園部城(そのべじょう)
園部城の基本情報
通称・別名
- 薗部城、(園部陣屋)
所在地
- 京都府南丹市園部町小桜町97
旧国名
- 丹波国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 小出吉親
築城年
- 元和5年(1619)
主な改修者
- 小出英尚
主な城主
- 小出氏
廃城年
- 明治5年(1872)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀、巽櫓、太鼓櫓、櫓門、番所
指定文化財
- -
再建造物
- 城郭風建築物(南丹市立国際交流会館)、石碑
周辺の城
-
須知城(京都府船井郡)[5.0km]
八木城(京都府南丹市)[6.9km]
神尾山城(京都府亀岡市)[7.3km]
塩貝城(京都府南丹市)[9.3km]
宇津城(京都府京都市)[11.1km]
御影山城(京都府亀岡市)[11.5km]
橋爪城(京都府船井郡)[11.5km]
籾井城(兵庫県丹波篠山市)[11.9km]
余部城(京都府亀岡市)[13.3km]
亀山城(京都府亀岡市)[14.4km]
園部城の解説文
[引用元:Wikipedia「園部城」の項目]
園部城(そのべじょう)・園部陣屋(そのべじんや)は、京都府南丹市園部町小桜町周辺にあった陣屋または日本の城である。園部城が日本の城郭史で最後の建築物となる。建造物群の一部は府の「暫定登録文化財」に登録されている[1]。
概要
小麦山(子向山)標高173.8mの東麓にある台地に築かれ、北側には園部川、西側に半田川を天然の堀として利用し、南側と東側に堀を巡らせ、もっとも外側の低地には2kmに渡り外堀を構えていた。主要部分は京都府立園部高等学校にあった。中世園部城と近世園部城と2つに時代に別けられる。しかし、中世園部城の存在については疑問も呈されている。天守閣はなかったので園部陣屋と呼ばれていたが、小麦山には慶応4年(1868年)建築の三層の小麦山櫓が建っていた。
沿革
中世園部城
従来、近世園部城以前に中世園部城があったといわれてきた[2]。中世園部城は波多野氏の家臣・荒木山城守氏綱の居城とされ、明智光秀の丹波侵攻に伴い落城したといわれる。
実際、『信長公記』には「四月十日、滝川、惟任、惟住両三人丹波へ差遣され、御敵城荒木山城居城取巻き、水の手を止、攻められ、迷惑致し降参申し退散、去て惟任日向守人数入置き」とあり、天正6年(1577年)4月10日に明智光秀・滝川一益・丹羽長秀が荒木山城守の籠る城を落城させたことが記されている。しかしその城が園部であるとは書かれていない。
荒木氏は天文年間(1532 - 1555年)には波多野氏の傘下として、園部にある室町幕府御料所[3]の桐野河内に税を課すなどしているが、荒木氏の城が園部城だという説は『籾井家日記』に基づいており、『籾井家日記』は史料的信憑性に問題のある近世の軍記物とされている。また、中世園部城の所在地を近世園部城跡などに推定する研究もあるが、近世園部城の築城以前に城があったとする史料も見つかっていない。一方、丹波篠山市の細工所城とその周辺のいくつかの城は荒木氏の城として伝わっており、籠城戦にまつわる伝承や歌が残っている。これらのことから、荒木山城守の居城としての中世園部城の存在は否定されている。
近世園部城
元和5年(1619年)、外様大名の小出吉親が但馬国出石城より移封され、船井郡、桑田郡、何鹿郡および上野国甘楽郡[4]の約3万石[5]を領する園部藩が誕生した[6]。小出氏は当初、宍人に居館を構えることを計画する[7]。宍人は北野社領船井荘の代官だった小畠氏が拠点としており、小畠氏は江戸期に入っても宍戸に居住していた。丹波に下向した吉親は、京都所司代の板倉勝重の仲介で会った小畠太郎兵衛の居館にしばらく滞在し、そこでの熟考の結果、宍人は拠点にせず園部の小麦山に築城することを決定する。宍人から園部に拠点を変更した理由について明確な史料はないが、水運と交通の利便を考慮した可能性があると推測される[8]。小麦山麓での「御屋敷」築城に際して園部村周辺の住民は土地交換を行った。一般に近世城下町は大名が主導するとされるが、土豪、農民ら地域住民が協力した点が園部陣屋築造の特徴となる。小出吉親は元和5年(1619年)から7年(1621年)までを宍人で過ごし、園部陣屋と城下町の完成を待って園部に入った。徳川幕府より城と称する事は許されなかったが、小麦山南東の丘陵に方形居館、武家屋敷を構え、周囲には外郭線を築いた本格的な城だった。小出吉親を影で支えていた小畠太郎兵衛は宍人に在住し続けたが、寛永3年(1626年)に250石で召出され園部に移った。
