筑紫氏館
筑紫氏館([勝尾城筑紫氏城館 周辺城郭])
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筑紫氏館の口コミ情報
2023年09月14日 血圧高い系男子RED副将軍
九州北部の有力国人であった筑紫氏の居館🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
1423年に九州探題として勝尾城に入った渋川義俊の時代に築かれた可能性もありますが、1497年には大宰少弐武藤氏の一族である筑紫氏の居館となっていました。
筑紫氏は、藤原氏の系譜である武藤氏の庶流とされます。鎌倉時代に源頼朝の命で武藤氏は筑前、豊前、壱岐、対馬を総括する鎮西奉行として下向し、大宰府を本拠に少弐氏を名乗りました。少弐氏の有力な一族が筑紫氏であり、1497年頃に九州探題の渋川氏を追い出して勝尾城を整備し、麓を筑紫氏三代の居館として約90年間機能しました。
1586年に北上してきた島津氏の侵攻により落城。しかし、三ヶ月後には筑紫広門は豊臣秀吉の九州征伐に乗じて勝尾城を奪還。九州征伐に従軍し筑後国上妻郡に領地を得ましたが、その後転封となり廃城となりました。
見所
国史跡に指定されている#勝尾城筑紫氏遺跡 を構成するひとつです。
背後の山頂にある勝尾城を詰城とし、周囲の山上に築かれた葛籠城、鷹取城、鬼ヶ城、鏡城、若山砦が囲む強固な立地です。
現在は、筑紫神社の境内となり勝尾城への登城口でもあります。
台所、主殿、会所、庭園の跡地に、南東には石垣造りの虎口が残ります。
2022年02月26日 龍馬備中守【】
佐賀県の鳥栖市にある【筑紫氏館】♪
筑紫氏の約90年間の城下町遺跡は居城及び支城群から構成されます☆勝尾城筑紫氏遺跡(勝尾城、葛籠城、鏡山城、鬼ヶ城、鷹取城、若山砦と筑紫氏館)の1城として、この勝尾城を本城にした筑紫氏の居館跡となっています☆
九千部山の南の城山一帯に築かれた城館群は一乗谷に匹敵する規模を持ちます☆南流する安良川の西岸に立地し『お館(おたち)』と呼ばれるのがここ筑紫氏館であります♪北の背後には本城・勝尾城、北西に鬼ヶ城、東に若山砦、南東側には最前線の支城群・葛籠城、鷹取城、鏡城、若山砦、更には総構えをも持ちます☆
コレ程の規模をもつ戦国の山城は肥前国(佐賀、長崎)には無くて筑紫氏90年の歴史も色濃く残ります☆
元々は九州探題の渋川義俊が博多を追われてコレを築城したと伝わります☆その後、渋川氏、少弐氏、筑紫氏、大内氏の各諸将によって攻防が繰り返されます☆
筑紫広門が城主の時には龍造寺隆信に攻められていて降伏。更に龍造寺氏、大友氏の狭間を行き交う筑紫広門は九州統一を目論む薩摩島津氏と激突☆沖田畷の戦いで戦死した龍造寺隆信から鞍替えをし大友氏に属した筑紫広門は島津家久に攻められ、この巨大な城郭群は落城☆以後、廃城となります☆
筑紫広門は豊臣秀吉の九州統一によって、筑後国(現八女市)を与えられて、その領主となりました☆
この勝尾城筑紫氏遺跡の総構えですが、過去には長大な空堀がありました(現在は30m位しか残っていません)☆この直ぐ脇に川上左京亮の墓と伝わる場所があります☆沖田畷の戦い時に龍造寺隆信の首級をあげた川上左京亮ですが、島津方の川上左京亮は、この城山攻防戦で鷹取城主・筑紫春門と組み打ち刺し違えたと云われ、この戦いにより戦死しています☆
関ヶ原の合戦で筑紫広門は石田三成方の西軍に属した事で筑紫氏は改易☆そして事実上、歴史の表舞台から姿を消す事になります…☆
7番目の写真は30m残る総構え♪
8番目は川上左京亮の墓と伝わる場所♪