丸山城(まるやまじょう)
丸山城の基本情報
通称・別名
- 地黄古城、天王丸、城山城、能勢城
所在地
- 大阪府豊能郡能勢町地黄
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- 不明
築城主
- 能勢頼国
築城年
- 長元年間(1028〜1038)
主な改修者
- 不明
主な城主
- 能勢氏
廃城年
- 慶長7年(1602)
遺構
- 曲輪、帯曲輪、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
地黄城(大阪府豊能郡)[0.4km]
野間城(大阪府豊能郡)[2.3km]
笑路城(京都府亀岡市)[5.7km]
山下城(兵庫県川西市)[7.9km]
高山城(大阪府豊能郡)[7.9km]
神尾山城(京都府亀岡市)[8.9km]
新田城(兵庫県川西市)[11.4km]
田能城(大阪府高槻市)[11.5km]
余部城(京都府亀岡市)[12.2km]
三蔵城(兵庫県宝塚市)[12.2km]
丸山城の解説文
[引用元:Wikipedia「丸山城」の項目]
丸山城(まるやまじょう)は、大阪府豊能郡能勢町地黄にあった日本の城(平山城)。
概要
摂津国能勢郡の丸山城は、地黄の北西に突き出した尾根先端の標高278m、比高約40mの丸山という残丘上に位置する。
ここは、摂津から丹波国へと通じる街道に面した交通の要衝で耕作地も広く、長元年間(1028年-1036年)にこの地に入部した豪族能勢氏の本拠地となった。能勢氏は、近在で産出した銀や銅の流通を把握して勢力を拡大し、周辺武士団の惣領として武威を振るったという。
丸山にはすでに平安時代末には城館が営まれたとみられ、大手登り口付近には多くの平坦地を確認している。能勢氏はその平坦地に居館をおいたと考えられる。
なお、鎌倉時代の石造九重層塔や南北朝時代の石造宝篋印塔が現在も残っている。
沿革
摂津源氏の源頼国は、長元年間、この地に入部して苗字として能勢氏を名乗り、丸山城を築いたと云われている。その後、中世を通じて能勢氏の本拠となったが、その詳細はよくわかっていない部分が多い。
=== 能勢頼道と丸山城 ===1578年(天正6年)、それまで織田信長に出仕していた有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重は突然信長に反旗を翻し、有岡城の戦いが起こった。このとき、丸山城の21代城主であった能勢頼道は、高槻城(高槻市)の城主高山右近、茨木城(茨木市)の城主中川清秀と同調し、荒木村重に従った。しかし、その後高山右近、中川清秀はともに信長方の説得に応じて開城している。翌天正7年(1579年)4月、有岡城の攻城中に織田信忠、津田信澄を両大将に、筒井順慶、丹羽長秀、蜂屋頼隆、原胤広、金森長近、中川清秀ら1万5,000の兵が能勢に出軍してきた。このとき、能勢郡の西郷の諸城は次々に落城し、織田信長の支配下へ入っていったが、東郷の丸山城については不明である。「能勢頼道はあくまでも反信長の態度を維持することができたのか、その動きを知りうる史料はない」として、この間の能勢頼道の動きを不明とされている[1]。
1579年(天正7年)、第二次黒井城の戦いで丹波国を平定した信長は、中国攻めのための補給線上にあるとして丸山城を重要視し、山下城(兵庫県川西市)の城主で信長方の塩川国満を通じて織田氏に帰属するように勧めたが、頼道はこれに応じなかった。翌天正8年(1580年)9月17日、国満は頼道を山下城に招きいれ、殺害してしまった。
能勢頼長・頼次と丸山城
能勢頼道の弟能勢頼次は、頼道が謀殺されたとき19歳であったが、塩川氏打倒の兵を挙げ、大槌峠で戦闘となり塩川国満軍を破った。しかし、天正8年9月19日、明智光秀軍に属していた河原宣勝隊が大軍を率いて丸山城周辺に迫ってきた。これに危機感を覚えた能勢頼次は、翌1581年(天正9年)丸山城を捨てて能勢妙見堂に為楽山城を築き、織田信長軍の備えとした。しかしその後、明智光秀の交渉に応じて連携し、兄である能勢頼長に兵500をつけその幕下となった。翌1582年(天正10年)、本能寺の変の際、明智光秀に味方したため、羽柴秀吉軍に攻められ再び丸山城は落城した。為楽山城にいた能勢頼次は城を退去し落ち延びることとなった。
