して、偽の謀反書を従兄で主君細川高国に差出、驚いた高国は同年7月13日に元盛を謀殺した。怒った元盛の兄弟の波多野元清と柳本賢治は高国に反旗を翻し、八上・神尾山城両城の戦い、桂川原の戦いに続いていく。

その後柳本賢治は中嶋の戦いで暗殺され、高国は大物崩れで細川晴元・三好元長らに敗れて自害、尹賢も殺害され一旦城史は不明となるが、天文15年(1546年)、細川晴元は三好長慶が擁立した細川氏綱(尹賢の子、高国の養子)に敗れ「丹波カンノチ」(神尾山城)へ没落と明記されているが(『証如上人日記』)、これは氏綱方の上野元治が足利義晴を迎え取ろうと同年9月13日に入京し、これに危機感を覚えた晴元が丹波へ逃走しており、この時の記述ではないかと思われる。その後晴元は丹波を出国、摂津に入国し神呪寺城、越水城へ移動し、舎利寺の戦いに繋がっていく。

その次は天文22年(1553年)9月3日の『言継卿記』で、内藤国貞が本目城で討死にという記載が見受けられる。また『総見記』によると天正年間(1573年 - 1592年)に明智光秀が八上城攻めの中継基地として「本目の城」を使ったとの記載が見受けられるが、両文献に記載される本目城とは神尾山城を指すと推定されている。

城郭 

城郭は南北に約350メートル、東西に約70メートルで、丹波では大形に属する。山稜線の主軸に根幹をなし、そこから派生した2つの支脈の稜線に曲輪が配され、下部の曲輪で横に繋がっている。

主曲輪

主曲輪は、東西約27メートル、南北約60メートルで、そのほぼ中央部に底部5-6メートル、上部4メートル、高さ2.5-3メートル、長さ7メートルの土塁跡があり北側、南側の曲輪を大きく区切られている。この土塁跡に、多聞風櫓が建設されていた可能性が指摘されている[2]

北側曲輪

北側曲輪は主曲輪より北側にあり、高低差が小さい、2つの大きな曲輪から成り立っている。

この北側曲輪や主曲輪には規則的に並んだ礎石跡が見られる。これにより、ある程度の規模の屋敷が想定でき、恒久的な山城の要素も考えられている。また、北側曲輪には亀岡市ではここだけにしか存在しない畝状空堀(竪掘跡)があり、形状から明智光秀時代の改修が指摘されている。また、現在は南側曲輪から主曲輪にある土塁跡の脇を通過して北側曲輪への侵入は可能だが、当時は多聞風櫓が南北を遮断しており、西側にある帯曲輪を通って北側曲輪と南側曲輪をいききしていたと思われている。

南側曲輪

南側曲輪は主曲輪より南側と南西側の2つ支脈の稜線に曲輪が配されている。南側の曲輪は高低差があり7段の階段状になっており、その中ほどに上部3.5メートル、底部2メートル、高さ3メートルの堀切が存在している。南西側の尾根沿いにも3・4段程度の曲輪がある。ここには「天狗岩」という巨石があり、霊場の景観を呈していることから、南西側の曲輪は金輪寺の寺院敷地を利用したとも考えられている。

また、この南側と南西側の中間部分に「水の手曲輪」と丹波地方では珍しい曲輪跡がある。これは4段目曲輪の最上部に1.5メートルの井戸跡があり、そこから湧水式の水路がほどこされ、水のはった曲輪になる。その隣の南側曲輪、大手筋脇には石垣と盛土があり建物跡が推定され、「丹波国ではもっとも優れている水の手曲輪」と指摘されている。

城跡へのアクセス 

  • 電車でのアクセス
    • JR 山陰本線 千代川駅
      • バス 京阪京都交通 宮前下車
    • 車でのアクセス
      • 京都縦貫自動車道 千代川インターチェンジ → 京都府道73号宮前千歳線 → 金輪寺
      • 近隣に駐車場無し(金輪寺に参拝者用駐車場有)
    • 徒歩でのアクセス
      • 金輪寺 → 主郭曲輪 徒歩約20分

    参考文献 

    • 『日本城郭大系』第11巻 京都・滋賀・福井、新人物往来社、1980年9月。
    • 『図説中世城郭事典』第二巻、新人物往来社、1987年6月。
    • 亀岡市史編さん委員会『新修 亀岡市史』資料編第一巻、亀岡市、2000年1月。
    • 亀岡市史編さん委員会『亀岡市史』 本文編第二巻、京都府亀山市、2004年3月。
    • 新修大阪市史編纂委員会『新修 大阪市史』第2巻、大阪市、1988年3月。
    • 今谷明『戦国三好一族』洋泉社、2007年4月。

神尾山城の口コミ情報

2022年09月26日 RED副将軍
埴生城[神尾山城  周辺城郭]



櫓台土塁、大堀切、点在する石積みと小規模ですが見所が多いオススメ物件✨

オススメ度 ★★★★⭐︎

埴生城(はぶじょう)と読みます。

築城年代は不詳。野々口親永によって築かれた野々口氏の居城🏯
戦国期は神尾山城の支城として機能しました。
1579年、織田信長の命による明智光秀の丹波攻め際には城主の野々口西蔵坊は攻め寄せられて降伏。織田信長に降りました。
その後、波多野氏の八上城をなかなか攻略出来なかった明智光秀は野々口西蔵坊らを間に入れて波多野秀治・秀尚兄弟に降伏を勧告。波多野氏の降伏に至りました。降伏したのに結局は処刑されてしまいますが…

見所
最福寺背後の丘陵先端部に築かれており、北麓には居館跡も残ります。
小規模ですが、主郭の西側背後には櫓台土塁、大堀切はなかなか見事です。
虎口や櫓台土塁に石積みも点在しています。

