小浜城(こはまじょう)
小浜城の基本情報
通称・別名
- 小浜寺内
所在地
- 兵庫県宝塚市小浜4(亳摂寺)
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 一向一揆勢
築城年
- 永禄年間(1558〜1570)
主な改修者
- -
主な城主
- 一向一揆勢、池田恒興、豊臣秀次
廃城年
- -
遺構
- 土塁、横堀(水堀)、門跡
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
有岡城(兵庫県伊丹市)[5.9km]
池田城(大阪府池田市)[6.2km]
富松城(兵庫県尼崎市)[6.4km]
瓦林城(兵庫県西宮市)[6.4km]
越水城(兵庫県西宮市)[7.2km]
新田城(兵庫県川西市)[7.8km]
麻田陣屋(大阪府豊中市)[7.8km]
塚口城(兵庫県尼崎市)[7.8km]
七松城(兵庫県尼崎市)[8.8km]
鷹尾城(兵庫県芦屋市)[9.6km]
小浜城の解説文
[引用元:Wikipedia「小浜城」の項目]
小浜宿(こはまじゅく)は、有馬街道の宿場の一つ。江戸時代の摂津国川辺郡小浜町、現在の兵庫県宝塚市小浜にあった。京伏見街道、西宮街道も通り、交通の要衝であった。
沿革
小浜は伊丹台地の西端に位置し、平安時代に周辺が陸化するまで瀬戸内海が深く入り込む浜であった。9世紀に国府が置かれ、総社・売布神社が創設される。
15世紀末、覚如の末裔である一向宗(浄土真宗)の善秀が小浜荘を開き[1]毫摂寺を建立。その際、周囲三方を大堀川が迂回する地形を利用して小浜を城塞化、寺内町として一向宗勢力の拠点となり、戦国大名や織田信長の一向一揆弾圧に備えた。信長が、荒木村重を伊丹城に攻めた(有岡城の戦い)際には、信長方に付いて難を逃れている[2]。
その後、有馬などの街道が通る交通の要衝としての地位を確立する。豊臣秀吉や秀次も有馬湯治の際に立ち寄ったが、秀次が毫摂寺の娘を側室にしたことから、秀次失脚の折、焼き打ちにあってしまう。
復興した小浜は、その後江戸幕府からも重視され、小浜宿が成立して発展。脇本陣や旅篭、木賃宿、商家、馬借が林立した。また、名水「玉の井」を使用した酒造「小浜流」が発達[3]。摂津国鴻池村にて酒造業を起こしていた山中幸元(鴻池新六)の長男山中清直が、慶長19年(1614年)に分家し、小浜宿の「扇屋」を買収し酒造業を営んだ[4]。灘五郷に先立つ大酒造業地となり、小浜の酒は江戸詰めの大名諸侯はじめ全国に知れ渡ったが、18世紀から次第に灘五郷へ譲渡されてほぼ消滅する。1723年には大工の集団「小浜組」が結成、大工の町としても知られるようになる。
寺内町
小浜は、南西北の三方を迂回する大堀川に加えて東側に溜池を掘り、周囲に土塁を廻らして防御性を高めた城塞寺内町であった。街道ごとの三方には門を構え、東門は京伏見街道、北門は有馬街道、南門は西宮街道に通じていた。南北750m・東西400mの総構えで、小浜城とも呼ばれる。
旧街道
- 有馬街道:大阪 - 伊丹 - 小浜 - 生瀬 - 有馬
- 京伏見街道:京・伏見 - 山崎 - 郡山 - 瀬川 - 加茂 - 口谷 - 小浜
- 西宮街道(馬街道):西宮 - 伊孑志 - 小浜
旧跡・みどころ
- 毫摂寺
- 「小浜御坊」と呼ばれた、小浜の中核寺院。
- 宝塚市立小浜宿資料館
- 名水「玉の井」が残る旧山中家住宅が阪神淡路大震災で半壊、1999年資料館として復旧される。
- 玉の井
- 古来より水の澄んだ井戸を玉の井とよんでいた。能楽「玉の井」にもその名が使われている。1589年、豊臣秀吉が有馬山温泉におもむいた時、伴にしていた千利休と共に小浜宿にて休息し、この井戸の水で茶をたてさせた。その際に、故事にならって、この井戸を「玉の井」と題した。[5]
- 宝塚市立小浜工房館(とんかち館)
- 大工の町・小浜の紹介施設。
- 井川家住宅
- 江戸時代初期から残る、清酒「菊仁」の造酒屋。
- 小浜皇大神社
- 小浜の産土神。祭事にだんじり祭と小浜戎。2006年本殿は兵庫県登録有形文化財に第一号登録される。
- いわし坂
- 北門を有馬街道へ出た道。現在は国府橋がある。瀬戸内海の浜であった時代、鰯を荷揚げしたと伝えられる。
- 和田家住宅
- いわし坂の北にある、宝塚市最古の住宅。宝塚市指定文化財。
- 首地蔵
- 南門を西宮街道へ出た道にある、首だけの大地蔵。由来は諸説ある。1975年に新しい首地蔵も安置された。
- 小浜宿まつり
- 毎年4月第一土曜日・日曜日に開催。
脚注・参考文献
- 『広報たからづか』宝塚市
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小浜城の口コミ情報
2024年09月20日 たかぼー
小浜城
城は高台にあり、城内を有馬街道が通っています。
城の周囲を流れる大堀川には橋がかけられていなかったと言われています。
かなりの要塞だったことが伺えます。
2022年06月16日 RED副将軍
小浜城
摂津一向一揆の舞台🏯
かつては水堀および土塁に囲まれた寺内町でした。
