余部城(あまるべじょう)
余部城の基本情報
通称・別名
- 過部城、余部丸岡城、丸岡城、円岡城、岡山城
所在地
- 京都府亀岡市余部町古城、榿又、下条
旧国名
- 丹波国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 野田泰忠、長尾大和守、中沢氏、福井氏、明智氏、能勢氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑(丸岡城跡)、説明板
周辺の城
-
亀山城(京都府亀岡市)[1.1km]
御影山城(京都府亀岡市)[4.7km]
八木城(京都府南丹市)[6.4km]
田能城(大阪府高槻市)[6.8km]
笑路城(京都府亀岡市)[7.2km]
嵐山城(京都府京都市)[8.8km]
神尾山城(京都府亀岡市)[9.5km]
高雄城(京都府京都市)[9.8km]
地黄城(大阪府豊能郡)[12.1km]
丸山城(大阪府豊能郡)[12.2km]
余部城の解説文
余部城の口コミ情報
2023年06月26日 かよぱぱ和泉守
余部城
駐車場が裏手にありますが、道が大変狭いので大きいクルマは無理かも…
2022年11月25日 松木S#S
並河城[余部城 周辺城郭]
近所なので歩いて訪城しました。平成4年に発掘調査が終了して、案内板位は建つのかと思ってましたが所有者の許可が得られなかった様です。写真を撮る際も睨まれてました。現在は道路より1m程高くなっていて近くの願成寺川と犬飼川を堀としていた模様です。
2022年09月01日 鵜忠摂津守朝仁
余部城
車で訪問しました。他の方の口コミを参照して駐車場が西岸寺の裏にあったのでそちらを使わせて頂きました。駐車場は分かりにくいですが Google Mapにどなたかが登録してくれたのか『西岸寺の駐車場』と検索すると出てきました。御城印を購入しましたが奥様と思わしき方が丁寧な対応をして下さりとても印象が良いです。通常版が300円で季節限定版が500円でした。玄関の中の壁に城郭図や堀切の場所の地図と、森の京都御城印めぐりのポスターが貼ってありましたので、ご参照になれば良いかと思います。
2022年06月04日 いかにも信玄
余部城
余部丸岡城=西岸寺の駐車場は、裏手・北西側にあります。
2022年03月29日 特にありません
余部城
余部城(丸岡城)ですが、現在は西岸寺で登城は楽です。しかし、駐車場がありません。亀岡駅前から歩きました。尚、近隣に亀岡城と西岸寺と駅の観光案内所で亀岡城、笑路城、丸岡城、神尾山城の御城印が入手出来ます。
2021年12月26日 RED副将軍
余部城
古くから口丹波地域随一の軍事拠点でした⚔
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
室町時代末期の応仁・文明の乱の際は東軍の軍事的拠点として中沢正綱が城主であったと記録があります。
戦国時代は、八上城の波多野氏家臣の福井貞政が城主となり、口丹波の拠点として機能。
明智光秀による丹波攻めの際は、降伏するように使者を送られたが、福井氏は拒絶。光秀によって攻められ落城、福井一族は滅亡しました。
見所
現在は西岸寺の境内となり遺構は残らず。
西岸寺周辺が本丸跡で西岸寺に至る坂道に大手門があったと言われています。
かつて大堰川と曽我谷川の旧河道を環濠として利用しており地形に名残りがあります。
2021年07月22日 丹波守丹波の赤鬼
余部城
現在、西岸寺の境内になっています。通常版と四季ごとの御城印(御城印には珍しい文字が手書きです)も買えます。駐車場も墓側にありますが初めてでは分かりにくいかも(道幅は車一台分)です
2021年01月18日 中村侍従和夫
余部城
駐車場は後ろに写る石畳を車で登って行きます。現在は西岸寺というお寺で御城印をしてくれはります。
2020年10月25日 猫背土佐守猫又
余部城
駐車場はありません。🚗で来訪の方は、近くの『道の駅ガレリアかめおか』に🚗を駐車してから👣てくってくのをオススメします。
🏯マークの所にある、西岸寺さんで御城印が購入できますよ。
2019年04月28日 馬秀のすけ
余部城
山陰街道と篠山街道の分岐の交差点の坂の上に西岸寺があります。
白壁の所に解説板がありました。
2017年06月11日 和泉屋喜右衛門
余部城
今週のヤングジャンプ【こち亀の作者が贈る「女子高生物語」シリーズ連載第2話!】秋本治先生の「ファインダー -京都女学院物語-」第2話で、余部城の「西岸寺」が紹介されています。
西岸寺周辺が城跡と伝えられ、小字「古城」「古城浦」「政所」などの地名が残る。また、城の西側には「下条」「中条」「上条」の地名も見える。
清和源氏の流れを汲む福井氏の城と伝えられ、江戸時代には福井氏の子孫能勢氏が「古城」という場所に住んでいたという(『丹波志桑田記』)。
余部城が登場するのは、15世紀の応仁・文明の乱のときである。西軍の反撃を受けた東軍方の野田泰忠は、応仁3年(1469)4月、丹波穴太に逃れた。6月には東軍の安富又五郎のもとに加わり「余部城」に入っている。
また、文明元年(1469)10月にも再び入城している(文明6年3月付「野田泰忠軍忠状」『尊経閣文庫所蔵文書』815)。
以上の記述から東軍の軍事的拠点として機能していたようである。戦国期も城が使われたらしく、天文末年~永禄年間頃、多紀郡の波多野元秀は長尾大和守に対して「余部」に「入城」した功績を賞している。
ただし、元秀は余部城を「無要害」と表現している(5月4日付「波多野元秀書状」『雨森善四郎氏所蔵文書』1438)。
また、天正3年(1575)8月、越前在陣中の明智光秀は船井郡の小畠左馬進宛の書状にて「馬路・余部在城之衆」に指示した様子を報じている(8月21日付「明智光秀書状」『大阪青山短期大学所蔵文書』)。また、天正3~5年頃の10月には光秀が小畠左馬進を「余部近辺」に呼び寄せている(12月12日付「明智光秀書状」『大東急記念文庫所蔵文書』)。
このように余部城は単なる在地領主の城ではなく、戦国期の地域権力の拠点的な城として使用されていたことがわかる。