燧城(ひうちじょう)

燧城の基本情報

通称・別名

燧ヶ城、火打城

所在地

福井県南条郡南越前町今庄

旧国名

越前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

仁科守弘

築城年

寿永2年(1183)

主な改修者

柴田勝家

主な城主

仁科氏(木曽氏家臣)、今庄氏、赤座氏(斯波氏家臣)、魚住氏(朝倉氏家臣)、一向一揆勢、柴田氏(織田氏家臣)

廃城年

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、土橋

指定文化財

町史跡(燧ヶ城跡)

再建造物

石碑

周辺の城

杣山城(福井県南条郡)[4.2km]
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竜門寺城(福井県越前市)[14.7km]
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燧城の口コミ情報

2025年07月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
燧城



燧(ひうち)城は鹿蒜(かひる)川北岸(左岸)、日野川西岸(左岸)、両川の合流点へ向かって張り出す、標高643.3mの藤倉山山頂から東方へ伸びる尾根端部上、標高269.8m地点の平場を中心に立地する要害です。北麓のハピラインふくい線の今庄駅からの比高は145m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは北麓の新羅神社の境内からがベスト、登城路は藤倉山へ登る登山道でもあり、非常に歩き易い九十九折りの道がしっかりと付いている。ちなみに尾根末端部の稲荷神社からも登山道が付いているが、こちらの方は道形が荒れている上にやや急登である。

該地の今庄は古代には越前国敦賀郡鹿蒜郷の内であり、律令制下における北陸道の駅家、鹿蒜駅がかつて置かれていた。往時の敦賀からの道筋は鹿蒜道と呼ばれ、敦賀から樫曲、越坂、田尻、ウツロギ峠、五幡、挙野、阿曾、杉津の順で進み、杉津からは海岸線を北行し、比田、元比田を経て山中峠を越えた後に鹿蒜川に沿って東行し鹿蒜駅へと至る。この鹿蒜道は距離的に遠回り、且つ、杉津に至るまでに幾つかの小峠を越える必要があった。

別にもう一つの道筋も存在した。この道筋は、越坂から葉原へと進み、木ノ芽峠を越えた後に二ツ屋を経て新道(地名である。)において鹿蒜道と道筋を同じくして鹿蒜駅へと至るものである。建長七年(西暦830年)二月二十五日、「鹿□嶮道」の普請のため、百姓上毛野陸奥公□山に、越前国正税三百束と鉄一千廷が下されているが、節頭の道筋はこの「鹿□嶮道」に比定されている。険しい山中の道とはいえ、越坂から鹿蒜駅までの最短距離を経路に選んで一定の成功を収め、鹿蒜道に代わって官道(北陸道)へ昇格したとも考察されている。

今庄の地名は平安時代の末期から見えるようになるが、古代荘園の公領化が進む過程において新たな荘園が鹿蒜郷に成立した事がその由来だと推測されている。

南北朝時代の至徳二年(西暦1385年)には既に関が存在し、気比社がその関銭を徴収していた事が判っているが、この年に越前守護の求めにより、年に五十貫文分の関銭を同社に納める請所支配となった。しかし、永享七年(西暦1435年)、関銭の無沙汰が続いた事から、気比社側では先例に復する事を願い出ている。

朝倉氏時代の享禄二年(西暦1529年)の時点でも今庄には関が置かれており、元亀三年(西暦1572年)六月十九日、三尾河内、今しやう吉田殿役所轆轤師衆中宛、吉田新兵衛尉正久役銭免許状写から、当時の今庄関の差配者(代官か。)が吉田新兵衛尉正久であった事が判る。

アプリの城郭基本情報によれば、築城年代は寿永二年(西暦1183年)、築城者は木曽義仲の郎党、仁科盛弘とされている。出典は「平家物語」の巻七、「火打合戦」の冒頭の一文、「木曽義仲身がらは信濃にありながら、越前国火打が城をぞかまへける…」にあると思われるが、個人的にはこの一文は、同時期の北陸における一連の戦いを源氏と平氏の争いとして昇華させる上での文学上の脚色であったと考えている。燧城に立て籠ったのはあくまでも越前国、加賀国に割拠する在地土豪勢力であり、当時の義仲が北陸道における旗頭として扱われるのは情勢からしても無理があり過ぎる。事実、同年中の平氏勢の征討の目的は兵糧料所たる北陸諸国の安定と北陸道の回復にあり、義仲本人をその目的としていない。当時の都では同名の動向を殆ど把握しておらず、北陸道の統帥者を甲斐源氏、武田信義と誤認していた節さえある。

