疋壇城(ひきたじょう)

疋壇城の基本情報

通称・別名

疋田城

所在地

福井県敦賀市疋田

旧国名

越前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

疋田久保

築城年

文明年間(1469〜1487)

主な改修者

主な城主

疋田氏

廃城年

天正元年(1573)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(疋壇城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

敦賀城(福井県敦賀市)[7.0km]
玄蕃尾城(福井県敦賀市)[7.0km]
天筒山城(福井県敦賀市)[7.0km]
金ヶ崎城(福井県敦賀市)[7.7km]
西岡城(滋賀県長浜市)[8.1km]
東野山城(滋賀県長浜市)[11.1km]
国吉城(福井県三方郡)[12.2km]
賤ヶ岳砦(滋賀県長浜市)[13.4km]
木ノ芽峠城(福井県南条郡)[13.6km]
田上山城(滋賀県長浜市)[14.7km]

疋壇城の解説文



疋壇城(ひきだじょう)は、福井県敦賀市疋田にあった日本の城(山城)。越前の戦国大名であった朝倉氏の近江・越前国境守備の役割を担っていた。別名・塩山城(えんざんじょう)。また疋田城と表記されることもある。1954年(昭和29年)12月3日付けで福井県の史跡に指定されている[1]

概要 

疋田は、古くからの交通の要衝であり、近江から越前に向かう複数の道が集合する地点となっている。主要な道として、七里半越(国道161号)、新道野越(国道8号)、深坂越、刀根越が挙げられる。軍事上も重要な地であるため、古代には三関のひとつである愛発関があったいわれ、戦国時代初期には朝倉氏により疋壇城が築かれたが、その後、織田信長との戦いを経て同城は廃城となった。現在、城跡付近は大半が畑になっているが、本丸跡、石垣、堀の遺構が残されている。

歴史 

  • 文明年間(1469 - 87年):朝倉氏家臣の疋壇対馬守久保により築城。
    • 以後、疋壇氏は、城主として七代百余年にわたって続いた。
    • 初代 対馬守 - 2代 左衛門佐 - 3代 兵庫 - 4代 三六郎 - 5代 喜助 - 6代 駒之助 - 7代 与一郎
  • 元亀元年(1570年)
    • 4月26日:織田信長による越前攻めで、金ヶ崎城・手筒山城と共に疋壇城が落城。
    • 4月27日:浅井長政の裏切りで、信長が撤退。その後、疋壇城は修復され、栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣。
  • 天正元年(1573年)
    • 8月12日:信長が二回めの越前攻略、疋壇城は再び攻め落とされた。
    • 8月13日:刀根坂の戦いで朝倉軍大敗。
    • 8月20日:一乗谷にて朝倉氏滅亡。

伝承 

疋壇城には落城時の悲話が伝わる。刀根坂の戦いで朝倉軍は三千名以上の戦死者を出した。疋壇城で囚われの身となった家臣の鳥居与七郎の妻は、軍卒らの乱暴を受けそうになった。そこで彼女は、「私の父と夫は刀根にて戦死し、母と姉は行方不明だが生きていると思うので、私の身の上を伝えたい。その望みが叶えば御意に従う。」と言った。紙と筆を与え、書状を書き終えると、彼女は近くの古井戸に身を投げた。残した書状を見ると、「世にふれば よしなき雲ぞ おほふらん いざいりてまし 山の端の月」(自らを月にたとえ、生きてこのまま辱めを受けるなら死んでしまおう という意)とあった。軍卒らもその貞烈に涙したという。

刀根坂の戦いで戦死した武将の墓と言われるものが疋田にいくつかある。そのうちのひとつは、五位川と笙の川の合流地点の橋のたもと、国道8号沿い、山麓にある。国道工事の際、多数出てきたものということである。

アクセス 

  • 北陸自動車道敦賀インターチェンジから国道8号を滋賀方面へ車で10分。JR新疋田駅 から徒歩10分。

参考文献 

  • 愛発伝説散歩の会 『ふるさと探訪 ひきだの里』 2004年、30-41頁。
  • 福井県の歴史散歩編集委員会 『福井県の歴史散歩』 山川出版社、2012年、217頁。

疋壇城の口コミ情報

2023年10月09日 織田上総介晃司
疋壇城

車は麓にある愛発舟川の里展示室の駐車場を利用。舗装された道を登ると疋壇城があります。

旧小学校跡やJR北陸本線の線路。更に畑によりかなり改変されておりますが、空堀と主郭はなんとか残っております。

ちなみに疋田舟川跡(敦賀運河跡)は江戸時代、敦賀から琵琶湖を経由して京都に物資を運ぶ運河です。

2023年04月27日 RED副将軍
疋壇城



近江と越前を結ぶ交通の要衝であり、越前最南端の軍事的に重要拠点✨

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

文明年間(1469年〜1487年)に朝倉氏家臣の疋壇久保により築城。1570年、織田信長による越前攻めで、金ヶ崎城、手筒山城と共に落城。浅井長政の裏切りで信長が撤退するも、1573年の二度目の越前攻めで再度落城しました。

見所
五位川西岸の河岸丘陵に築かれています。本丸の東側と西側の空堀には石垣が良好に残り一番の見所。かつては周囲を幅15m、深さ6mほどの深い空堀を巡らせていました。主郭部は耕作地となり改変されています。

2021年09月15日 しょーじゅん
疋壇城



すぐ近くを街道が通り、戦国期には日本海までの船路も通っていた交通の要所にある疋壇城。JRの開通や小学校設立などにに伴い、一部史跡が壊されていますが、石垣、堀はまだまだ綺麗に残っています。

2018年09月14日 安田宮内卿秀俊
疋壇城

城主である疋壇氏の墓所が北東の 奥野地区 宗昌寺の裏山に残る。

2012年01月15日 願舟近江守
疋壇城

疋田の集落から見上げて石垣の畑が見える(これは畑の石垣)。その方への坂を上って行き、割と大きめの堀と石垣の一部が確認できる。そこから更に行くと旧小学校だったグランドがある(二の丸跡地)。そして反対の壁面側が本丸跡。正面の石碑と説明板の所から本丸跡へ上ると柵があり入れず(覗くと本丸跡は一面畑)。諦めようかと線路側に行くと、こちらにも堀があり、本丸へ上がれる通路を発見。本丸内の天守台跡に石碑あり。帰りに畑仕事をしていた方に話を聞き、この辺りは限界集落で厳しいようだ。

2010年09月26日 古楽侍従広家
疋壇城

天守から見る曲輪や堀跡など、昔の小学校建設で多少壊されたでしょうがよく残っています。

疋壇城の周辺スポット情報

 石垣(遺構・復元物)

 疋壇城跡説明板(碑・説明板)

 疋壇氏の墓所(寺社・史跡)

 駐車場(トイレ有)(駐車場)

 登城口(その他)

 戦国武将の墓(その他)

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