小麦山には生身天満宮があったが、城から見下ろすのは畏れ多いとして、築城から三十数年後の承応2年(1653年)9月4日、東南へ約500m山麓に遷している。生身天満宮は菅原道真が在世中から祀られている全国にただ一つしかない神社として知られている。 藩主の小出氏は外様大名ながら、4代英貞、5代英持と2人の若年寄を輩出している[9]。その後10代藩主・小出英尚の時に明治維新を迎えるまで、250余年にわたり一度も国替えはなかった。
- 10代にわたる歴代城主は、Template:園部藩主も参照。
無城主格の小出氏はその居所も陣屋と呼ばれ、園部陣屋には天守はおろか櫓や櫓門の建築も認められてこなかった[10]。 幕末の動乱の中、京都に近いという園部の地理的状況もあって、元治元年(1864年)12月、園部藩は幕府に新規築城を願い出た。この時の申請の内容は、櫓門3ヵ所や櫓9ヵ所を建て、既にある本丸以外の塀に狭間を設置するというものだった。この時は京都所司代の松平定敬から老中へ回されたものの無城主格として却下。引き続き交渉を行った結果、慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜より内諾を得られた。その直後の大政奉還により沙汰止みとなったが、改めて明治新政府に願い出て認められ、慶応4年(1868年)1月28日、「叡慮」をもって守衛のための築城が認められたと、園部藩から村方に廻状が出されている。この頃より普請が始まり、明治2年(1869年)8月28日、上棟式が挙行された。櫓門が3ヵ所、巽櫓や小麦山の三重櫓などの櫓が5ヵ所建てられ、堀も造成され、園部陣屋は園部城へと生まれ変わった。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県が施行されると園部藩も廃止され園部県となり[11]、園部城にはそのまま園部県庁が置かれた。しかし園部県はすぐに廃止され京都府園部支庁となり、1872年(明治5年)に、現在まで残る建物以外は官有地や民間に払い下げ、政治機能としては役割を終えた。城の中心地は小学校となったが現在は京都府立園部高等学校の敷地となり、隅櫓や櫓門など一部の建物が現存する。巽櫓、校門(櫓門)、茶所(番所)は2017年(平成29年)に府の暫定登録文化財に登録された[12]。
城郭
園部陣屋時代
近世園部城の当初は、徳川幕府に絵図を提出しながら進められていたようで、櫓を築造するようだったが、二重の堀や狭間を設けた塀もあるという事で、櫓の建設は見送られた。徳川幕府の制度上では陣屋という扱いになるが、規模としては惣構えで、南北約650m、東西約450mもあり、城と呼べる規模であった。
園部陣屋にも城下町があり、1619年(元和5年)に陣屋と共に町場が整備されたことから始まる[13]。町場の用地拡大と陣屋の防御的な効果も得るために、現在の国道9号沿いを東流していた園部川を北側に湾曲される工事を行ったとされ、その名残として小出吉親の号にちなんだ「意閑堤」という名称の堤がある。普請した城下町は6町で、陣屋の北側と南側に位置した。北側には「宮町」、「上本町」、「本町下之町(本町)」、「新町」、「裏町(若松町)」があり、南側には「大村町(城南町)」が広がり、当初の町家数は430軒あまりであった。町の両端になる園部大橋詰と新町詰には、それぞれ番小屋を設け城下への出入り口を監視していた。
現在の園部大橋上流部付近の川岸は「運上」と呼ばれ、園部川舟運の積出地と伝えられている[14]。また、札之辻より東の道筋にある本町は、参勤交代の大名や幕府役人等の休泊施設となる本陣、脇本陣が置かれており、城下町の中心地であった。本町の北側には裏町があり、そのさらに北に馬場や倉庫などがあった。城下町にはいくつかの寺院があり、それら寺院は町場に向かう道沿いや枡形の隣にあることなどから、ある程度の防御機能を考えて配置されたものとみられる。
園部城時代
西部の小麦山の山頂には三層の小麦山櫓が建っていた[15]。計画時には櫓門を3ヵ所と本丸の4ヵ所を含む9ヵ所の櫓が建設予定であったが、最終的には櫓門3ヵ所と本丸の巽櫓、太鼓櫓、巣鴨櫓、乾櫓の4ヵ所と小麦山櫓を含む計5ヵ所の櫓が建てられた。現存しているのは、巽櫓、城門の櫓門(高校の校門)、番所、太鼓櫓(八木町の安楽寺に移築)や、石垣の一部や堀も埋め戻され幅も狭くなった部分もあるのがその痕跡をとどめている。外堀は小麦山を囲んで2kmもあった。