能勢頼長はその後「三宅助十郎」という変名を名乗り、諸国を回ったと伝わっている。桑田郡の長沢氏に身をよせたり、郡山城 (大和国)の豊臣秀長に仕えたり、備前国の妙勝寺に滞留したとの言い伝えがのこるが、『能勢町史』では「諸説さまざまあるが、いずれにしてもたしかな証拠はない」としている。また、天正14年(1586年)10月に九州征伐に出向いていた能勢頼次が留守の時に、積年の争いを解決すべく塩川国満が丸山城、田尻城を落城させたが、これに激怒した豊臣秀吉は、片桐且元、池田輝政、堀尾吉晴らの討伐軍を繰り出して山下城に迫り、塩川国満は戦闘となる前に切腹して死亡した[2]。
なお、『川西市史』では頼長の諸国放浪説とは別説を紹介しており、このころの頼長の詳しい行動については不明な点が多い。
能勢氏再興と丸山廃城
慶長4年(1599年)正月、能勢頼次は京都の東寺に滞在していた徳川家康に拝謁し、御小姓として召し抱えられた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍の旗本として奮戦したために、徳川家康より能勢の旧領を与えられ、能勢氏を再興したが1602年(慶長7年)に地黄陣屋を築いたため、丸山城は廃城となった。
城郭
城跡は、南北155m、東西30mの規模を有し、南北一列に曲輪が並んでいる。
「本丸」部分は、南北41m、東西22mで南北にやや長く、北東隅が張り出している。
『日本城郭大系』によれば、本丸北東隅は「一段高く、隅櫓の存在が想定され、北西部も張り出している」としており、1箇所もしくは2箇所、隅櫓のような建造物があった可能性を示唆している。本丸の周囲には幅3mないし4mの「二の丸」と呼ばれる帯曲輪があり、本丸との比高は約4mである。また、本丸からみて北側には南北27m、東西12.6mの「三の丸」曲輪がある。「三の丸」北に一段落ちて空堀があり、その北に二段の曲輪が設けられ、さらに、その北には深い堀切を築いて、尾根伝いに攻めようとする敵の侵入を防いだ。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 妙見口駅(能勢電鉄妙見線) → 阪急バス妙見口能勢線「奥の院」バス停下車 → 徒歩約10分
- 車でのアクセス
- 阪神高速道路 11号池田線 池田木部第二出入口 → 国道173号 → 国道477号
- 周辺に駐車場無し
参考文献
- 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、50-52頁。
- 能勢町史編纂委員会『能勢町史』第1巻、能勢町、2001年5月、503-508頁、524-527頁。
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丸山城の口コミ情報
2023年11月16日 RED副将軍
山辺城[丸山城 周辺城郭]
石積み、切岸が見事な大町氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
諸説ありますが、歴史は古く寛弘年間(1004年〜1012年)に大町氏により築かれたと云われます。
大町氏は、清和源氏である多田満仲を祖とする多田氏の家臣であったとされます。
1191年に源国基が能勢に入って能勢氏を称すると、その後は能勢氏配下の多田家御家人西郷衆に属しまし、山辺城は能勢氏の詰め城として機能したとも云われます。
天文年間(1532年〜1555年)には大町宗長の名が城主として伝わります。
1579年には大町宗清が城主であり、能勢氏や西郷衆は織田信長を離反した荒木村重に同調したため、織田信長家臣の塩川国満を大将として丹羽長秀、中川清秀、筒井順慶等の大軍が能勢に侵攻。
山辺城は津田信澄により攻められて落城したとされます。
見所
標高428mの能勢富士と称される城山に築かれており、古来から能勢街道・丹州街道を押さえる交通の要衝でした。
城域は大きく西尾根の主郭部と東尾根の東出郭群に別れています。
南側の谷筋を直登するとハイキング道に辿り着き、東へ進むと東出郭群があります。出郭は周囲を土塁と空堀が巡り、東西に開口する虎口も明瞭に残っています。
西側へ進むと主郭部であり南北の尾根に南から三の丸、中の丸、二の丸、主郭と連なり、切岸が見事です。
広大な三の丸には巨石が目立ち南西部に石積みがある虎口が開口。
主郭と二の丸は堀切で隔てられ、周辺に石積みが残ります。特に二の丸西側下の石積みが良好に残っていますが、石積みの上に乗って下に降りようとした人により一部崩落していました。石積みは崩れやすいので上に乗るのは厳禁です。
