建部山城(たけべやまじょう)
建部山城の基本情報
通称・別名
- 八田城、田辺城
所在地
- 京都府舞鶴市下東宮ノ谷他
旧国名
- 丹後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 一色範光
築城年
- 延元元年〔南朝〕/建武3年〔北朝〕(1336)
主な改修者
- 細川氏
主な城主
- 一色氏、細川氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
中山城(京都府舞鶴市)[1.8km]
田辺城(京都府舞鶴市)[3.2km]
行永城(京都府舞鶴市)[9.3km]
泉源寺城(京都府舞鶴市)[10.6km]
宮津城(京都府宮津市)[12.6km]
上林城(京都府綾部市)[14.6km]
小畑城(京都府綾部市)[15.3km]
河守城(京都府福知山市)[16.1km]
山家城(京都府綾部市)[17.4km]
谷垣城(京都府与謝郡)[17.5km]
建部山城の解説文
[引用元:Wikipedia「建部山城」の項目]
建部山城(たけべやまじょう)は、丹後国加佐郡(京都府舞鶴市下福井)にあった室町時代から戦国時代にかけての日本の城。室町幕府の重鎮として栄えた有力守護大名一色氏の根拠地である八田守護所の背後にあった詰城。八田城、田辺城ともいう。
歴史
南北朝時代の1336年(建武3年)に南朝に味方した豪族によって築城されたとの伝承も残る。
観応の擾乱時に足利軍によって、北朝側の拠点になった。丹後国の守護として、足利氏の一門であった一色範光が入ると、建部山(たてべさん、地元での通称は「たけべさん」[1])の麓にある八田に丹後守護所を構え一色氏代々の居所と定めた。また八田の守護館の背後にたつ建部山に建部山城を築き、戦時の際の城として守りを固める。
一色氏当主が室町幕府の重職(侍所長官・山城国守護)に任命され不在の時は、一門の者が留守を預かり、重臣が補佐した。
戦国時代に入っても一色氏代々の居城として続いたが、1579年(天正7年)に織田信長の命を受けた織田家傘下の武将長岡藤孝(細川幽斎)が丹後を攻撃。各地で長岡氏に敗れた一色軍は建部山城に篭城するが長岡軍の猛攻の前に崩壊する。『一色軍記』によれば、長岡軍に敗れた丹後守護一色義道は、近くの中山城(舞鶴市)に移ったが、同城主中山幸兵衛(沼田勘解由)の裏切りにより自害した。
織田政権下で丹後は一色氏・長岡氏によって二分され、武将の一人として存在が許されていた一色義道の子である義定が当主であったが、居城は弓木城に移った。しかし、本能寺の変後の混乱の最中に義定は藤孝の居城宮津城に誘い出されて謀殺された。
豊臣秀吉によって丹後全域統治を任された藤孝は、良港を抱える宮津城を本拠とする一方、加佐郡における拠点としては平地部にあった八田守護所を改修して田辺城を築城したために、山城である建部山城は廃城となった。
現在の建部山
一部遺構が残る。建部山は、舞鶴軍港を防備する舞鶴要塞沿岸砲台を築くため山頂が削られた後も標高315.5メートルと周囲の山よりもやや高く、同時に「丹後富士」「田辺富士」と呼ばれる優美な形をした山である。加えて山頂から眺める舞鶴湾などの景色が絶景であるため、地元民のハイキングスポットとなっている。また、太平洋戦争後に役割を終えた砲台の弾薬庫なども山頂に残っており、近代史の探訪も兼ねることができる。
参考文献
- 『日本城郭大系』11巻(1980年、新人物往来社刊)
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建部山城の口コミ情報
2024年10月21日 高橋中務丞紹運
建部山城
城の遺構は明治時代に砲台を建てたため、分からないが、少し離れた場所には遺構は残っています。
2019年05月04日 たいら宮内大輔参平
駐車場[建部山城 駐車場]
2台まで
2018年12月05日 カーネル
建部山城
タンゴ鉄道四所駅から
駅をでたら、国道175号を右折して東へ1kmほど進んだ下福井交差点で左折して、県道601号を800mほど進む
左側にゴミ集積場がある家の角で、左斜めに戻る道があり、道の先にはハイキングコースの看板が見えるのでそこへ。ここまで車で来れる
案内から50mほど林道を進むと、登山口があるので山にはいると緩ーく登る。ダラダラと登り続け、駅から90分で山頂
山頂は砲台の説明はあるけど、城の文字はなし。雨だったので霧に霞んでいて雰囲気はあるが怖い
遺構は全く分からず下山を開始する。途中に安寿塚2.5kmの分岐があり、興味があるけど疲れたから見なかったことにして素通りしたけど、次の中山城に行くには、こっちへ向かったほうがよかったかも
来た道を戻り、四所駅へ180分
2014年10月28日 中務少輔きたろう三世
建部山城
登城路は、山の東側の団地内にあり、山肌を40分程度ジグザグに登ると、山頂に着く。
山頂は、明治に陸軍による築城が行われ、戦国時代の遺構は失われた様子。
現在残っている砲台跡は、日露戦争直前に、ロシア軍の舞鶴制圧からの日本列島分断計画を阻止するために築かれた。建部山堡塁は、付近に上陸し、舞鶴港に進軍しようとするロシア軍を撃滅するためのもので、周辺には、当堡塁以外にも、舞鶴港防御のための要塞が複数残っている。
第二次大戦期には高射砲が設置されたが、すでに本来の役目を終えていたこともあり、戦果は上げられなかった様子。
建部山城の周辺スポット情報
駐車場(駐車場)
登城口 此処から3km(関連施設)
展望台(その他)
建部山ハイキングマップ(その他)