八木城(やぎじょう)
八木城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 京都府南丹市八木町八木内山他、亀岡市宮前町神前大谷他
旧国名
- 丹波国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明(天守台あり)
築城主
- 内藤入道
築城年
- 室町時代
主な改修者
- 明智光秀
主な城主
- 内藤氏、松永氏
廃城年
- 不明
遺構
- 曲輪、櫓台、石垣、土塁、井戸
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
御影山城(京都府亀岡市)[5.5km]
神尾山城(京都府亀岡市)[5.5km]
余部城(京都府亀岡市)[6.4km]
園部城(京都府南丹市)[6.9km]
亀山城(京都府亀岡市)[7.5km]
笑路城(京都府亀岡市)[10.2km]
宇津城(京都府京都市)[10.9km]
須知城(京都府船井郡)[11.8km]
田能城(大阪府高槻市)[12.7km]
丸山城(大阪府豊能郡)[12.7km]
八木城の解説文
[引用元:Wikipedia「八木城」の項目]
八木城(やぎじょう)は、京都府南丹市八木町八木および亀岡市宮前町神前周辺にあった日本の城。丹波国三大城郭のひとつで、黒井城、八上城とともに数えられている。キリシタン武将・内藤如安ゆかりの城としても知られる。
概要
JR西日本八木駅の南西にある、城山(標高344m)にある複合梯格式の山城である。城郭施設の広さは広大で、山頂部に本丸、支尾根筋にも多数の曲輪などの防御施設が築かれている。現在でも、本丸、天守台、石垣といった遺構が地表面から確認できる。ただ、沿革についてはよく解っていない点が多い。八木城の記載されている史料は多く、『太閤記』『明智軍記』『丹波風土記』『丹波興廃記』『籾井家日記』『内藤盛衰記』『八木町誌』等があるが、これらの史料は原史料の十分な考察がされないまま引用され、それらが更に孫引用され誤りが多いのではないかとされている[1]。また、丹波守護細川氏の守護代をつとめた内藤氏の居城であった他は、その存続期間や城主の系譜については明確でない点が多く、八木城は有名な山城ではあるが、不明な点も多い。
沿革
元弘3年(1333年)足利尊氏が丹波篠村八幡宮での挙兵に応じた内藤顕勝(定房とも)が戦功により船井郡を与えられ建武2年(1335年)に八木に入ったのが築城の始まりとされる。
明徳3年(1392年)、細川頼元が丹波守護に任命されると、管領として在京を常とする細川氏に代わり内藤氏がこの城を守護所として機能させていた[2]。
永享3年(1431年)7月24日に、「持之将軍義教ノ命ニヨリ守護代ヲ香西ヨリ内藤備前入道ニ替エル」(『満済准后日記』)と記され、細川氏の被官となっていた内藤備前入道こと内藤信承が丹波国の守護代となったことにより、八木城は守護である細川氏・守護代である内藤氏の威勢を示すものとして本格的に拡張されはじめたものと推定されている。
信承は嘉吉2年(1442年)もしくは嘉吉3年(1443年)に死去あるいは更迭されたようで、嘉吉3年(1443年)6月には次の丹波国の守護代として内藤之貞が任じた。また1449年(宝徳元年)-1452年(享徳元年)には内藤元貞と交替していたようである。
宝徳3年(1451年)細川勝元が八木城山麓に龍興寺を建立した。八木村という地名に因み、号を米山とする。
その後上原元秀が文明14年(1482年)12月に丹波国守護代になったようだが、明応2年(1493年)10月に長塩弥六との刃傷沙汰があって、同年11月に死亡したようである。明応4年(1495年)8月24日に、「細川自丹波国上洛、守護代事内藤二返給了」(『大乗院寺社雑事記』)とあるので、上原元秀の父の上原賢家の没落後は内藤元貞が再び守護代に戻ったものと思われている。その後1505年(永正2年)-1521年(大永元年)までは内藤貞正が守護代となり、続いて内藤国貞が守護代となったようである。
