富松城(とまつじょう)
富松城の基本情報
通称・別名
- 東富松城
所在地
- 兵庫県尼崎市富松2
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 薬師寺氏?
築城年
- 長享元年(1487)11月以前
主な改修者
- -
主な城主
- 薬師寺氏
廃城年
- -
遺構
- 土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
塚口城(兵庫県尼崎市)[2.0km]
七松城(兵庫県尼崎市)[2.5km]
瓦林城(兵庫県西宮市)[2.8km]
有岡城(兵庫県伊丹市)[3.3km]
小松城(兵庫県西宮市)[4.4km]
尼崎城(兵庫県尼崎市)[5.2km]
越水城(兵庫県西宮市)[5.9km]
麻田陣屋(大阪府豊中市)[6.1km]
原田城(大阪府豊中市)[6.1km]
小浜城(兵庫県宝塚市)[6.4km]
富松城の解説文
[引用元:Wikipedia「富松城」の項目]
富松城(とまつじょう)は、兵庫県尼崎市にあった日本の城。現在でも土塁、水堀の遺構が確認できる。
概要
富松城は、伊丹城、大物城、越水城の中間地点にあり、境界防衛や連絡の城として攻防の要となり、たびたび戦火に見舞われている。長期にわたってここを本拠地とした城主はなく、戦乱のたびに入れ代わった戦歴がある。
富松城の規模は、それまで東西80m、南北100mの小規模な城と思われていたが、平成6年(1994年)の発掘調査で東西に150m、南北200mの館城で、周囲に土塁、二重の水堀がめぐらされている中規模の城であったことが推定された。また、昭和38年(1963年)の道路工事に伴う発掘調査からは、矢倉台の土台らしき遺構が発見された。
沿革
長享元年(1487年)11月の「年貢算用状」に富松城の初見が見受けられる。平安時代にはこの地は富松荘と呼ばれた荘園であった。この時代から薬師寺氏が管理しており、築城も薬師寺氏の可能性が高いと思われる。
戦場となる富松城
最初の戦火は永正16年(1519年)の越水城の合戦で、細川高国軍は瓦林正頼を援護するために富松城に陣をひいたが、その後正頼が越水城を開城したため、細川澄元方の武将が入城した。
次の戦いは享禄3年(1530年)で、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで敗れた高国は、浦上村宗の力を借りて摂津に侵攻。この際に細川晴元派として富松城を防衛していたのは薬師寺国勢であった。享禄3年9月21日、高国軍は神呪寺城から朝駆けで攻撃したが、晴元派の救援があり一旦兵を引いた。しかし同年10月19日、再び攻め込み薬師寺軍を伊丹城に敗走させ、富松城を高国軍の本陣とした。薬師寺氏は代々高国派であったが、例外的に薬師寺国勢は高国に敵対していた。しかしこの敗走により再び高国派に寝返った。この後大物崩れで高国が自害し、薬師寺氏も勢力を失うことになる。
主が居なくなった富松城が次に歴史に姿を現すのが、天文10年(1541年)である。一庫城の戦いで2ヶ月間包囲していた三好長慶軍は、木沢長政軍が大軍で攻めてきたためいったん越水城に兵を引いたが、逆に木沢軍は越水城を包囲し、後詰の軍を富松城に配置した。木沢軍は越水城へ攻撃を開始、西宮に放火して回った。これに対し三好軍は阿波に援軍を求め、同年10月2日に反撃を開始、包囲軍を撃退し富松城も落城させた。
その後富松城は三好長慶派に占拠されていた。三好政長と長慶との争いの中で、政長軍は越水城と中嶋城の長慶軍を分断を目的として天文18年(1549年)5月1日に富松城を攻撃するものの、落城させることはできずに退却した。その後江口の戦いで政長は戦死、長慶方が勝利した。長慶は最後まで抵抗していた伊丹城を落とすため、天文19年(1549年)1月11日に富松城に入城したが、結局同年3月28日に和議が成立した。
廃城
富松城が廃城となった時期は明確でない。三好長慶時代には越水城の支城になり、織田信長の摂津進攻により越水城を放棄するまでは三好方の武将が詰めていたと思われる。『細川家記』によると、「牧丞大夫・新五父子、先祖は橘姓、薬師寺次郎左衛門公義末流、摂津国河辺郡富松の城主・富松与一郎元亮の男で、同郡牧村(現伊丹市荒牧ヵ)に住して牧を名乗り、青竜寺より仕える」[1]とあり、信長の摂津進攻より降りて、城主の子が長岡藤孝(細川幽斎)に仕えたようである。城は天正年間(1573年 - 1592年)までは存続したと思われるが(『立花志橋』)、その後の経過については不明である。
二カ所一城説
三好長慶時代『細川両家記』や『』によると、「西富松城」「東富松城」という記述が見受けられる。このことにより二カ所一城、現在の富松城と同規模の城がもう一つあったのではないかという説もある。
- 東富松城
- 兵庫県尼崎市武庫之荘東2丁目付近(水堀、土塁の遺構が残っているのは東富松城)
