三宅城(みあけじょう)
三宅城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大阪府茨木市丑寅2(推定地)
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 三宅氏
築城年
- 永正元年(1504)?
主な改修者
- 不明
主な城主
- 三宅氏、香西氏
廃城年
- 永禄5年(1562)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板、(摂津市千里丘東1にも石碑、説明板あり)
周辺の城
-
山田城(大阪府吹田市)[2.9km]
黒丸城(大阪府摂津市)[3.2km]
茨木城(大阪府茨木市)[3.4km]
目垣城(大阪府茨木市)[3.6km]
郡山城(大阪府茨木市)[4.4km]
吹田城(大阪府吹田市)[4.8km]
江口城(大阪府大阪市)[4.9km]
普門寺城(大阪府高槻市)[5.3km]
新庄城(大阪府大阪市)[5.9km]
守口城(大阪府守口市)[6.1km]
三宅城の解説文
[引用元:Wikipedia「三宅城」の項目]
三宅城(みやけじょう/みあけじょう)は、大阪府茨木市にあった日本の城。宅地化、農地化がすすんで遺構などは地表上には存在せず、推定地として蔵垣内3丁目および丑寅2丁目が有力である[1]。
概要
城の大きさは東西596メートル、南北540メートルで、その中に東西180メートル、南北270メートルが本丸が備わっていたと思われ、かなりの大きさの城であったことが推定されている。
城の周りには堀をめぐらした可能性があり、「堀田」「蓮池」「大名寺池」という堀や城の存在を匂わせる地名が存在している。また、本丸、二の丸を備えた城郭であったという説もあるが、近年の区画整理事業の為、全く形が変わってしまった、あるいは埋められて、遺構や城の片鱗をしのばせるものは無くなってしまった。
三宅城の石碑は2つ存在していて、1つは阪急京都本線沿いにある石碑と、もう一つは蔵垣内公園にある石碑があり、共に推定城敷地内と考えられている。
なお大阪府の行政地図情報システムによる埋蔵文化財包蔵地範囲の表示では、蔵垣内2丁目・3丁目および丑寅2丁目の中間付近が包蔵地として設定されており、蔵垣内公園からはやや東にずれている。
また2019年(令和元年)10月10日に行われた茨木市による丑寅2丁目地内の試掘調査では、遺構や遺物は発見出来なかった[2]。
沿革
築城
築城の時期は定かではないが、2つの説が言われている。1つは14世紀前半築城説で、『応仁記』によると文明3年(1470年)、東軍の総大将細川勝元方に属していた「三宅・吹田・茨木・芥川等の諸侍」が居たことが記載されている。これにより、更にさかのぼって観応3年(1352年)の室町幕府御教書に三宅左衛門という名前が見受けられ、代替三宅氏の居城として使用されていた可能性もある。もう1つは細川高国に命じられ、三宅国政が永正元年(1504年)に築城したという説である。
三宅城が最初に戦闘に巻き込まれるのは、天文15年(1546年)の細川氏綱と細川晴元の戦いで、三宅城主であった三宅国村は氏綱方に属していた。この時、晴元方に属していた三好長慶軍3万兵が翌年天文16年(1547年)2月25日に三宅城を取り囲み、国村はその時小勢で何度か合戦になったが、3月22日に三宅城を明け渡し、国村は晴元方に属する事になる。
廃城
廃城も2つの説が言われている。一つは江口の戦いの直前の戦闘で、天文17年(1548年)に三好政長と三好長慶の仲違いが生じるに至り、国村は芥川・入江・茨木・安威・池田・瓦林の摂津国人と共に長慶方に属した(国村は細川晴元方に属していたが長慶に味方したと間違われたという別説もある)。これに対抗する政長方の香西元成は三宅城を攻略し、同年3月29日に落城した。この時に国村は42歳で自刃し、1男3女はバラバラに落ち延び、しばらくした後に三宅城は廃城になったという説がある。
もう一つは、3月29日に落城した後に国村は自刃せず落ち延びたという説がある。その後、落城させた香西元成は同年5月5日には政長を迎え入れ、28日には政長の主君である細川晴元自身も入城し、三宅城は晴元方の最前線基地となった。これに対して、長慶の弟十河一存は同年6月24日の未明三宅城を攻撃、本丸近くまで攻めのぼったが、そこから先は激しい攻撃にあい、矛先を江口城にむけ政長を打ち取る事に成功した。この敗戦で晴元は三宅城を捨てて近江に逃げ去っていった。
この後三宅城は再び国村の居城となっていたが、永禄5年(1562年)に六角義賢と三好長慶との間で対立し(久米田の戦い)、国村は長慶を裏切り六角方につき豊島郡を放火し撹乱したが、高屋城が落城した(教興寺の戦い)との報が届くと三宅城から堺へ逃げ去った。これを最後に三宅城と国村は姿を消すことになり、この時に廃城となったという説もある。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- JR京都線(東海道本線)千里丘駅 - 徒歩約15分