しかし細川氏綱、三好長慶に味方して以降、八木城は幾度か戦場となったが、天文22年(1553年)9月に落城し内藤国貞も討ち死にした(『細川両家記』)。その後松永久秀の弟松永長頼が八木城を奪還した。松永長頼は三好氏軍の中で十河一存と並び早くから軍功をあげ、三好長慶の信頼が厚かった人物であったと思われている。「丹波が13年間に亙って三好氏の版図であったのは、専ら彼(松永長頼)の軍略によるところが多い」とされる[3]。その戦の天才も『多聞院日記』によると永禄8年(1565年)8月、赤井直正の反撃にあって討ち死にしたようである。
内藤ジョアン時代
八木城は、内藤ジョアン(内藤如安)の居城として禁教令(キリスト弾圧)を受け、後難を避けるため史料の多くが故意に書き換えられたり、記録が抹殺されてしまったようで、その真偽を鮮明にすることが非常に困難となってしまっている。これが有名な城であるが「幻の八木城」と呼ばれる云われで、現在も歴史研究家の調査が継続されている[4]。
内藤ジョアンの母は、内藤定房(八木玄夫『丹波八木城と内藤如安』では、定房は内藤国貞の誤記ではないかとしている)の娘でまず近江国の浅井氏に嫁ぎ一子をもうけたが、夫が病死し子を連れて八木城に戻ってきた。その子の名は八木玄蕃といい、内藤ジョアンの義兄となり後に家老職を務めた。その後内藤ジョアンの母は細川氏と再婚したが、またしても夫と死別し八木城に戻ってきた。そのような中、内藤ジョアンの母は松永長頼と三度目になる再婚をし、二子をもうけた。五郎丸後の内藤ジョアンと、妹の内藤ジュリアであった。また、内藤ジョアンは松永長頼の「実子又は養嗣子と推定されている」と養嗣子の可能性も示唆されている。
1553年(天文22年)頃から八上城の城主であった波多野元清の勢力が拡大していき、丹波国を侵し始めた。当時の八木城の城主であった内藤国貞は本梅郷の戦いで討死し、八木城で立て篭もっていた内藤定房も討ち取り、波多野元清軍を前に落城してしまった。この時、内藤国貞の実子千勝丸は、湯浅宗貞が助け園部城でかくまった。八木城が落城した事に対して怒った松永長頼は、出陣先から引き返し、八木城の奪還に成功したようである。この時の様子が、「松永ハ内藤備前守ガ聟ナレバ、城中モ一入タノモシク思ヒケル、落武者カク計リケル事武功第一ナリト沙汰シケル」(『足利季世記』)と記載されている。その時の恩賞として将軍から内藤の姓を許され、内藤宗勝と改名したようである。
一方内藤ジョアンは、山口方面よりお家騒動で八木城を頼って逃げて来た女性がおり、名をカタリナといい、洗礼名しか判っていないとされている[5]。また、山口で起きた「お家騒動」とは1551年(天文20年)の陶隆房の反乱(大寧寺の変)ではないかとの推察がある[6]。そのカタリナは、五郎丸と妹ジュリアをわが子のように育て、五郎丸とジュリアもカタリナの影響からキリシタンの道に入っていった。そして永禄8年(1565年)5月に、京の南蛮寺でルイス・フロイスより洗礼を受け、ジョアンという洗礼名を授かったのではないかと思われている。
そのような中、黒井城の城主「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正と、八上城の城主は波多野秀治に代わり、丹波国を収めようと争乱を始めたので、同年8月松永長頼は700兵余りを引き連れ出軍した。氷上郡迄進んだところ、日暮れとなり豪雨となったので近くの寺に宿陣した。しかし、この寺の僧が赤井直正に密告し、夜中不意の夜襲をかけられてしまった。松永長頼も700兵を指揮し奮闘したが及ばす、ほぼ全員が玉砕したようである。内藤ジョアンが洗礼を受けてから3か月後に父を亡くしたことになる。
父を亡くした内藤ジョアンは、八木城の城主に収まったようで、八木城を中心として布教活動を行っていた。そんな中、現在記録が明確になっているだけで三度日本人修道士ロレンソ了斎を招いたようである。ロレンソ了斎とはルイス・フロイスの弟子で、九州から京都にかけて獲得した信者は6千人にものぼったと言われている。八木城には1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけて2回訪問した。この1573年(天正元年)の初旬、2回目の訪問の様子をガスパル・ヴィレラは書簡で「パードレ・オルガンチノはロレンソと共に約八日前三箇より当地に着きたり。内藤殿其部下説教を聞かん為め丹波の国に於てロレンソを待ち居れるが故に、彼を迎えに来たる人と共に一昨日当地を出発せり」と記している。また1574年(天正2年)3回目の訪問の様子をルイス・フロイスの未刊の書簡では、「時にフロイスは、ロレンソとともに都から丹波の山道をたどった。約二里のところへ内藤ジョアンは家臣とともに出迎えた。城には豪華な祭壇が飾られていた。八日間に七十名の兵が、ついで十四名が受礼した」と記している。八木城は丹波国におけるイエズス会布教活動の本拠地となりつつあった。