- 西富松城
- 兵庫県尼崎市富松町2丁目付近(現富松神社境内地)
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 阪急神戸本線武庫之荘駅 - 阪神バス尼崎市内線43番・43-2番・48番・48-2番/伊丹立花線 「富松城跡」停留所
脚注・出典
参考文献
- 『戦国合戦大事典』六、新人物往来社、1989年。
- 『日本城郭大系』第12巻、大阪・兵庫、新人物往来社、1981年。
- 『日本の中世城館調査報告書集成』第15巻、兵庫県教育委員会、2003年。
- 『ふたつの城を持つ中世都市・富松(http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/sogo_annai/history/022topix/022topix5.html)』尼崎市公式ホームページ、2003年10月18日。
出典・脚注
[続きを見る]
富松城の口コミ情報
2024年07月16日 RED副将軍
富松城
両細川の乱の攻防の舞台⚔
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。1487年の「如意庵領年貢算用状」に富松城の名が記されており、応仁の乱の少し前頃に築城されたと推測されています。
平安時代から富松荘は薬師寺氏が領有しており薬師寺氏による築城と考えられます。
薬師寺氏は、藤原秀郷の系譜である小山氏の庶流とされ薬師寺元長は細川京兆家の細川勝元に仕え摂津守護代を務めています。
1507年に薬師寺長忠は、細川政元の養子である細川澄之を擁して細川政元を暗殺。室町幕府管領である細川氏の内部抗争の発端となりました。しかしその後、細川澄之や薬師寺長忠は細川高国により暗殺。
家督を継いだ薬師寺国盛は細川晴元に従属。1530年には細川高国の侵攻により富松城は落城。細川高国は富松城を拠点として細川晴元勢を一掃しました。
翌1531年に細川高国は大物崩れの戦いで赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍に敗れ自害。
1541年、三好長慶と木沢長政が争った一庫城の戦いにおいて越水城を攻める拠点として木沢長政が富松城を利用。しかし三好長慶の阿波からの援軍により落城。その後は三好長慶勢の拠点となり、1549年には伊丹城を攻めるため三好長慶が富松城に入城しています。
その後も越水城の支城として機能した様ですが廃城時期は分かっていません。
見所
大半は宅地化により消失していますが、県道606号と道意線の交差点の南東角に土塁と空堀の一部が現存しています。
フェンスに囲まれ立ち入ることは出来ませんが市街化の中よく残ったものです。
2023年05月05日 兵庫のピーちゃん雁
富松城
バス停からの写真。お城をぐるーと一周しての写真になります!🏯 富松城(とまつじょう)は、兵庫県尼崎市にあった日本の城。現在でも土塁、水堀の遺構が確認できます。 富松城は応仁の乱の少し前に築城されたと推測されている城館で古尼崎城と有岡城(伊丹城)と越水城の中間に位置します。
2022年06月13日 尼崎城駿河守一口城主
富松城
5月14日、自宅からママチャリ🚲で登城。城跡は道意線沿いにありました。バス停🚏[富松城跡]の目の前にあります。当地は中に入れなさそうだったので外側から何枚か写真を撮って下城。次に武庫川を越えて西宮の瓦林城を目指しました。
2022年01月14日 ファン掃部助トム治郎
富松城
地元の方が朝早くから清掃活動をされていました。市の土地で立ち入りは禁止されているようでした。堀と土塁跡がはっきりしています。武庫之荘駅から徒歩15分程度です。
2022年01月13日 かよぱぱ和泉守
富松城
住宅地の中にコインパーキングがあります。そちらを利用されると便利かも。
2019年10月23日 TKM
富松城
富松城は阪神地区に唯一遺構が残る城です
富松城の周辺スポット情報
矢倉台(遺構・復元物)
堀跡(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
堀跡(遺構・復元物)
堀跡(東側)(遺構・復元物)
栗山氏館 堀跡(遺構・復元物)
説明板(碑・説明板)
看板(碑・説明板)
武庫城(周辺城郭)
栗山氏館(周辺城郭)
西富松城(周辺城郭)
守部城(周辺城郭)
生津城(周辺城郭)
富松神社(寺社・史跡)
西運寺(寺社・史跡)
円受寺(寺社・史跡)
上ノ島遺跡(寺社・史跡)
須佐男神社(寺社・史跡)
大昌寺(寺社・史跡)
武庫庄遺跡(寺社・史跡)
真光寺(寺社・史跡)
大井戸古墳(寺社・史跡)
西武庫十三重塔(寺社・史跡)
武庫大橋(寺社・史跡)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
富松公園(関連施設)
富松城北公園(関連施設)
バス停(その他)