宇津城(うつじょう)
宇津城の基本情報
通称・別名
- 宇都城
所在地
- 京都府京都市右京区京北下宇津町
旧国名
- 丹波国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宇都頼高
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 宇都氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
周山城(京都府京都市)[4.0km]
上中城(京都府京都市)[7.7km]
御影山城(京都府亀岡市)[9.8km]
塩貝城(京都府南丹市)[10.6km]
八木城(京都府南丹市)[10.9km]
園部城(京都府南丹市)[11.1km]
須知城(京都府船井郡)[12.8km]
高雄城(京都府京都市)[12.9km]
余部城(京都府亀岡市)[14.4km]
堂ノ庭城(京都府京都市)[14.9km]
宇津城の解説文
[引用元:Wikipedia「宇津城」の項目]
宇津城(うつじょう)は、京都府京都市右京区京北下宇津町(旧・丹波国桑田郡宇津荘)にあった中世の日本の城。
概要
宇津城は、宇津荘を支配した国人・宇津氏の居城。
下宇津集落の八幡神社背後の山にある城で、標高356m、比高150mの場所に位置する。下宇津集落を挟み、南を流れる桂川に面しているが、日吉ダム対策のための護岸整備に伴って、川沿いの地形は変化している。
築城年代については、大永6年(1526年)に細川高国に味方したとされる宇津頼高の代との推測がある(なお、一次史料で確認できる当時の宇津氏当主の名は、頼高でなく元朝)。
沿革
宇津氏は文明年間(1469–1487年)から史料上に姿が見える。
永正8年(1511年)に宇津元朝が細川高国方として出陣するなど、宇津氏は丹波守護である細川高国の被官として活動していた。高国敗死後、宇津氏は細川晴元に従ったが、天文11年(1542年)4月、波多野秀忠と晴元の重臣・三好政長により宇津城が攻められた(『親俊日記』)[1]。
晴元が三好長慶と対立した際は、宇津氏は晴元方に付いている。天文18年(1549年)の江口の戦いで京を追われた晴元は、天文21年(1551年)9月末頃、宇津に入り、この地を本拠とした。同年11月、晴元は波多野秀親に対し、「宇津要害」への入城を求めている。
元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭と織田信長が対立する最中、宇津長成が御供衆に任じられ、いざという時の義昭の動座先に宇津が位置づけられている。
天正3年(1575年)、宇津氏や内藤氏、赤井氏の討伐のため、信長が明智光秀を丹波に派遣。天正7年(1579年)7月、宇津城は光秀に攻められ落城した。
その後、宇津城は光秀により一部改修されたが、天正9年(1581年)には周山城の築城が完了しており、これにより宇津城の役割は終わったとされる。
遺構
南北30m、東西30mほどの曲輪I(本丸)、その北に南北25m、東西10mほどの曲輪II、さらにその北に南北40m、東西13mほどの曲輪IIIがある。また、曲輪Iの南には腰曲輪IVがあり、山麓から伸びる道がここにつながる。
腰曲輪や、腰曲輪から曲輪Iに入る虎口周辺には石積みがあるが、これらが明智光秀による改修跡とみられる。
アクセス
自動車
- 国道162号を京都市内から北に約40分、周山から宇津方面に向かう[2]。
バス
参考文献
- 【書籍】「丹波宇津氏の動向と城郭遺構―城郭から考察する宇津氏―」
- 【書籍】「明智光秀の城郭と合戦」
- 【書籍】「畿内・近国の戦国合戦」
- 【書籍】「明智光秀」
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宇津城の口コミ情報
2020年11月15日 あきおこ
宇津城
周山城登城後、近くにあったので登ってみました。
先人様の口コミ通り神社の竪堀横から直登しましたが、土がパサパサでかなり滑ります。
斜面を登り切ると、でーんと切岸が立ちはだかります。連郭式のコンパクトな城ですが、三方は急峻な山肌で守られ北側に痩せ尾根が続く要害に適した地形です。東に石垣が残りますが斜面は急で落ちたら討死必至です。見にいく時は心の準備を。
鉄塔の手前右手に鉄塔管理用のプラ階段を見つけましたが途中で崩落してました。例の林道に続いてるかもしれませんが、危険なので行かない方がいいと思います。
[登城日2020年11月14日]
2020年09月04日 うのジイジ
宇津城
神社裏の大手道とされている側から直登。竪堀もどきに沿って登って行きますが、縄張りには記載されていません。
搦手側とされている経路(鉄塔側)は城側から林道へ出る手前で崩落しておりかなり危険です。あきらめて大手側からの急勾配を降りることとなりました。
2020年03月29日 ソバッソ80.0
宇津城
宇津コミュニティーセンターを目標に設定 すぐ東の八幡神社の裏山が城跡です。道は神社から直登です。
某サイトには、さらに東のバス停北側から延びる林道を進み、城跡北側尾根を進んだ高圧電線の鉄塔付近に取り付ける、と書いてありますが、R2.3月地点では確認出来ませんでした。(城跡北側から下山ルートとして、上記を捜索しましたが見つけられませんでした。正確な最新情報をお持ちの方がおられましたら、ぜひ口コミを更新して下さい。)
神社裏には、間に竪堀様の筋が入った尾根がかなかの角度で延びています。
その竪堀様の窪みに沿って登るのですが、窪みを挟んで東側の方が辛うじて登りやすいです。ただどっちも獣道程度で、崩れやすくて厳しいですので、それ相応の装備で臨んで下さい。
その東側尾根を20分くらい直登すると、出郭と思しき高台が出現します。そこでダニチェックして、更に北側へ尾根を直登する事5分、ようやくⅡ郭に到達します。ここまで来れたら後はもう明確遺構の出現です。
Ⅱ郭中央部に石垣で構成された食い違い虎口があり、抜ければ主郭です。主郭東部には立派な石垣遺構が残ります。主郭からⅢ→Ⅳと進み、城域の北端にエゲツない大堀切が出てきて進路を断ち切ります。ホントにエゲツないです。降りるのがコワイし足場は滑るし、谷底に落ちひんかドキドキして降りました。
ただ見上げると圧巻。カメラに入り切らんレベルの大堀切と、堀底は細く削られた印象で土橋チックになっておりました。痩せ尾根になっていくので、元々の地形なのかも知れませんが、土橋と思っておいた方がコーフンします。
城跡はここまで
下山するために、先に挙げた城跡北側から林道に出るコースを捜索しましたが発見出来ず。高圧電線の鉄塔を何個か通り過ぎ、北へ30分歩いたが降りられそうな場所を見つけられなかったので、更に30分かけて城跡に戻り、大堀切を半泣きになりながらよじ登り、出郭方面から神社へ滑り落ちて無事下山しました。降りられそうな所が道です。
3月でダニ6匹 京北町はジビエもいるのでドキドキ
周山とセットで行くのであれば、先に宇津城跡に登った方がいいです。周山が素晴らし過ぎるので、多分お腹いっぱいで入りませんよ。明智臭プンプン。