園部城の本丸は南北に長く、長方形に多くの屈曲をつけた形状であった。1869年(明治2年)に新築完成した日本の城郭史の中で最後の建築物となる。二重櫓、番所、櫓門は一直線上に並び、付属の土壁とともに現存している。二重櫓は、本丸の南東にあり、南東を表す巽櫓と呼ばれている。本丸には4つの二重櫓が建っていたが巽櫓が最大の櫓で園部城の象徴でもあった。巽櫓以外の櫓や城門は1872年(明治5年)入札によって払下げたのちに、破却もしくは城外に移築されている。
巽櫓1階の内部は半間の幅の武者走りが四周にあり、その内側が1室の部屋となっている。巽櫓のような中規模の櫓で武者走りを持つような例は少なく、立派な造りになっている。巽櫓は、1階の東と南面に大きな出窓を設けている。巽櫓のような中規模の櫓の出窓の間口は一間ほどが普通で、巽櫓の出窓は大き過ぎると言える。櫓の出窓は軍事的に重要な設備で、出窓の側面に狭間を設けて城壁に近づく敵兵に横矢を加えたり、下方の石垣より外に張り出した出窓を石落としとして、櫓の直下に近づいた敵を撃退したりすることができる。しかし巽櫓の出窓は十分に張り出しておらず、単なる飾りにしかならない。また巽櫓は一般の櫓に比べ軒の出が非常に長く、城郭らしくなく社寺建築のように見える。このほか、櫓門も城郭としては変わった特徴を持つ。まず第一に、2階の梁が頭をぶつけるほど低く、鉄砲や弓を自由に扱えず、格子の下の壁も低すぎて敵からの銃弾も防げない。第二に、正方形の大型の狭間のような窓が正面の格子窓の両脇や側面、背面に設けられており、これらは窓としては小さくて格子もなく、鉄砲狭間としては大きすぎ、大砲を撃つ特別な狭間のようにも見える。第三に、2階の柱の立て方が櫓門らしくなく、一般的な櫓門に比べて整った外観になっている。このように園部城の巽櫓や櫓門は城郭としては変わった特徴が数多く見られ、社寺建築のような趣がある。この建築に携わった大工やそれを指導した園部藩が城郭に十分な心得がなかったものとも考えられる。
小麦山
古絵図
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- JR西日本 山陰本線 園部駅
- 徒歩 約20分
- 車でのアクセス
- 京都縦貫自動車道 園部IC → 京都府道19号 → 国道9号
- 園部総合公園の無料駐車場有り
参考文献
- 【書籍】「復元大系 日本の城 5 近畿」
- 【書籍】「日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井」
- 【書籍】「園部藩のあゆみ」
- 【書籍】「城郭みどころ事典 西国編」
- 【書籍】「園部町史通史編 図説・園部の歴史」
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園部城の口コミ情報
2023年05月28日 RED副将軍三遠オフ初参戦
天神山城[園部城 周辺城郭]
段郭が美しい超マイナー城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1495年に足立信光により築城。
足立氏は、土岐源氏の系譜である足立忠満が1467年にこの地に移り住み土着したのが始まりとされ、その子である足立信光が 築いた居城が天神山城と云われます。
城史はほとんど分かっておらず、明智光秀による丹波攻めの際にはこの城も落とされたのでしょうか。それならば土岐氏の同族争いとなります。
見所
最高所に主郭を置き、東に三段の段郭が連なり、北側下に広めの削平地が広がる小規模な城郭です。
段郭はしっかりと高低差のある切岸加工ががなされており、中腹に天神山城山天神が祀られています。
主郭の東側と北側に虎口が開口し、北側下には土塁と空堀が認められます。
京都で「天神さん」と言えば菅原道真公のことであり、調べてみるとやはり御祭神は菅原道真公でした。
行き方は、摩気神社を目標に設定。駐車場をお借りして北側の府道54号を挟んだ先の丘陵が城域です。参道があるので簡単に登ることができます。
2023年05月05日 RED副将軍三遠オフ初参戦
乙溝畑遺跡[園部城 周辺城郭]
城跡であるかも不明のナゾの大規模な削平地
