七松城(ななつまつじょう)
七松城の基本情報
通称・別名
- 七松環濠
所在地
- 兵庫県尼崎市七松町3(七松八幡神社)
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- 織田信忠
主な城主
- 織田氏
廃城年
- -
遺構
- 堀跡
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑(七松城落城なくなられた武士及び家族 故六百三十余人之碑)
周辺の城
-
富松城(兵庫県尼崎市)[2.5km]
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七松城の解説文
七松城の口コミ情報
2024年10月27日 和泉守炒飯餡掛之丞大盛
七松城
JRの立花駅から、徒歩10分足らずで着きます。ただ、道が細く少し分かりづらいので、GoogleMapに従うのが無難かと思われます(七松八幡神社でヒットします)
2024年07月03日 吉継大膳大夫
七松城
今は砦の遺構はありませんが、かつて荒木村重の家臣達が惨殺された場所になります。
2024年06月19日 RED副将軍
七松城
荒木村重の一族や家臣が処刑された悲劇の地
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代、築城主等の詳細不詳。元々は七松環濠と呼ばれる環濠集落であったとされます。
尼崎は広大な平野で山城を築くことはできなかったため屋敷の周囲に環濠を巡らせて外敵に備えていました。
1578年に荒木村重が織田信長に反旗を翻し、有岡城に籠城。有岡城の支城である尼崎城を攻略するために織田信忠は七松城を付城として利用します。
1579年に荒木村重は有岡城を脱し落城。その後は尼崎城に籠り抗戦します。
織田信長は、尼崎城と花隈城の明け渡せば人質の妻子を助けると申し立てますが、荒木村重は妻子を見捨てて出奔。
織田信長は見せしめのため、600名におよぶ荒木村重の一族や家臣を七松城で監禁し処刑しました。
見所
現在は七松八幡神社の境内となり、境内の隅には処刑された荒木村重の一族や家臣の慰霊碑が建っています。
遺構は消失していますが、細い路地等の環濠を偲ばせる地形が周囲に残ります。
2022年04月18日 尼崎城駿河守一口城主
七松城
4月16日、塚口城を下城後にサイクリングを再開し七松城に登城。現在、七松城跡は七松八幡神社になっており【荒木村重ゆかりの地】と染めてある幟がありました🏳境内の狛犬が大きな😷をしていたのでこのご時世でしか撮れないと思い撮っておきました。
荒木村重の一族や家来が織田軍に処刑されたところのようで亡くなられた方々の慰霊碑が建っています。今では閑静な住宅街と思われる場所が悲劇の場所だったとはギャップがありすぎだなと感じました。
2021年11月12日 萌魏太閤叡声
七松城
JR立花駅南口の近く。阪神であれば、出屋敷駅が最寄り。どうでもいいかもしれないが尼崎市役所にも近い。七松八幡宮が跡地だが、言われないと城跡とは分からない。「七松城落城でなくなられた武士及び家族 故六百二十餘人之碑」があるが、現地に何の説明板もなく、荒木村重...と書かれた幟がなければ、"城めぐり"の解説かネットで調べないと、阪神淡路大震災の犠牲者数?と勘違いしてしまいそうな罪作りな碑。
2017年02月21日 橘若狭守次郎吉
七松城
JR神戸線「立花」駅より南東へ徒歩10分ほどの七松八幡神社付近が七松城跡だと云われています。
神社境内の隅に「七松城落城なくなられた武士及び家族 故六百三十余人之碑」と書かれた石碑があります。
これは、荒木村重が織田信長に謀反を起こしたが、居城の有岡城が落城したので尼崎城へ逃れたときに、有岡城に残っていた家臣や女房、子どもが織田信忠が陣をとっていた七松城に監禁され処刑されたことに対しての慰霊碑です。
神社の付近に壕跡のようなものが少しだけ残っていました。その他の遺構は残っていません。
2012年12月31日 太政大臣さかな
七松城
今は「七松八幡神社」になっています。←もしかしたら、神社の敷地内に小さな城があったのかもしれません。
境内には、幾つかの石碑や案内板がありましたが、「七松城跡」を示すものは見つけられませんでした。
歴史
築城年代は定かではない。尼崎では中世から、屋敷の周囲に環濠をめぐらせた環濠集落が形成され、やがてそれらが集合体として大きな集落を構築していた。七松城もそのひとつで、戦国時代には陣城として使われていたという。
天正6年(1578)からの織田信長の有岡城攻めの際には、有岡城の支城である荒木村重の尼崎城を攻めるために、織田信忠が七松城を陣城にしたとされる。
遺構
現在の七松八幡宮一帯に築かれていた。堀のラインは直線的で、ほぼ直角に折れていたという。東側と北側の虎口は、横矢掛りを意識したような構造になっていたらしい。七松八幡宮には「七松城落城なくなられた武士及び家族 故六百二十余人之碑」と書かれた石碑が立つ。
交通
・西日本旅客鉄道東海道本線立花駅から徒歩で約8分参考文献
・『ひょうごの城紀行(上)』神戸新聞総合出版センター、1998年。