このころより内藤ジョアンこそ城主とすべき派と、内藤国貞の実子、千勝丸(後の内藤貞勝)[7]の擁立を目指す一派とで内争となった。そのような中、内藤定房の兄弟は僧侶となっていたが、内藤氏の血縁でない松永長頼と事あるごとに反抗していたので、内藤ジョアンの母にとっては伯父たちから、内藤ジョアンを城主になることを諦め、また内藤ジョアンの母もキリシタンに改宗するよう迫ったようである。しかし、内藤ジョアンの母は気丈な方であったらしく、頑としてこれに応じなかったため、僧侶に殺害された。内藤ジョアンは父に次ぎ、母も亡くした。母が殺されたのは1573年(天正元年)の秋から暮れにかけてはでないかと推察されている。『日本史』によると、母が亡くなってからの内藤ジョアンは城主のことなど一向に気にかけなくなり、戦国の世を渡り歩き、ますます信仰の道に深く入っていた、と記載している。
その後、内藤ジョアンは小西行長の客将となり、文禄・慶長の役で出兵し活躍した。また徳川幕府よりキリシタン禁教令で、高山右近と共にマニラに亡命した。マニラでは「生き神」の如き歓待をうけ、地域の住民からも慕われたらしく、最後は妻マリア、妹ジュリアや子供達、地元の宣教師や修道士に見守れながら昇天したと語られている。73歳であった。
八木城の戦い
天正7年(1579年)織田信長軍は明智光秀を総大将に八上城や黒井城を中心に第二次丹波国征討戦に乗り出していた。そのような中、同年5月に綾部城、玉巻城が落城すると、丹羽長秀、羽柴秀長らは羽柴秀吉からの要請をうけ三木合戦の援軍として転戦して行った。同年6月、当時この地域に一定の勢力を保っていた八木城の城主内藤有勝に軍を向かわせ、八木城を攻城した。
八木城は自然の天険を利用した堅城であったため、容易に攻め落とすことができず、明智光秀は和議を申し込んだ。しかし、内藤有勝はこれを拒否し、防戦に挑んだ。
そこで、明智光秀は八木城の城兵に内通謀反を工作し、これに応じる者があり、城内の本丸、二の丸に火を放った。これを合図に明智光秀軍は攻め寄せ、ついに落城した。同年6月27日であった。この時に城主内藤有勝も戦死したものと思われている。
内藤氏の一門であった内藤正勝は、明智光秀軍を突破し八田城へ向かおうとしたが、逃走している最中に、自害する者も出て、内藤正勝は鴻ヶ獄城に入城したが、ここで没したと思われている。これにより室町時代から続いていた内藤氏は滅亡した。
この戦いの様子は『内藤盛衰記』を中心に記載されているが、内藤有勝、内藤正勝という人物がどのような人物であったのかよく解っていない。八木玄夫の研究によると『内藤盛衰記』に記載されている「有勝は架空人物。この人物に如安の実績を移し、如安の名は消し去ったのだ」としており、八木城落城の内藤有勝部分はノンフィクションの可能性も示唆している。また、同盟関係にあった織田信長と足利義昭が仲違いを生じると内藤ジョアンは「1574年(天正2年)の秋以降、和泉堺に移って以後、義昭のもとに走った」と、八木城の戦い時には八木城にいなかった可能性があるとされる[8]。いずれにしても、この時内藤ジョアンがどこにいたのか、改ざんされたりして明確な史料は残っていない。
廃城
廃城の明確な時期は解っていない。福島克彦によると八木城は明智光秀による改修がなされている点を指摘している。また、国道478号のバイパス工事に伴う発掘調査が行われ、発掘調査地点は特に明智光秀により大幅に手を加えられた可能性が高く、また遺物からも明智光秀時代の様相が高いと指摘している[9]。内藤氏は滅亡し、丹波国を平定した明智光秀は亀山城 (丹波国)を築城し、丹波国の中心も亀山城に移っていくが、八木城は廃城を免れたようで亀山城の支城として存続していた。
城郭
本丸