行き方は、県道54号から城域南東部の比高50mくらいまで住宅(別荘地?)開発がされており、車で登ることができます。但し、舗装はされているもののかなり急坂であるため積雪期はやめておいた方が良いと思います。
行き止まり周辺に駐車し、15分くらい直登すれば辿り着きます。
以前はハイキングコースが付いていましたが、大雨で流されてしまいそのままになっていると地元の方に教えてもらいました。
2023年04月30日 RED副将軍
今西城[丸山城 周辺城郭]
単郭ながらも三方の尾根を遮断する堀切が美しい直登系山城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不明。城主は森本清左衛門景久の名が伝わります。東の尾根続きに森上城があり、その出城とも云われています。ということは森本清左衛門は森上氏の家臣であったと思われます。
見所
直径20mくらいの単郭のコンパクトな山城です。北西、南、東の三方の尾根を堀切で遮断しており、切岸の鋭さもなかなかのものです。主郭は北側に虎口が開口し、北西側に土塁が認められます。
行き方は、岐尼神社を目標に設定。背後の山陵が今西城と森上城です。しっかりとした登城路はありません。旧岐尼小学校の背後に細い林道があり城域南西部から適当に斜面に取り付き直登しました。15分くらいで辿り着きますが、結構な斜度なのでしっかりとした靴は必須です。
今西城の後は、そのまま東の尾根続きにある森上城に行き、そのまま南の尾根筋から少林禅寺の裏手に降りて来るのが効率的と思います。
2022年07月19日 尼崎城駿河守一口城主
丸山城
[能勢家菩提寺編]6月19日、丸山城下城後にすぐ近くにある能勢家の菩提寺の清普寺(せいふじ)を訪れました。立派なお堂があり、能勢家歴代のお墓も大きな墓石がずらりと並び壮観でした。能勢家中興の祖の頼次公のお墓参りをして、お寺の境内や山門から丸山城を撮ってみました。
2022年07月19日 尼崎城駿河守一口城主
丸山城
[お城編]6月19日、地黄城下城後に登城。<丸山城跡>の看板や丸山城跡要図を見た後、私は看板に向かって右(北側)に向かって進みましたが左(南側)から進まれる方がお勧めです。
丸山城跡は縄張りの名称が要所要所に表記されているのでありがたかったです。保存会の方々に感謝です。本丸に到着後、先に訪れた地黄城方面を眺めてみました。※本丸に辿り着いた際、何かの気配がしたので音がした方向を見ると鹿🦌がいました。幸い走り去っていってくれました。体当たりされなくて良かったです🍵下城後にふもとの能勢家の菩提寺の清普寺を訪れお墓参りをしてきました。
2022年06月18日 真田和泉守幸晴
丸山城
6月にリア攻めするために、行ったのですが説明板横の登山道の階段は確認できますが、簡単には登れないようになっています。草木が邪魔になったり、階段が急すぎてかなり大変です。
大手門側の登山道の、場所はわかったのですが、私有地らしき場所を通らなくてはならず、道らしき所は、狭く、草が生い茂り進みにくくなっています。
虫も多かったのでリア攻めは断念しました。↓登らず観れる遺構等です。
1.国道477号から観れる堀切もしくは堀
2.北側の道 堀切らしきもの。
整備されること願っています。
2022年02月24日 583系備前守きたぐに
丸山城
能勢電鉄妙見口駅から野間城、地黄城、丸山城と大阪府豊能郡能勢町内の3城リア攻めハイクの3城目です。これら3城の最寄りバス停までのバスは2022年2月23日現在、平日のみの運行となっています。
当地はオオクワガタの産地として有名なところで、ちらほらと台場くぬぎを見ながら里山の風景のなかを歩くのは気持ちよかったです。
地黄城から登城口まですぐ。登城口からは登山道となり、最初だけ急坂ですが、すぐに緩やかになり、10分ほどで本丸です。本丸からはあまり眺望がきかないので、城からの風景を撮影するなら、登山途中で撮影する方がよいでしょう。丸山城本丸から妙見口駅まで1時間20分ほどで戻り、駅前で猪鍋味噌煮込みうどんを食べて帰りました。
なお、付近に公衆トイレはありません。また、食糧の調達は妙見口駅前でしないとその先にはありません。
2022年01月27日 RED副将軍
丸山城
北摂の有力土豪であった能勢氏の本拠地
オススメ度 ★★★★⭐︎