城域は東西に、高低差の殆ど無い山尾根上に長く展開している。単純な縄張で長閑な部分もあるが、郭間を隔てるギミックが素晴らしく遺構の残存度も極めて高い。主郭に残る石垣の付いた二つの基壇は小社のものとされるが、馬出や桝形に残る石垣も見所の一つだ。又、堀切から曲げを伴って尾根幅を狭めながら落ちてく竪堀や石積みで土留めされた土橋のくっきり具合には誰でも感動する事間違い無し。これについては表彰ものだと思う。

※「賤ヶ岳の戦い」の後に柴田勝家が燧城に入ったとするのは何かの間違いやろ…時系列的に考えれば、今庄を通過して北ノ庄に逃れたとするのが実際だろう。

※鹿蒜道〜原初の北陸道とも言える。万葉古歌が数多く残されている。

※「鹿□嶮道」〜この嶮道が後の北陸道の部分である。近世の北国街道は今庄以南で北陸道と道筋を異にしている。

※「万葉仙覚抄」には、「いつはたこえ(五幡越え)はすい津(杉津)へいづ(出)、きのへこえ(木ノ芽越え)はつるか(敦賀)の津へ出る也、きのへこえはことにさかしき(険しい)道なり」とある。

2023年03月16日 在来線男右京進
燧城



新羅神社の鳥居の横に車が3台くらい停めれます。登山道入口と書いてあるので直ぐにわかります。登って行けば20分くらいで着きます。カタクリの花を保護しているようです。残念ながらトイレがありません。社務所にトイレのマークは貼ってありますがわかりませんでした。今庄駅の観光案内所にお城や宿場町のパンフレットが置いてあります。

2022年12月09日 ᴿᴱᴰ 副将軍
燧城



柴田勝家が賤ヶ岳の戦いにおいて大規模改修をした城跡🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

北陸街道を抑える要衝に位置し、数々の戦いの舞台となり、多くの城主が入れ替わった城跡です。1183年に木曽義仲が平惟盛を迎え撃つ為に仁科守弘に築かせたのが始まりとされます。南北朝時代には今庄入道浄慶の居城となり、戦国期には越前国守護斯波氏の家臣である魚住景固が城主となりました。1574年の越前一向一揆の際は、織田勢と対峙した一向一揆勢の下間頼照 が籠ったとされます。1583年、賤ヶ岳の合戦の際には柴田勝家が大規模な改修を実施し自らが守ったとされます。

見所
本丸への石段は、2mほどの高さの天然岩をそのまま利用した石垣で区画されています。大手虎口は馬出しと枡形が組み合わされた石垣構造。主郭は横堀が巡り、大手と搦手ともに土橋が架かります。主郭西側の大手土橋側面は補強した石垣が残るも損壊しています。主郭東側の搦手虎口の土橋は西郭との間に架かり、こちらの側面の補強された石垣は見事に残っています。本丸の搦手から2郭を越え、藤倉山への尾根筋には二重の土塁があり搦手側城域の最端部となります。

2022年05月24日 しぇるふぁ加賀守
南越前町今庄宿伝統的建造物群保存地区[燧城  寺社・史跡]



2021年8月2日付で指定されたばかりの新しい重伝建地区です。本陣跡や高札場跡、当時のままの家屋や町並み、通りなどが残っています。

2015年07月10日 課長大和守Ver.B
燧城

城跡への道は今庄宿の旧街道沿いに数カ所あるようですが、新羅神社または観音堂からのルートが分かりやすいです。
説明板は観音堂口にあり、城跡までは約20分程度の道程です。


2012年05月04日 傾奇揚げ仙兵衛
燧城

北陸街道の宿場町「今庄宿」今も古い建物が残ってとてもノスタルジックな町

燧城の周辺スポット情報

 旧板取宿(寺社・史跡)

 今庄宿本陣跡(寺社・史跡)

 今庄宿脇本陣跡(寺社・史跡)

 南越前町今庄宿伝統的建造物群保存地区(寺社・史跡)

 森羅神社(寺社・史跡)

 新羅神社・観音堂前無料駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 今庄まちなみ情報館(関連施設)

 観光案内所・おみやげ販売店(関連施設)

 新羅神社経由登城口(その他)

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