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。
城であるかどうかもはっきりしていませんが、京都府中世城館跡調査報告書には記載があります。
乙溝畑集落の西側背後の山陵麓に築かれており、標高305mの山陵頂部には仁江城が所在しているため両方で一体の城館と考えられています。
仁江城を含めて記録や伝承はございません。
見所
山陵麓を階段状に削平地が連なり、南北に約70mある広大な削平地が主郭とされます。
主郭背後は長大な土壇となり櫓台の様になっており、その手前は池というより沼地があります。
主郭中央部にはナゾの排水路の様な堀があり後世のものか判然としませんが沼地の排水施設に見えます。
直感的に寺社跡の様に感じましたが、寺社であれば横のつながりもあるので記録や伝承があるはずです。
仁江城の館跡かもしれませんが後世の改変の様にも見えます。スーパーマニア向けです。
2023年03月14日 RED副将軍三遠オフ初参戦
越方城[園部城 周辺城郭]
薄めの二重堀切、土塁が残る超マイナー城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
越方城(おちかたじょう)と読みます。
築城年代等の城史は詳細不明です。
近隣の蜷川氏が城主であった蟠根寺城の支城かと思われます。
見所
越方集落の東側の張り出した尾根の先端部に築かれていますが、鉄塔が建って削られています。
主郭は東に土塁と土橋の架かる二重堀切で尾根を遮断し、主郭の西西下と南西下に腰曲輪が配されています。
土塁、堀切は風化が進み薄めで主郭部もヤブ化しており映えません。
マニア向けの超マイナー城です。
行き方は、城域南東部に登城口があり獣害柵の扉を開けてひたすらに鉄塔を目指して尾根を登ると辿り着きます。
駐車場は無いので邪魔にならない路肩に駐車しました。
2023年02月17日 RED副将軍三遠オフ初参戦
宍人城[園部城 周辺城郭]
小畠氏の居館である宍人館も宍人城と呼ばれていますが今回は小畠氏の詰城である宍人城の投稿です。
丹波の有力国人である小畠氏の詰城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。小畠氏によって築かれた初期の詰城と云われています。後に麓に宍人館を築いて居館としたとされます。
小畠氏は、出羽清原氏の系譜で、北野天満宮の船井荘の荘官に任じられ土着。丹波国守護細川氏、三好長慶に従いながら丹波の有力国人として勢力を拡大しました。 1571年の織田信長による丹波攻めの際は、小畠永明はいち早く織田信長に臣従。明智光秀に案内役を務め、丹波制圧に協力をしたことで所領を安堵しています。
廃城時期も不明ですが、1619年に小出吉親が園部城を築く頃には廃城となっていました。
見所
宍人館の南西に聳える標高335mの山頂に築かれています。
東西に伸びた尾根上にあり、南側と西側は岩が露出した険峻な地形で北側は緩斜面であり帯郭が付されています。
主郭西側は土塁が盛られ薄くなっていますが竪堀も認められます。東側は段曲輪が三段連なり巨岩が露出しています。
凝った縄張りではなく自然地形を活用した感じです。
行き方は、県道454号線から林道に入ります。金胎寺山に続く登山道の途中から適当に尾根に取り付き直登しました。比高は175mで麓から30分くらいでしょうか。
駐車場は無いので自己責任で邪魔にならない所に駐車するしかないと思います。
写真
①主郭西側下の険峻な岩壁
②主郭南側の岩壁
③主郭西側の両サイドに竪堀を削った土橋地形
④⑤主郭西の土塁
⑥主郭北側の帯郭
⑦岩が露出した主郭内部
⑧主郭東側下の段郭
2022年08月27日 RED副将軍三遠オフ初参戦
宍人館[園部城 周辺城郭]
中世の小畠氏の館跡と、江戸期の小出氏の館跡が良好に残っています。
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。
丹波の国人領主である小畠氏によって築かれた代々の居城と云われます。
小畠氏は、出羽清原氏の系譜で、北野天満宮の船井荘の荘官に任じられ土着。丹波国守護細川氏、三好長慶に従いながら丹波の有力国人として勢力を拡大しました。
1571年の織田信長による丹波攻めの際は、小畠永明はいち早く織田信長に臣従。明智光秀に案内役を務め、丹波制圧に協力をしたことで所領を安堵しています。