長元年間(1028年〜1037年)に清和源氏の系譜の能勢頼国により築城。この地は古来より摂津と丹波を結ぶ交通の要衝でした。
以降、能勢氏の本拠地とし、室町時代には幕府御家人として北摂屈指の勢力を誇りました。
戦国時代は、将軍足利義輝に仕えたのち、織田信長に属しましたが、1578年に荒木村重が織田信長に謀反を起こすと、当主の能勢頼道は態度が曖昧であったため、1580年に織田家臣の塩川長満に謀殺。
跡を継いだ能勢頼次は、1582年の本能寺の変に際して明智光秀に加担したため、豊臣秀吉家臣の河原宣勝に攻められ落城。
能勢氏は一時没落しましたが、関ヶ原の戦いでは東軍に付き、戦功により旧領復帰。
1602年に地黄城を築き移ったため、廃城になりました。
見所
主郭と天王丸を隔てる大堀切。両サイドは竪堀となり落ちます。
主郭西側には二条の竪堀が麓まで落ちます。
縄張り図にはありませんが、天王丸北側にも郭が存在。石積みが残る横堀で遮断し、端部は竪堀となっています。
2018年04月02日 ℵ新居泰之進ℵ
丸山城
〜〜銀・銅の掌握により勢力を拡大した能勢氏居城〜〜
《PART1》
【感想】
昔と違ってかなり整備も進んでおり、登城にそれほどの苦労は無かった。
遺構もよく残っており、見応えはある。
【駐車場】
城の東側に城の説明板があり(国道477号線沿い)、そこに駐車スペースがある。
その説明板のすぐ近くに登城口があり、ここから登れば城の南側の三の丸に出る。
【見所】
本丸を中心にその周りを二の丸である帯曲輪が巡っている。くっきりと残っている遺構なので、確認しやすい。
★見所①:本丸周りの帯曲輪
2018年04月02日 ℵ新居泰之進ℵ
丸山城
《PART2》
二の丸北側には二段の曲輪があり、この小曲輪と二の丸との間の堀切もしっかりと残っているので見応えがある。
★見所②:二の丸北側の堀切
二段の曲輪の北側は大堀切となっており、堀底を道路が走る。
道路として使用されていなければかなり迫力のある堀切だったろう。
★見所③:北側の大堀切
城の西側の中腹には、これも確認しやすい竪堀が残っている。
★見所④:西側の竪堀
西側に登城道があり、これの麓には鎌倉時代中期の弘安年間の石造九重塔が残っている。
★見所⑤:鎌倉時代の石造九重塔
2016年09月22日 カーネル
丸山城
圓珠寺から、東の大通りを20分ちょい北上すると地黄城です。ここから真西に向かうとすぐに国道477にぶつかりますが、右を見るとこんもりした山の中腹に丸山城の文字があります
山の東に案内板があり、そこから少し北に登山口があります。・・・ですが道は草で覆われ、トゲトゲの木がいっぱいあってテンション↓
ほどなくして、二ノ丸到着し、ここは本丸直下の帯曲輪にもなってます。この規模は凄いです。テンション↑でした
奥には狼煙台で、本丸との間には土塁と堀があります。主郭は荒れてました
二ノ丸に戻ると、反対側に降りれる道があるので、そちらから下山しました。こちらは、道が広く快適でした
下った先は、城の南西にある石造九重塔でした。場所はわかりにくいですけど、こちらからの登城をオススメします
妙見口駅-野間城-地黄城-丸山城-妙見口駅で4時間半でした
前の方も書かれてる通り、阪急バスを利用するのがいいと思います
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2016年04月26日 邦順大和守大八郎宗久
丸山城
全体の7割ほど探検してみました。草木の刈り取りが足りない所もありますが、些細な事でしょう。
現地の城跡要図では本丸南の段状に連なる郭が二ノ丸・三ノ丸で、本丸北側は見張櫓(城郭大系では、ここが三の丸)とされています。
土塁はあまり無かったのですが、見張櫓(狼煙台跡)の郭と本丸の間に虎口のある土塁がありました。後述する堀切を上手く抜けた敵勢を抑える為と思います。
見張櫓と北側の天王丸なる郭の間に広い堀切があり、箱堀状の底に更に竪堀を設けてある、私見ですが城跡一の見所と思います。西側が傾斜緩めなので、敵勢を誘い込み、上段にある郭から挟み撃ち…などと考えました。
妙見口駅から歩きましたが、遠いし途中歩道が無いのでバスか自動車・二輪車で行くと良いでしょう。登城した城跡東側は地道ですが、車1台停めても邪魔にならないスペースがあったと思います(城跡北に駐車場ありますが、お店のだったはず)。ただ急傾斜を行くので高所恐怖症な方には少し辛いでしょう…
しっかり遺構が残った土の城です。行っても損はないと思いますよ。