- 阪急京都本線 南茨木駅 - 徒歩約10分
- 車でのアクセス
- 東名高速道路吹田JCT/IC - 府道2号線、蔵垣内公園方面
- 近隣に駐車場無し
参考文献
- 平井聖ほか『日本城郭大系』第12巻、大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月。
- 『わがまち茨木』城郭編、茨木市教育委員会、1987年3月。
- 茨木市教育委員会 2020『茨木市文化財資料集74:令和元年度茨木市埋蔵文化財発掘調査概報(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/70235)』茨木市教育委員会 p.34
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三宅城の口コミ情報
2024年10月12日 RED副将軍
三宅城
在地領主である三宅氏の居城🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。1504年に三宅国政により築かれたと云われますが諸説あり定かではありません。
摂津三宅氏の歴史は古く、藤原北家の系譜で宇都宮氏の庶流とされ、平安末期から当地を支配していたため、この頃から何らかの施設があったのかもしれません。
1547年、細川晴元と細川氏綱の争いにおいて三宅国村は細川氏綱に味方しましたが、細川晴元に属した三好長慶により包囲され開城。三宅国村は細川晴元に属したとされます。
その後の三宅城については諸説あり、廃城についてははっきりとしません。
1548年、三好政長と三好長慶の争いが生じ、三宅国村は三好長慶に属しましたが、三好政長に属した香西元成により三宅城は落城。三宅国村は討死し三宅城は廃城となったとも、三宅国村は落ち延びてその後に三宅城に復帰し1562年の六角義賢と三好長慶との争いである久米田の戦いに際して三好長慶を裏切って逃げ去り廃城となったとも云われます。
見所
かなりの規模であった様ですが、現在は市街化により遺構は消失。
蔵垣内公園に推定地として城跡碑や案内板が立ちます。
2023年10月01日 Pegira123
三宅城
車での攻城は近所のコインパーキングへの駐車が必須となります。投稿時期は道路工事の為かコインパーキングが満車でした。(私の駐車場所からは6分の徒歩が必要となりました)
説明看板は児童公園内です。ここに砦となるような地形があったとは想像しづらいてす。
2022年06月04日 尼崎城駿河守一口城主
三宅城
5月29日、山田城下城後に登城🚲グーグルマップを見ながら進軍していくと蔵垣内公園に辿り着きました。石碑と説明板がありました。説明板を読むと応仁、文明の乱のときに東軍に攻撃されたとありましたが、現在は子どもたちが楽しそうに遊んでいる公園になっており平和が一番だなあと感じながら下城。次に目垣城を目指しました。
2022年03月04日 まだまだ2
三宅城
住宅内の中 幼い子らが母親に連れられて遊んでました 公園の片隅に城跡石碑あります
2021年05月04日 中村侍従和夫
三宅城
阪急摂津市駅からでもJR千里丘駅からでも10分くらいで行けます。住宅街の中の公園に看板と石碑があります。城跡は一切ないですが、地名に城ノ内、蔵垣内など城下であったことがうかがえます。
2017年03月30日 ポリタンク大和守
三宅城
Wikipediaにも情報はないですが、東罐興業さんの大阪工場敷地内に、昭和18年12月の石碑があります。日本城郭大系に載ってるのは、これです(大系では移設前の位置なので線路内になってます)。
2017年03月29日 ねこ式部丞すずめ
三宅城
蔵垣内公園から北東の方へ6~7分ぐらい歩いた阪急京都線の線路沿いに、三宅国村公の石碑があります。
2016年07月10日 橘若狭守次郎吉
三宅城
遺構は一切残っていません。城跡の正確な場所も分かっていません。今のところ、蔵垣内公園辺り(蔵垣内3丁目)と丑寅2丁目辺りの2ヶ所のどちらかではないかと推定されています。
その為、現在は石碑と案内板が2ヶ所あります。
・「蔵垣内公園」の一角にあります。まあまあ分かりやすいです。
・丑寅2丁目 阪急電鉄の線路沿いの草ボーボーの狭い敷地内にあります。かなり分かりづらく(特に夏)注意しながら歩いていても見逃すこともあります。
2013年01月02日 太政大臣さかな
三宅城
小さな児童公園になっています。
駐車場どころか、周辺道路は停車さえ憚られるくらい狭いです。
2012年08月14日 こっちゃ
三宅城
側には三宅小学校があり寂しい場所です