新保山城(しんぽやまじょう)
新保山城の基本情報
通称・別名
- 霞美ヶ城
所在地
- 福井県小浜市新保
旧国名
- 若狭国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 大永年間(1521〜1528)?
主な改修者
- 武田信方
主な城主
- 武田氏
廃城年
- 天正13年(1585)頃
遺構
- 曲輪、帯曲輪、腰曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、櫓台
指定文化財
- 市史跡(新保山城跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
大倉見城(福井県三方上中郡)[6.2km]
小浜城(福井県小浜市)[7.5km]
後瀬山城(福井県小浜市)[8.3km]
熊川城(福井県三方上中郡)[9.8km]
谷小屋城(福井県小浜市)[12.8km]
小浜藩台場(福井県大飯郡)[14.9km]
国吉城(福井県三方郡)[17.2km]
伊井城(滋賀県高島市)[17.4km]
田屋城(滋賀県高島市)[17.9km]
朽木城(滋賀県高島市)[18.8km]
新保山城の解説文
新保山城の口コミ情報
2024年08月04日 RED副将軍
麻生野城[新保山城 周辺城郭]
多重堀切が美しい若狭香川氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。香川氏により築かれたと云わます。
若狭香川氏は、安芸八木城の香川氏の系譜と云われ、どの様な経緯で若狭に入部したのかは分かっていませんが若狭武田氏の家臣であったとされます。
大永年間(1521年~1528年)の城主の名に香川大和守が伝わります。
1568年に内乱が続く若狭国を越前朝倉氏が平定し若狭武田氏は没落。
1970年に織田信長が朝倉義景を討つために熊川にきた際に出迎えた若狭衆の一人に香川右衛門大夫がおり、その後、若狭国主となる丹羽長秀に従属したとされます。
見所
麻生野集落の北側背後の東へ伸びた尾根先端部に築かれています。
西端の最高所に主郭を置き、主郭には愛宕神社があった様で石列が伴う段は江戸時代の神社建立時のものの様です。
主郭から東の尾根上に数段の郭が連なります。
周辺の尾根筋は多重堀で遮断されており、主郭背後の西尾根は二重堀切のあとに小郭を経て更に堀切で遮断。北へ伸びた尾根も連続竪堀と堀切で遮断。東端の尾根先端は北東下と南下に堀切、東下にも二重堀切で堅められています。
行き方は、南麓の宝重寺圓明堂を目標に設定。獣害柵の入り口がありますが、その先は明瞭な登山道はないため適当に取り付き尾根を目指しました。
比高は約130mで、未整備で少ししんどいですが結構ハイレベルな若狭の山城の中でもオススメの山城です。
2024年04月21日 RED副将軍
賀羅岳城(ガラガラ城)[新保山城 周辺城郭]
桝形虎口と竪堀、堀切が見応えある山県氏の拠点🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。天文年間(1532年〜1555年)に山県氏により築かれたと云われます。
山県氏は、一色氏に代わり若狭守護職に任ぜられた武田信賢に随行して若狭に入部し太良荘を領した山県信政が祖とされます。
若狭武田氏は内部抗争により家臣団が二分し弱体化したため、1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、山県秀政は織田信長に従います。
1570年、織田信長に反旗を翻した石山城の武藤友益と新保山城の武田信方らは山県孫三郎が籠もる賀羅岳城を攻め落としたと伝わります。
1573年に越前朝倉氏が滅亡し織田領となった若狭には丹羽長秀が入部。山県氏は丹羽長秀に属し若狭衆として活躍しました。
見所
標高297mの賀羅岳に築かれています。
南北に伸びた尾根上に北側の主郭と南側の二郭で構成され、主郭と二郭の間は石積みを用いた桝形虎口で区切られています。
主郭は北端に石積みで補強された土塁があり、現状は沼地となっています。井戸からの湧水によるものかと想像されます。山頂に豊かな水源があるのは籠城に適した山城であった様です。
北側の土塁背後は堀切により北尾根を遮断しています。
二郭は数段の段差があり、西側に武者走り、南側には高さ1mの一文字土塁が残ります。
城域南端は土橋を伴う堀切で南尾根を遮断されていますが薄めです。
二郭の南西下には巨大な竪堀が落ちています。
桝形虎口、南西の竪堀、主郭北側背後の堀切が見応えがありました。
行き方は、登城口は西側の太良荘と東側の本保の両方にある様です。
折角なので山県氏の菩提寺である長英寺に参拝し太良荘側から登りました。ちょうど長英寺の方がいらっしゃったので車を墓地前に置かせてもらい、登城口を聞きましたが分からないとのこと。
とりあえず谷筋を登っていきましたが、途中で尾根に取り付こうとするもかなりの急斜面を直登することとなりました。
帰りは尾根筋を下りましたが、それでも急斜面であり、どうやら長英寺から更に南側の谷筋から登るのが正しかった様です。
比高はたっぷりの約280mあります。
写真
①②主郭と二郭を隔てる桝形虎口
③主郭北側背後の堀切
④沼地状の主郭
⑤主郭北側の土塁は基部に石積みが残る
⑥段差がある二郭
⑦二郭南側の一文字土塁
⑧南西下の巨大な竪堀
2019年02月28日 カーネル
新保山城
小浜線 新平野駅から直線で4.2km遠いです
駅からちょっと東に行ってから北上します。歩道は雪で埋まっているので、交通量も少ないので車道を歩く・・・
30分歩いてようやく正面に新保城が見える。宮川郵便国の先で、道が左に向かうところで右折して川を渡る。龍泉寺を目指して北上し、山裾で右折して山肌を左に見ながら、白い家の左脇から山へ向かいます
獣よけのフェンスを越えて雪深くなり、道がわからないので直登して小ピークを目指す。ピークに着いたら右折して尾根を登る
すぐに下りに変わり、下り切ったところから雪で埋もれてても道がわかるようになり、堀もくっきり。夏ならさぞや見事だろう・・・と思いを馳せる
山頂への登りがキツイ。と参考にしたHPに書いてあったけど、雪があるとむしろ登りやすい。ただ本丸反対の堀は、腰まで雪に埋まり、本丸に帰るのも一苦労でした
雪山は、転がるように山を下れるので麓までは、あっという間
それでも登りに時間がかかり、駅に戻るまで3時間45分。駅で電車を待つ間、足が凍傷になるかと思った
2017年12月06日 iggy摂政
新保山城
《遺構・続》
さらに3つ郭を越えると南郭南側の大堀切に到達、かなりの高さがあり見所です!