行き方は、最福寺を目指してください。
裏山が城域で麓に案内坂もあります。
麒麟がくる縁の城跡としてキレイに整備されています。

写真
①②主郭背後の大堀切
③櫓台土塁
④櫓台土塁上からの主郭
⑤櫓台土塁の石積み
⑥主郭虎口の石積み
⑦居館跡
⑧城門跡

2022年04月09日 BAMI
神尾山城



神尾山城は山の尾根沿いに南北400メートル規模の、曲輪が何段も続く巨大な山城でる。篠山街道を眼下に見下ろす交通の要衝を抑え、戦国時代には明智光秀が落として、波多野秀治の八上城攻めの拠点となったとされる。

山頂付近の曲輪には、今回新しく看板が設置され城の縄張り図が掲載してあり、城の全容が分かる。また山頂付近が間伐され、整備されたことにより堀切や曲輪が明確に分かるようになった。他にも土塁、切岸、畝状竪堀、井戸跡等残り、見応えのある丹波四大山城である。

2022年01月05日 イオ紀伊守
神尾山城



八上城へと続く篠山街道を見下ろす神尾山に築かれ、山上の金輪寺の後背の尾根沿いに多数の曲輪を連ねていますが、金輪寺は奈良期創建の古刹で、かつては周辺に多数の堂宇が建ち並んでいたため、周囲の削平地のどこまでが寺でどこからが城なのかは判然としません。

山麓から対向困難な細い山道をひたすら上って金輪寺へ。金輪寺の駐車場に車を駐めて登山口の石段を上り、境内の東側奥から登城開始です。

整備された登城道を進むと金輪寺歴代住職の石碑が並ぶ曲輪があり、この辺りからが城域のようです。水の手曲輪を右下に見ながら登って行くと、東西に長くのびた堀切に到着。堀切は幅広く深さもあり、北側は切岸、南側には土塁が設けられ、西側は竪堀となって続いています。

堀切南側の曲輪は藪に沈んでいるので探索をあきらめ、北側の切岸をよじ登ると、階段状に曲輪が続いており、切岸は急峻で高さもなかなかのものです。その一段上の曲輪には、神尾山城址の案内板と丸太ベンチが設置されていました。神尾山城の石碑や説明板は見当たらず、案内板もここでしか見かけませんでしたが、なぜ城の中心部でもなく、眺望がきくわけでもないただの段曲輪に設けられているんでしょうね? さらに進むと、登城道に立ち塞がるように土塁がせり出し、土塁には石垣が設けられていました。城道に設けられた城戸(虎口)のような位置付けでしょうか。

城戸を抜けると山頂部に至ります。奥に進む前に「八幡平 天望台」の案内標識から登城道を逸れ、東尾根の曲輪群へ。数段の段曲輪の先には天狗岩と呼ばれる巨岩があり、山岳修験の行場だったようです。
山頂部はほぼ平坦なため曲輪は土塁により区画されている…らしいのですが、最大の仕切土塁以外は灌木と藪でよくわかりませんでした。登城道は北曲輪群の西側の虎口を出て尾根沿いに続き、虎口を出たあたりには小規模ながら畝状空堀群が設けられています。また、北曲輪群東下の帯曲輪にはわずかに石積みが見られました。

2021年02月12日 tyagi
神尾山城

2021年2月10日半国山へ行きがてら、たっぷりぐるり1時間遊びました。見上げれば何段にも曲輪があって全体の大きさに拠点城がしのばれる。虎口堀切、縦堀も面白かった。ルートは金輪寺さんから。快く車も止めさせていただきました。有難うございました。

2016年04月07日 シバヤン大和守忠肝義胆
神尾山城

R372篠山街道の亀岡宮前郵便局から金輪寺の看板を頼りに細い山道を辿れば一本道で金輪寺に着く。この丹波三十三所霊場の裏手の尾根上にあるのが本日の神尾山城です。1526年築城のこの城も細川晴元と三好長慶と抗争の場に。寺の本堂の右手の裏から主郭へ登る山道あります。上がり切った所が北から四番目の曲輪で一番高い主郭は北から二番目。私の高度計アプリは190mを指示。南北に長い城です。この主郭に堅堀、横堀が残っています。この場所より南に向かって階段のように曲輪が連なって3番目と4番目、7番目と8番目の曲輪間に堀切がある。歩いて確認したがきつい。
ただ南側は寺の敷地を城として利用した感が•••。
城址も説明文もない寂しい山城ですが、見応えあります。
主郭でお茶休憩して下山。寺を覗いたら管理者らしい人が暫し立ち話。
駐車場の右手の山道は蝮に注意、トイレは本堂の裏にあります。

久しぶりの訪問者に会話が弾み饒舌になられ色々楽しい話を聞けました。
時折鶯が鳴き、木々の間を抜ける風は肌に気持ち良かったです。

この古城も手入れも足りなくなり跡形もなく消えゆくのみなのか•••(-_-)


2014年05月10日 まったり丹波守
神尾山城

亀岡宮前郵便局のすぐ東側の道を南下すると『金輪寺』の案内が道々にあるので見落とさなければ着きます。車は金輪寺に止められ城跡は寺の裏に有ります。
車で山頂まで行けるので山城初心者にもオススメです。ただし、車の運転には注意して下さいね。


神尾山城の周辺スポット情報

 堀切跡(遺構・復元物)

 天狗岩(遺構・復元物)

 神尾山 城(神咒寺城・本目城)(碑・説明板)

 埴生城(周辺城郭)

 井ノ内城(猪倉城)(周辺城郭)

 駐車場(金輪寺)(駐車場)

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