本丸は、馬屋敷曲輪の左手の一段高い台地が本丸跡である。大きさは南北に10m、東西に13mある。八木城は1645年(正保2年)に木所佐左衛門、赤井藤右衛門らが測量作成した『八木城古絵図』が残っている。この絵図には四方に牛蒡積みの石垣が描かれている。現在この石垣は約60cmの土をかぶり石垣は見えない。先の八木城の戦いで落城はしたが、炎上はしなかったようで、灰燼の跡は確認されていない。
金之間曲輪
本丸の西側に突出してあるのが金之間曲輪。名前の「金の間」から推察され、金蔵が想像されている。『八木城古絵図』よると特別の石組みがなされていた一郭があり、金蔵との関連性が指摘されている。ただ、この曲輪はそのような名称より、城郭的に貴重な天守台の祖形が指摘されている。これと似たような天守台が松永長頼方であった笑路城の発掘調査で確認されており、近世天守台の過渡期として『八木城古絵図』にも記載されている。
奥方屋敷曲輪
本丸の北東側に階段状の曲輪があり、その中で一番広い場所が『八木城古絵図』に記載されている奥方屋敷曲輪ではないかと思われている。名称から、領主の家族や家臣が山上生活を営んでいた場所ではないかと推察されている。
二の丸
本丸から西南側に一段低い場所が馬屋曲輪で、平坦地になっている。そこから更に左側に進むと、3m程度の高い崖に突き当たり、それを登るとなだらかな平坦地がありこれが二の丸である。かなりの広さがあり両側面は切り立っている。内藤五郎の居館があったのではないかと思われている。
その他曲輪
それ以外にも曲輪がある。
- 八木玄蓄屋敷曲輪
- 二の丸を出て坂を下っていくと、小高い丘に突き当たるとそこが家老の八木玄蓄の屋敷跡と伝わっている。八木玄蓄は内藤のジョアンの義兄で、この曲輪は雑木が繁っており見通しも悪く、この台地が左手へ出張っているような形で、下にある谷は玄蓄谷と呼ばれている深い谷になっている。
- 三の丸
- 八木玄蓄屋敷曲輪から更に尾根伝いに進むと、前方に一段高い峯が立ちはだかりこれが「烏帽子岳」と呼ばれている。ここに前城主の家老が居を構え居た三の丸がある。ここには大正時代のマンガン鉱を採掘した大きな洞窟が2つある。
- 東の出丸(対面曲輪)
- この東の出丸の側面に通っている道が表通であったため、この曲輪の周辺に大手門があったのではないかと思われている。東の出丸には奏者番の詰所があったと伝わっている。まず使者や来客はここで待たされ、その間奏者番が、対面曲輪に赴いて御側使用人に報告し指示を受けていたのではないかと思われている。今もこの道は「奏者峠」と呼ばれている。
それ以外にも、北の出丸、北の丸口、屋敷曲輪の曲輪や、岩屋口、辰の口、虎松口、杉谷口などの虎口がある。
発掘調査
八木城は国道478号のバイパス工事に伴う調査を含め、山麓の屋敷曲輪部分を中心とした発掘調査が何度か実施された。
主な八木城遺跡発掘調査 回 数 調査開始日 主体調査機関 調査内容 第一次発掘調査 平成3年(1991年) 京都府埋蔵文化調査研究センター 試掘調査 第二次発掘調査 平成4年(1992年)5月18日 京都府埋蔵文化調査研究センター 道路建設予定地全体調査 第三次発掘調査 平成5年(1992年)4月7日 京都府埋蔵文化調査研究センター 道路建設予定地全体調査 第四次発掘調査 平成5年(1992年)6月22日 八木町教育委員会 遺跡の保全の基礎的資料獲得とほ場整備事業 この発掘調査から、遺構として石垣で護岸された屋敷跡や石組土坑、石組井戸、谷を埋めて作った段々状の平坦地、礎石の一部、遺物としては、土師皿、中国製磁器等か発掘された。またこの発掘調査で古墳時代後期の須恵器を焼いた窯跡を検出した。
全体的に地形に制約された蓮郭式の中世城郭であるが、橋頭堡的な曲輪IVから北の曲輪VIまで土塁が延長しており、既存の遺構を克服して城域を設定しようとしていた。明智期の使用部分がIからIVまで及んだことが想定できる[10]。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- JR西日本 嵯峨野線 八木駅 → 春日神社 徒歩約15分
- 車でのアクセス
- 京都縦貫自動車道 八木東IC → 国道9号 → 春日神社
- 近隣に駐車場無し
- 徒歩でのアクセス
- 春日神社 → 山頂本丸部分 徒歩約35分
参考文献
- 『日本城郭大系』第11巻 京都・滋賀・福井、新人物往来社、1980年9月、120頁-121頁。
- 広瀬幸雄「八木城とジョアン内藤について」(『郷土誌八木』第5号、1992年3月)41頁-51頁。