そして、感覚的に10ほど連なる郭を越えると主郭に到達します。
主郭東側に土塁が確認でき、また、北側に掘られた高さ7~8mの大堀切に登山の苦労が報われます。
その北側に北郭(大土塁、二重堀)がありますが木々多く探索していません。
登城時に道を失い南側山麓より山頂目指して急斜面を登っていた際、強烈な竪堀を確認することができました。
急過ぎて谷筋?とも思ったのですが、削られた痕跡があり、後で縄張図を確認したところ竪堀でした。
この竪堀を見ていただきたいとは思いますが、急斜面過ぎて危険ですので無理しないでください。
《参考》
・登城は、低い標高ながらも多少の山の知識(等高線)や登山に適した服装、トレッキングシューズにポール、グローブ等が必要と思われます(私は山の知識無し)。
・登城所要時間は、間違いなく迷うと思いますので参考にならないと思います、時間に余裕のある登城を心がけましょう!
・若狭歴史博物館に縄張図記載の資料本があり、他の山城のものも載っていたので買っちゃいました。
2017年12月06日 iggy摂政
新保山城
《登城口、登山道》
先人の方々のフォトを見て行きたくなり、登城してきました。
県道219号線、宮川郵便局から宮川小学校へ向かう中間ほど「新保」の表示板を東(新保地区)へ進みます。
北側集落の最西端に白い民家があり、西側の脇道から山へ入ったところにある害獣避けフェンスが登城口となります。
フェンスを入ると右寄りの山道らしき道?が山道であろうと進みましたが間もなく道を失います。
下山時に通ったルートを逆に考えれば、フェンスを入って左寄りに(道はない)進み、谷を流れるせせらぎを渡った辺りから北に向かって斜面を登っていくルートが正しい?と思われます。
そのうち、山道らしき道に出ますが地形変化や倒木(大木)により道なき道を尾根道目指して登ることになります。
登りきると見事な鞍部に到達し、これが目印となります。
ここから山頂(北方向)に続くつづら折りの堀底状の道を進みます。
《遺構》
登山道であるつづら折りの道も人工的に掘られた道であると思われます。
尾根伝いに登ると、幾つかの小郭が続きます。
感覚的には5~6の小郭を越えると堀切が現れます。
新保山城の周辺スポット情報
麻生野城(周辺城郭)
賀羅岳城(ガラガラ城)(周辺城郭)
登城口(その他)
まず上城だが、山頂尾根を削平して造成されているため長大な割には幅は狭く、郭は18を数えるがさほど大きなものはない。
最南端の堀切よりゆるやかに下降する稜線上につづら折りの道が続いており、その左右には交互に平場をつくり、北側の谷間に面して帯状郭を三段に構えている。これらはおそらく城の虎口に相当するもので、重要な施設であるが、現段階の調査は十分ではなく再度調査して全容を明らかにした時書き加えたい。したがって本稿では主たるもののみにとどめる。
以上の遺構の終わりが前述の空堀となり、堀の北側谷間の斜面に延長して竪堀となる。
この堀から急激に数メートル上昇して新保側郭内に入るが、最先端郭にはかなり大きな長方形の掘りこみがあり、井戸跡の可能性も考えられるが、これより階段状にそれぞれ2m内外の高さに段切調整して6つの小郭があり、さらに3mほど上って287mの郭に到達する。
新保山城のうち、この郭が山頂稜線上に張り出した最南端にあたり、眺望の良い箇所である。ここからは宮川谷一円はもとより平野方面まで見通すことが出来、上城、下城あわせてもっとも重要な一角である。おそらく主郭の中心的役割を果たすものと推測されるが、郭の中段に一郭を配し、北側では半円形に調整された櫓台が設置されている。さらに西側面にも帯状郭を付属させている。
この郭から2m鋭角に下がった一角は4段の郭で構成されているが、各々郭の段切りは1m内外と低く、馬背状の尾根を削平して造成しているので、新保側城郭のうちもっとも幅は小さい。接点には溝状のくぼみがあり東側斜面に竪堀が認められる。このくぼみはかつて細い空堀であったことも推測されるが現状では判然としない。
次郭はそれより3m急上昇して所在するが、大谷側から登ってくる稜線との接点にあり、この城ではもっとも高所となる。この郭は上城の中では大きい部類に属し、全長50mを測るもので東側の一部に土塁を築き、中央よりやや北側に櫓台が設置されている。この郭は海抜287mの地点に所在する一郭と同じく主郭の北側を守る重要なポイントとなるもので、双方を連接する3つの郭が主郭となるのであろう。