1619年、小出吉親が丹波園部藩を立藩し、園部城を築城します。園部城が完成するまで小出吉親は宍人城に居住しています。園部城が完成すると小畠氏は小出氏に出仕し、園部城下に移ったため、宍人館は破却された様です。
見所
本梅川の河岸段丘先端に築かれており、南北に郭群が分かれています。
北側が江戸期の小出氏館跡で、南側が中世の小畠氏館跡の様です。
やはり、見応えがあるのは南側の小畠氏館跡で主郭、北出丸、西郭で構成され、主郭の北側は大堀切で遮断。それぞれの郭は横堀と土塁で隔てられています。堀と土塁の残存度も去ることながら、特に主郭西側は虎口が開口し横矢掛かりが至る所に効いている技巧的な縄張りは織豊系を感じました。
行き方は、城域の東麓にある宍人公民館を目指して下さい。案内板が建ち、数分で辿り着くことができます。
車は近くの邪魔にならない路側帯に駐車しました。
2020年06月16日 大隅守上
黒田城[園部城 周辺城郭]
畝堀が見事にあります。
2019年06月07日 ソバッソ80.0
園部城
山陰道を抑える須知氏の居館、上野城の詰め城の竪堀。登って10分、コスパ最高。
2019年05月06日 OROKA参議
園部城
周辺の城情報:上野山城
意外と面白い縄張りの上野山城、気軽に登れてオススメです。
京都縦貫自動車道の丹波インターを降り北上します。道の駅「丹波マーケス」のある交差点で右折して県道80号へ。少し行くと右側の高台に大圓寺というお寺があるのでそこを目指します。車道で上がると大圓寺の墓地があり、ここに駐車させてもらいました。
駐車場に美女山への登山道入り口がありますが、こちらには行かず墓地の方へ。墓地を抜けた先の防獣フェンスを越えると上野山城への登城道があります。
道を5分程登ると、堀切に出ます。位置的には三の丸のような感じですかね。郭の反対側には両サイドに土塁を構えたような立派な道があり、大手道のような雰囲気です。郭はこの大手道に横矢をかけるような位置にあり、なかなか興味深い…
確認しませんでしたが、この道は麓の上野城(大圓寺よりさらに県道を進んだところにある)と繋がっていて、館と詰城のような関係なのかと想像をさせられます。
また、本郭には堀切と立派で明瞭な土橋がありかなり見応えがあります。
戦略的な縄張りを妄想しながら観るには、手頃でオススメの城です。
2019年05月06日 OROKA参議
園部城
周辺の城情報:須知城
ぜひ本丸の石垣と眺望の素晴らしい須知城へ!
京都縦貫自動車道の丹波インターを降り、観光案内などにしたがって玉雲寺、琴滝方面へ。登り口はいくつかあるようですが、せっかくなので琴滝に癒されるルートを案内します。車は玉雲寺を通りすぎ琴滝に近い駐車場があるのでそこに停めました。
琴滝の左手に谷筋があり「←須知城」の看板があります。最初は道らしくなってますが、どんどん倒木や砂礫だらけの酷い道になります。ほぼ道なき谷道を進み尾根まで出ると「←須知城」の看板があります。また道なき尾根道をしばらく進むと、唐突に土塁つきの郭に出ます。琴滝からここまで30分ほど。
ここからはパラダイス、段郭や残存石垣、堀切を観察しながらも素敵な眺望が楽しめます。何より本丸の石垣(明智光秀の築城か)は美しく、苦労して登る価値あるものです。
2018年02月12日 織田上総介晃司
園部城
園部城(園部高校)隣の園部公園に広い駐車場がありますので高校の駐車場には停めずにそちらへ。トイレもあります。
現存する巽櫓と櫓門は園部高校の正門として利用され、外からは自由に見学、撮影できますが、別アングルを撮ろうと敷地内に入りたい時は学校関係者の許可を頂くのが筋だと思います。
通学、下校時の撮影には気をつけてください。変質者として通報される可能性があります(笑)
園部城の周辺スポット情報
本丸巽櫓(遺構・復元物)
櫓門(遺構・復元物)
番所(遺構・復元物)
本丸(遺構・復元物)
移築太鼓櫓(遺構・復元物)
小麦山櫓跡(遺構・復元物)
石碑(碑・説明板)
黒田城(周辺城郭)
亀田城(周辺城郭)
片野城(周辺城郭)
世木林城(周辺城郭)
宍人館(周辺城郭)
宍人館(周辺城郭)
半田城(周辺城郭)
大村城(周辺城郭)
宍人城(周辺城郭)
天神山城(周辺城郭)
大戸城(周辺城郭)
越方城(周辺城郭)
乙溝畑遺跡(周辺城郭)
安楽寺(寺社・史跡)
園部藩主小出家墓所(寺社・史跡)
駐車場(駐車場)
園部総合公園(関連施設)
南丹市園部公園(関連施設)
園部城天守閣(関連施設)