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
明応年間(1492年~1501年)に覚如の末裔である一向宗の善秀が小浜庄を開き毫摂寺(小浜御坊)を建立したのが始まりです。
周囲を大堀川が迂回する天然の要害を利用し、土塁、水堀を築いて城塞化。寺内町として摂津一向一揆の拠点となりました。
織田信長は一向一揆弾圧に備えていましたが、織田信長が荒木村重の有岡城を攻めた際には、信長方に付いて難を逃れました。
その後、主要街道が通る交通の要衝であったため宿場町として繁栄します。
しかし、豊臣秀次が毫摂寺の娘を側室にしていたことから、1595年の豊臣秀次失脚の折には焼き打ちに遭っています。秀吉は容赦ありません…💧
復興後は江戸幕府からも重視され、江戸時代は小浜宿として発展しました。
見所
小浜御坊・亳摂寺を中心とした寺内町が城郭化したものですが、現在は城址の遺構は見当たりません。
南門跡や東門跡の標柱が立ち、往時に想いを馳せることができます。
2022年06月15日 イオ左衛門佐
旧和田家住宅[小浜城 寺社・史跡]
江戸期に飯野藩領の庄屋を務めた和田家の住宅で、阪神淡路大震災で半壊するも古材を用いて修復され、往時の姿を今に伝えています。建物内は歴史民俗資料館として公開されており、土蔵や井戸が見られるほか、長槍やとび口が展示され、訪問時には豪華な御殿飾り雛も飾られていました。
小浜城の外ではありますが(北門跡から徒歩1分)、なかなか見応えがありますので、時間が許せばぜひ。
2022年06月14日 イオ左衛門佐
小浜宿資料館[小浜城 その他]
山中鹿之助を祖先とする山中家住宅の敷地内に建つ資料館で、交通の要衝として制札や大工の町として大工道具など小浜宿についての資料が展示され、中でも町並みのジオラマは精密な出来で、大堀川とため池に囲まれた小浜城の縄張がよくわかりました。また、敷地内には利休が秀吉に茶をたてた際に用いたと伝わる玉の井があり、申し出れば見学することもできます。時間のある方は資料館の方が丁寧に案内して下さいますので、ぜひどうぞ。
2022年06月14日 イオ左衛門佐
毫摂寺[小浜城 寺社・史跡]
小浜御坊とも呼ばれる寺内町の中核寺院で、豊臣秀吉や千利休、豊臣秀次が有馬温泉への道中に宿泊したとされます。毫摂寺の娘がその際に見初められて秀次の側室(小浜の局)になっていたことから、秀次切腹事件に連座して処刑され、毫摂寺も焼き打ちに遭いました。立派な本堂は江戸末期の再建です。
2022年03月14日 宇治☆ 隼人正三朗
小浜城
昔の宝塚の中心は小浜宿にあったのでしょうか。とても趣きのある場所でした。
2022年03月07日 尼崎城駿河守一口城主
小浜城
尼崎から自転車で登城🚲。摂津33所の甲山大師の高台から攻略出来ました✌️宝塚市役所から宝塚新大橋を渡ってほぼ道なりに進むと小浜宿に到着しました。小浜資料館は10時から15時までで着いたのが15:05頃で入館出来ませんでした。入館したい方、時間要チェックです✅
2021年02月23日 ラッキーマン筑前守
小浜城
小浜宿資料館と旧和田家住宅は無料で観覧でき、館長さんや係りの方が親切に説明してくれました
2017年05月09日
小浜城
地元民より。もし、車で訪れる場合は、小浜交差点からの侵入はオススメできません。狭い、一方通行、迷路並、Pほぼ無し。近くから歩きが良いかと(^^) 大した遺構もないですが、観光の人は少な〜いですよ☆。
2017年03月11日 橘若狭守次郎吉
小浜城
戦国期には寺内町として栄えた小浜城跡は江戸期には宿場町として栄えました。小浜宿は京伏見街道・西宮街道・有馬街道が交差する場所なので、多くの旅人で賑わっていました。また、三田藩や篠山藩などの大名行列も通っていたとか…。
かつては多くの町家が残っていましたが、阪神淡路大震災でその殆どが倒壊してしまっていました。しかし、少しながら倒壊を免れた町家が残っていて、往時を偲ぶことが出来ます。旧井川邸や旧和田家住宅、旧山中邸などがそうです。
旧山中邸はこの地で酒造り→医師をしていた戦国武将の山中幸盛の子孫の旧宅です。現在は非公開ですが近いうちに整備して公開する予定だそうです。また、小浜宿のいろんな処に道標があります。
小浜宿の散策する前に是非とも小浜宿資料館にお立ち寄りください♪小浜宿散策MAPがもらえます。また、資料館の方のお話はとても興味深いです!
旧和田家住宅は小浜付近を代々治めてきた庄屋邸です。こちらもとても興味深いお話を聞くことが出来ました。
2017年03月11日 橘若狭守次郎吉
小浜城
小浜城は戦国期には亳摂寺を中心とした寺内町でした。寺内町の周囲には水堀と土塁が囲んでいたので、かなりの防御力があったと思います。江戸期には京伏見街道・有馬街道・西宮街道の交差地点であった為、宿場町として栄えました。
現在の城の遺構は水堀跡(大堀川)と北側にある国府橋付近に残っている土塁跡のみです。土塁跡はかなりの高さがあります。また、かつての門跡(北門・東門・南門)には愛宕社があり、その側に小さな石碑があります。
小浜城跡へは阪急電鉄・JR「宝塚」駅より阪神バスに乗車して10分ほどの「小浜」バス停が便利です。