- 鈴木祥一「八木古城址を尋ねて」(『郷土誌八木』第5号、1992年3月)104頁-110頁。
- 財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター『京都府遺跡調査概報』第62冊、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター、1995年3月、22頁-55頁。
- 八木町教育委員会『八木城発掘調査概要』八木町教育委員会、1994年3月、1頁-11頁。
- 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』六、新人物往来社、1989年1月、129頁。
- 今谷明『戦国三好一族』洋泉社、2007年4月、230頁。
- 各務英明『殉職-内藤如安の生涯-』朝日ソノラマ、1988年2月、12頁-133頁
[続きを見る]
八木城の口コミ情報
2023年03月03日 RED副将軍
八木城
キリシタン武将として有名な内藤ジョアンの居城🏯
丹波国三大城郭のひとつ
オススメ度 ★★★★⭐︎
1335年頃に内藤顕勝が足利尊氏から戦功により船井郡を与えられ築いたのが始まりと云われます。
内藤氏は、丹波国守護職の細川京兆家の守護代として勢力を拡大。八木城を拡張し権威を示したとされます。
1553年、内藤国貞は三好長慶と結び、波多野氏と対立。波多野氏に属する三好正勝、香西元成により八木城は落城。内藤国貞も討死しました。
その後、三好氏配下の松永久秀の弟である松永長頼が八木城を奪還。松永長頼は内藤宗勝と名を改め、内藤氏の勢力も復興します。
しかし、1565年に黒井城に侵攻するも赤井直正の反撃に遭い討死しました。家督を継いだ内藤宗勝の子が内藤如安であり、キリシタンとして有名です。
その後、内藤氏の中で内藤如安と、内藤国貞の実子である内藤貞勝との争いとなり、内藤如安は八木城を出て小西行長の客将となりました。その後は文禄・慶長の役で活躍しましたが、徳川幕府よりキリシタン禁教令で、高山右近と共にマニラに亡命しています。
1579年、織田信長の丹波攻めにおいて、明智光秀が攻め寄せてます。堅固な要塞でありなかなか落ちませんでしたが、内部からの内通者により落城。内藤氏は滅亡しました。
見所
標高330mの城山に築かれ、ピークに主郭を配し東西南北に伸びる四方の尾根に曲輪を展開する巨大山城。
山頂の主郭部以外にも、烏嶽と呼ばれる西側尾根上の郭群、山麓には居館とされる郭群に大別されます。
主郭は周囲を石垣が巡り、枡形虎口など技巧性が高く織豊系のテイストもあるため明智光秀の接収後に改変されたとの見方もあります。
2023年01月16日 azu
内藤土佐(曲輪)[八木城 遺構・復元物]
内藤土佐守の屋敷跡途中に土橋と堀切がありました。道中岩場の険しい道があるので気をつけて行かれてください
2023年01月16日 azu
八木城
今回は再訪でしたが城域がとても広く主郭方面外の尾根筋にある城域を全て見切ることはできませんできずでしたが、前回は見れなかった土橋、堀切、竪堀が見れました。
2022年11月08日 日本海近江守1号
八木城
登山口は川のある方からでも高速横からでも行けますが、川添いの方がスムーズです。道は整備されていますが、少なくともしっかりとしたスニーカーくらいは必要です。石垣や蛙岩、光秀の勝鬨岩、見どころたくさんです。
2022年06月10日 蘭来)`Д´)/河内守蘭丸
八木城
先人の口コミ通り春日神社の駐車スペースに車止めて登城しました。事前に寄った観光協会の方も駐車して良いと言ってましたので公認のようです。春日神社からの登城は東回りコースで、別に200mほど北西の西山墓地駐車場に停めても登城出来ます。こちらは西回りコース
私は東回りコースから登り、西回りコースで降りましたが体力的に正解でした。
西回りコースは少しキツい感じなので、体力ない方は東回りコースがお薦めです
登城中はどこが登城路?と迷う箇所がいくつかありますが、落ち着いて周りを見ると問題ありません。山蛭、スズメバチの心配もないので安心して登れます
2022年01月06日 イオ紀伊守
千手寺[八木城 寺社・史跡]
千手寺は弘法大師空海の開創とされ、空海が唐から帰国する際に真言密教布教の拠点を求めて投げた独鈷杵がこの地の松にかかっていたことから、獨鈷抛山(とこなげさん)と呼ばれるようになったそうです。ちなみに同様の伝承は高野山にもあります(三鈷の松)。
駐車場から石段を上ったところの鐘楼門は愛宕大権現・白雲寺から移築されたもので、境内の東側奥に展望台に続く道があり、稲荷社の脇を抜けた先の展望台からの眺望はなかなかのものです。
2022年01月06日 イオ紀伊守
千手寺城[八木城 周辺城郭]
千手寺城は、明智光秀の丹波攻めにおける八木城攻略の拠点となったとされる城ですが、築城年代や築城者等、詳細は不明です。八木城から千々川を挟んだ南側の山上に位置し、千手寺の後背の尾根沿いに曲輪を連ねています。
山麓から対向困難な細い山道をひたすら上って千手寺へ。千手寺の駐車場に車を駐めて石段を上り、愛宕大権現 白雲寺から移築された鐘楼門をくぐると、境内の東側奥に展望台に続く登山道があり、貸出用の杖も用意されています。ここから登城開始です。
稲荷社の脇を抜けて3分ほど登ると展望台に到着。鐘楼門を眼下に開ける眺望はなかなかのものです。展望台の先は道なき道かと思いきや、尾根筋にごろごろと散乱する巨石には道案内の矢印が描かれ、一応整備されているようです。ストックを頼りに急斜面をよじ登りつつ、ほとんど自然地形の曲輪群を抜けて山頂へ。山頂の主郭には櫓台状の土壇があり、巨石が鎮座しています。主郭から北に続く尾根を今度は下って行くと、堀切が尾根筋を断ち切っています。ようやく明瞭な遺構に出会えました。その先の出曲輪には土塁と思しき高まりも見られます。北尾根は八木城の方向なので、特に手を加えられているのかもしれません。
展望台から出曲輪まで南北にのびる尾根のほか、西側を並行して南北にのびる尾根筋にも城郭遺構があるらしいので、いったん千手寺まで戻り、ハイキングコースを南西に進んで、西尾根に取りついてみました。西尾根の堀切を切通道としてハイキングコースが横断しているので、そこから南側に上ってみると灌木が生い茂り巨石がごろごろ転がっています。さすがにこちらは未整備だろうと思いきや、巨石には道案内の矢印が! こんなところに足を踏み入れる物好きがそう滅多にいるとも思えないんですが…(笑) 灌木や倒木でわかりづらい点はあるものの、櫓台状の土壇があったり南に進んだ先には浅い堀切もあったりで、西尾根も千手寺城に含まれるかどうかはともかく、やはり何らかの城郭遺構ではありそうです。
2020年12月09日 イオ紀伊守
明智光秀勝どき岩[八木城 その他]
本丸北東下の腰曲輪に下りて行くと、八木城を攻め落とした明智光秀が勝どきをあげたと伝わる、明智光秀勝どき岩があります。
2020年12月08日 イオ紀伊守
堀切と姫の洞窟[八木城 遺構・復元物]
内藤五郎と北の丸(並河重郎)の間は堀切で隔てられ、堀底の内藤五郎側には明智光秀の攻撃を受けた際に内藤一族の姫が脱出したと伝わる洞窟(姫の洞窟)があります。
2020年12月08日 イオ紀伊守
内藤五郎(曲輪)[八木城 遺構・復元物]
二の丸から北に斜面を下りたところにある曲輪で、西辺には土塁が、北端には堀切があり、堀切の先には北の丸(並河重郎)が続いています。
2020年12月07日 イオ紀伊守
北屋敷群跡[八木城 遺構・復元物]
八木城の北麓、大手口(天神口)登城口からすぐのところに階段状に整地された曲輪群があり、堀(通路?)が中央を通り、何故か五輪塔が点在しています。
2020年10月06日 伊達兵部大輔一海
八木城
八木春日神社の駐車場に車を停めて登城。京都縦貫自動車道の下を通り抜け登山道入口へ。木々の中にある登山道を休憩を重ねながら登ること約50分程度で天守に到着しました。山道はある程度踏み固められていますが、歩きやすい靴が良いでしょう。降りは足を滑らせることがありましたので注意が必要です。入口に善意の杖がありますが、ウォーキングステッキがあると歩きやすいでしょう。
2020年09月07日 琉球守こうちゃん播磨の守
八木城
JR八木駅から登城しました!駅から本丸まで約1時間でした!登城口からひたすら勾配の連続と足元が悪いので軽装・軽靴は注意です!本丸迄行くと戦国時代の山城を実感出来ました!時折見る斜面、強烈です!登城中、足を踏み外すと大変な所も多々ありますので、ご注意下さい。登城の際、水やお茶等の持参も忘れずに!
2020年03月22日 淡輪 和泉守 ロクロ兵衛
八木玄蕃(曲輪)[八木城 遺構・復元物]
何段かの段差のある曲輪跡。
本丸~二の丸から続き、烏嶽へ繋ぐ位置。
他に比べると小さめ。
2020年03月22日 淡輪 和泉守 ロクロ兵衛
二の丸[八木城 遺構・復元物]
真ん中に大きめの曲輪、その周囲にも平坦地。東に本丸、南西側に八木玄蕃(曲輪)を繋ぐ位置。
山頂の案内板には「内藤和泉」とあるので、内藤和泉守の屋敷跡か。
2020年03月22日 淡輪 和泉守 ロクロ兵衛
二の丸[八木城 遺構・復元物]
真ん中に大きめの曲輪、その周囲にも平坦地。東に本丸、南西側に八木玄蕃(曲輪)を繋ぐ位置。
山頂の案内板には「内藤和泉」とあるので、内藤和泉守の屋敷跡か。
2020年03月22日 淡輪 和泉守 ロクロ兵衛
烏嶽(曲輪)[八木城 遺構・復元物]
八木城からは少し離れた尾根上の曲輪群。
山頂部から北側と南西側に逆L字型に延びる。
本丸から二の丸、八木玄蕃(曲輪)を経てくるが、山道を歩いていると、南側の亀岡市交流会館へ至る道と間違えないようにビニールテープで道が塞がれているところがあるが、ビニールテープをくぐり尾根沿いを進む。地図をちゃんと読めなかったり、縄張り図や赤色立体地図のパンフを持っていないならやめた方がいい。
中心部(最高所)より北側には、何段かの曲輪を降りたのち、鞍部をこえ、また何段かの曲輪を登ると広い場所(曲輪跡)に出る。
さらに主尾根を西側に少し行くと、堀切があり、その先へ登ったところにも少しなだらかで、曲輪跡と思われる段差があるが、不明瞭。
中心部より西側へも曲輪跡が何段か延びる。途中、南西側に向きを変え、さらに進むと堀切がある。こちらの堀切の先も若干平坦だが、遺構は不明瞭。
2020年03月22日 淡輪 和泉守 ロクロ兵衛
内藤土佐(曲輪)[八木城 遺構・復元物]
本丸から南側へ尾根沿いに一旦下り、昇り返したところにある。本丸からの下りには道は少し急でロープがあるところがあるので、気を付けて。
対面所への道もあるようだが、私は行ってませんし、対面所側に明瞭な道はなかったように思うので、どの程度通れるのか不明です。
2020年03月22日 淡輪 和泉守 ロクロ兵衛
北の丸(並河重郎)[八木城 遺構・復元物]
北側にある広い目の曲輪。
本丸より少し北東に尾根を行ったのちに、北側へ分岐する尾根を一旦下り、再び登り返したところ。
帯曲輪的なものを含め、何段かの段差がある。本丸からここに至るまでもいくつもの曲輪跡が連続している。
2020年03月22日 淡輪 和泉守 ロクロ兵衛
対面所(曲輪)[八木城 遺構・復元物]
6合目(7合目?)の標識のところに案内板があり、そこの南側上方の尾根にあたる。
ここに入るには、標識よりもすこし(50m程度か?)道なりに行ったところに左手に登りやすいところがある。
平坦地に堀切や、曲輪があったであろう小さい段差がある。ただし、木が生い茂っていて歩き回るには不向き。
山頂の案内板によると、「対面所」「大八木但馬」とある。
2019年05月06日 ユウスケ
八木城
謎の穴は詳しい方に聞くところによると昔マンガンを掘り出した痕跡との事です
2018年12月16日 木下近江守湖一郎
八木城
先人も書かれていますが、本丸へは30分から40分程度の登山となります。足元はしっかりした靴で登られることをおすすめします。
遺構は、本丸に残る土塁、虎口、石垣はもちろん素晴らしいですが、西側の別尾根に築かれた曲輪群(内藤法雲曲輪)も散策されることをオススメします。
段曲輪や土塁、そしてそれぞれの南北の端に築かれた堀切と一部残る石垣はそこが重要な曲輪であったことを感じさせます。堀切と石垣のコラボは絶品です。
城域はとても広く、登城なら下城まで3時間程度でした。
見所満載で、再訪したい城の1つとなりました。
ちなみに南の堀切を越えた平坦地には自然地形と思わしき洞穴があり探検心をくすぐられます。もちろん、中には危なくて入れませんが。
2018年01月08日 iggy摂政
八木城
《遺構》
本丸に縄張図(説明板)があります。
本城の主だった郭には、それぞれの郭を守った重臣の名が付けられているようです。
主要な郭の土塁は残存状態が良く、内藤和泉郭の東側、並河重郎郭の南側にいずれも岩石剥き出しの堀切があります。
内藤和泉郭の南西・八木玄蕃郭のさらに西の内藤法雲郭にも堀切があるようですが、探索していません。
また、本丸南側・内藤土佐郭のさらに南方にかなり長大な竪堀があるようですが、ここも探索していません(崖越え)。
「天守閣の祖形」について
説明板によると、「本丸の南西端に金の間という一段と高い部分が張り出している、これは、天守閣の祖形と考えられる」と説明されています。
「間」は郭であろうと思われますが、同所は一段と高くもなっておらず「天守閣の祖形」がどの場所にあたるのか不明でした。
一段と高い部分であるならば金の間から本丸への虎口南側が該当すると思われましたが…。
「天守閣の祖形」というだけに興味がそそられますので、わかりやすい表示があればありがたいと思いました。
2015年12月17日 カーネル
八木城
山陰本線八木駅より
改札をでたら右へ行き、線路を渡って西へ。まずは交通量がない田舎道を歩いて、春日神社を目指します
神社の北側の道で高速道路を越えると登山道があります。登ると、ポップな「**合目」の標識が楽しいですよ
帰りは、本丸にある縄張り図を頼りに、城山自然歩道で妙見宮方面に降りたのですが、赤テープが頼りで道はほとんどわからず
とは言え、テープを見失っても、二の丸から尾根に沿って降り、鞍部で右(北)へ行くと、しっかりとした道にでれます
自分は2時間ちょいで駅まで戻ってしまいましたが、隅々までみたら、もっとかかると思います
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2015年08月08日 尾張守だもんで
八木城
八木駅から徒歩15分程で春日神社北側の登城口です。
猛暑の中での登山だったからかもしれませんが、もしかすると丹波三大山城のなかで最もハードかもしれません。とくに三合目から八合目までは狭く急なつづら折りが続きます。本丸までの登りに40分はみておくべきでしょう。
黒井や八上に比べるとマイナーな印象ですが、それら同様に本丸からの眺望は素晴らしいです。
2015年06月04日 BESAN
八木城
本丸から見られる雲海が素晴らしいです。
2012年04月25日 加賀美 摂津守遠光
八木城
八木城、城山麓には、内藤氏館跡と言われてる東雲寺が有ります。
2011年03月26日 まったり丹波守屋
八木城
JR八木駅の南西に有る春日神社の西に『内藤ジョアン』の碑があり、京都縦貫道の方に振り返ると登山口になります。
駐車場は有りません。バイクなら停めても大丈夫なスペースは有ります。
因みに春日神社には駐車場があります。
登山口に入ると見応えある屋敷跡が有ります。本丸に案内板が有り縄張り図が載ってます。井戸跡や謎の穴が多数有ります。
八木城の周辺スポット情報
対面所(曲輪)(遺構・復元物)
北の丸(並河重郎)(遺構・復元物)
内藤土佐(曲輪)(遺構・復元物)
烏嶽(曲輪)(遺構・復元物)
二の丸(遺構・復元物)
八木玄蕃(曲輪)(遺構・復元物)
堀切と姫の洞窟(遺構・復元物)
烏嶽北端堀切(遺構・復元物)
烏嶽南端堀切(遺構・復元物)
北屋敷群跡(遺構・復元物)
内藤五郎(曲輪)(遺構・復元物)
旧亀山城新御殿門(現、千代川小学校校門)(遺構・復元物)
内藤如安顕彰碑(碑・説明板)
鶴首山城(周辺城郭)
鶴首山城(出城)(周辺城郭)
千手寺城(周辺城郭)
八木・新庄城(周辺城郭)
龍興寺(寺社・史跡)
千手寺(寺社・史跡)
西山墓地下駐車場(駐車場)
春日神社駐車場(駐車場)
姫の洞窟(その他)
足利義昭将軍お迎え場(その他)
使えない登山路(その他)
登山口(その他)
明智光秀勝どき岩(その他)