余部城(あまるべじょう)

余部城の基本情報

通称・別名

丸岡城、余部丸岡城

所在地

京都府亀岡市余部町古城、榿又、下条

旧国名

丹波国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

野田泰忠、長尾大和守、中沢氏、福井氏、明智氏、能勢氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑(丸岡城跡)、説明板

周辺の城

亀山城(京都府亀岡市)[1.1km]
御影山城(京都府亀岡市)[4.8km]
八木城(京都府南丹市)[6.4km]
田能城(大阪府高槻市)[6.8km]
笑路城(京都府亀岡市)[7.2km]

余部城の解説文

余部城は余部集落のある段丘上にある平城である。丸岡城ともいう。

西岸寺周辺が城跡と伝えられ、小字「古城」「古城浦」「政所」などの地名が残る。また、城の西側には「下条」「中条」「上条」の地名も見える。

清和源氏の流れを汲む福井氏の城と伝えられ、江戸時代には福井氏の子孫能勢氏が「古城」という場所に住んでいたという(『丹波志桑田記』)。

余部城が登場するのは、15世紀の応仁・文明の乱のときである。西軍の反撃を受けた東軍方の野田泰忠は、応仁3年(1469)4月、丹波穴太に逃れた。6月には東軍の安富又五郎のもとに加わり「余部城」に入っている。

また、文明元年(1469)10月にも再び入城している(文明6年3月付「野田泰忠軍忠状」『尊経閣文庫所蔵文書』815)。

以上の記述から東軍の軍事的拠点として機能していたようである。戦国期も城が使われたらしく、天文末年~永禄年間頃、多紀郡の波多野元秀は長尾大和守に対して「余部」に「入城」した功績を賞している。

ただし、元秀は余部城を「無要害」と表現している(5月4日付「波多野元秀書状」『雨森善四郎氏所蔵文書』1438)。

また、天正3年(1575)8月、越前在陣中の明智光秀は船井郡の小畠左馬進宛の書状にて「馬路・余部在城之衆」に指示した様子を報じている(8月21日付「明智光秀書状」『大阪青山短期大学所蔵文書』)。また、天正3~5年頃の10月には光秀が小畠左馬進を「余部近辺」に呼び寄せている(12月12日付「明智光秀書状」『大東急記念文庫所蔵文書』)。

このように余部城は単なる在地領主の城ではなく、戦国期の地域権力の拠点的な城として使用されていたことがわかる。

情報提供:亀岡市教育委員会

余部城の口コミ情報

和泉屋喜右衛門様[2017年06月11日]
今週のヤングジャンプ【こち亀の作者が贈る「女子高生物語」シリーズ連載第2話!】秋本治先生の「ファインダー -京都女学院物語-」第2話で、余部城の「西岸寺」が紹介されています。

「発見!ニッポン城めぐり」を始めるには?

「発見!ニッポン城めぐり」は、iPhone・Androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「発見!ニッポン城めぐり」 発見!ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore