敦賀城(つるがじょう)
敦賀城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福井県敦賀市結城町8
旧国名
- 越前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 不明
築城主
- 蜂屋頼隆
築城年
- 天正12年(1584)
主な改修者
- -
主な城主
- 蜂屋氏、大谷氏、松平氏
廃城年
- 元和2年(1616)
遺構
- 移築門
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
金ヶ崎城(福井県敦賀市)[1.5km]
天筒山城(福井県敦賀市)[1.6km]
疋壇城(福井県敦賀市)[6.7km]
岡崎山砦(福井県敦賀市)[9.6km]
木ノ芽峠城(福井県南条郡)[9.7km]
敦賀城の解説文
[引用元:Wikipedia「敦賀城」の項目]敦賀城(つるがじょう)は現在の福井県敦賀市にあった城。
【経緯】
1575年(天正3年)に織田信長により越前は平定され、1583年(天正11年)に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が台頭。その家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り敦賀城を築城した。しかし頼隆は九州征伐中に病死したため、1589年(天正17年)には秀吉家臣団でも知将の呼び声高い大谷吉継が5万7000石で敦賀城に入城した。また大谷吉継の前に秀吉の甥である豊臣秀勝が城主となったという説があるが、定かではない。
吉継は敦賀城を水城として大改修し、庄ノ川河口の入り江を埋め立てて奉行所を設置し、港の掌握に務めるなどし、三層の天守閣も造営した。1600年(慶長5年)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。
その後城は吉継の家臣蜂屋将監によって東軍に引き渡され、結城秀康によって代官が派遣されていたが、1616年(元和2年)に一国一城令により、敦賀城は廃城された。小浜酒井家によって支藩の敦賀酒井家(敦賀藩)が敦賀に置かれたが、陣屋は旧敦賀城跡地には建てられず旧金ヶ崎城ちかくの鞠山に建てられた。
【現在の敦賀城】
現在は城跡には城塁を含めその面影を偲ばせるものはないが、敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑がある他、市内来迎寺に移築された中門が残っている。
結城秀康によって代官が派遣されたことから、結城町として地名に残る。[続きを見る]
敦賀城の口コミ情報
まるき〜淡路守様[2015年10月06日]
敦賀城口コミ
フォトでよく見る真願寺の門の横の城址碑は今現在、門の工事等の関係上設置されていません
再設置は1年以上かかるらしいです。
敦賀西小学校の角にも城跡の説明の碑があり
来迎寺には移築された中門があり
元々天守は近くの敦賀病院のある所にあったという言い伝え。
越前守るーみん様[2015年10月02日]
敦賀城から移築された中門が、来迎寺に残っています。
その昔、大谷吉継は夜になると来迎寺に来ては当時の住職さんと朝まで酒を飲み交わしていたそうです。それほど住職さんと仲が良かったそうですね。
その縁で、来迎寺にこの中門が移築されたとか……。
移築門を見ていたら、来迎寺の横に住むおじいちゃんに話しかけられ、教えてくれました。
話の真偽は分かりませんが、そのおじいちゃんも、来迎寺の住職さんに聞いたと言ってましたよ(^o^)
徳川内大臣源朝臣康武様[2011年07月26日]
敦賀市が、よっしーの着ぐるみを製作(笑)
イラスト通りの出来ながら、ゆるキャラとしてはビミョーなフォルム
古楽侍従広家様[2010年09月26日]
ほとんどの情報が載ってるので、写真は大谷吉継の墓にしました。
徳川内大臣源朝臣康武様[2010年09月07日]
おおたににゃんぶUP
が、敦賀にはいないよ〜
敦賀の大谷刑部ゆるキャラは、よっしーだよ着ぐるみ予定はないそうな
傾奇揚げ仙兵衛様[2010年08月09日]
細い路地の突き当たりに敦賀城跡の石碑 駐車場もなく城の面影もなく
tomm加賀守様[2010年07月01日]
屋台ラーメンで有名な敦賀ですが、個人的にはいまだに屋台で営業している「池田屋ごんちゃん」がお薦めです!
徳川内大臣源朝臣康武様[2010年06月11日]
平成22年(2010)3月、発掘調査により、大谷吉継時代(16世紀後半〜末)のものと推定される礎石建物が初めて確認されました。