海津城(かいづじょう)

海津城の基本情報

通称・別名

所在地

福岡県久留米市安武町大島

旧国名

筑後国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

茨城重政

築城年

永正5年(1508)

主な改修者

主な城主

茨城氏、安武氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

城島城(福岡県久留米市)[5.3km]
久留米城(福岡県久留米市)[5.6km]
生津城(福岡県久留米市)[6.3km]
堤土塁(佐賀県三養基郡)[7.4km]
朝日山城(佐賀県鳥栖市)[8.4km]
吉野ヶ里(佐賀県神埼郡)[8.5km]
高良山神籠石(福岡県久留米市)[8.7km]
鎮西山城(佐賀県三養基郡)[9.0km]
直鳥城(佐賀県神埼市)[9.3km]
姉川城(佐賀県神埼市)[11.0km]

海津城の口コミ情報

2021年06月28日 龍馬備中守【】
筑後田川城[海津城  周辺城郭]



福岡県の久留米市にある【筑後・田川城】♪住宅地に残る城郭は遺構を残しません☆昭和の頃までは境内の四囲に土塁を伴う堀が残っていた様ですが今はその面影はありません☆

高良宮玉垂神社一帯が城郭だった様で神社は一段高めに残っています♪コレのみが往時を感じれる手がかりになっています☆

この城郭は土豪・田川氏の代々の居城となります☆天正元年の戦国時代に龍造寺軍が筑後に侵入して来ていて西牟田氏の居城・西牟田城を攻めました☆田川城主・田川長門守は西牟田氏の娘と結婚していた為に西牟田勢の援軍として西牟田城に向かいましたが、その途中に龍造寺軍の伏兵に襲われて討ち死にしています☆田川氏が討ち死にした現在その地には『殿様松』と呼ばれる老松が残ってます☆そして、その後、西牟田氏は龍造寺氏に属しています♪
田川氏に関しては不明な点が多くて歴史詳細の多くが不明です☆
また同じく戦国時代に田川越前守は三十七町歩を領していました☆という事は残ってます☆

神社しか撮って無かった…wここが城郭の中心部です♪そして…最近狛犬君にハマっている…w

2021年06月09日 龍馬備中守【】
中津隈城[海津城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡にある【肥前・中津隈城】☆北茂安町の平坦地を見下ろす丘陵地に設けられた平山城となっています♪古くは鎌倉時代、南北朝時代は中津隈荘(荘園)となっていました☆

鎌倉時代には松浦氏一族の中津隈氏が居たと伝わっています☆南北朝時代には北朝方の勢力が中津隈に要害を構えて南朝の少弐・菊池勢と戦っています☆この頃には城郭として機能していたと思われます☆更に戦国時代には豊後・大友氏の軍勢が肥前国へ攻め入りこの中津隈に陣所を構えてます☆
また北肥戦誌には『隆信(龍造寺の事)先づ当城を開きて帰陣すべし、犬塚三郎右衛門家広を崎村(崎村城)より中津隈に移し、姉川中務大輔信安を姉川(姉川城)より米田(米田城)に移し、横武(横武氏)が知行の内を米田村にて百町押し取り信安に給はり』と残っていて崎村城主・犬塚家広が龍造寺隆信から中津隈を賜り築城しました☆
コレは恐らく元々は松浦氏の一族が居館したものを後に犬塚氏が城郭へと変化させていったモノと思われます☆

徳音寺の南東に「館(タチ)」その西側には「館堀(タチボリ)」と呼ばれる場所があってこの辺りが中津隈氏の館跡と考えられています☆高台に位置する北側の宝満神社境内には土塁が残っていて、これが犬塚家広が造った中津隈城(要害)の遺構と思われます☆

因みに犬塚家広の子孫達は後に鍋島直茂の家臣となり生きていきました☆


2021年06月08日 龍馬備中守【】
板部城[海津城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡の北茂安町にある【肥前・板部城】♪農村地の中に城郭はヒッソリと残ります☆

鎌倉時代に源頼朝の奥州征伐時に活躍した功で板部成尚はこの地を与えられています☆
板部氏はこの地に土着してきますが板部城との関係は分かっていません☆板部氏は室町時代には衰退して行ってしまう訳なんですが板部氏の詳細は不明な点が多いです☆三養基郡のみやき町にある光浄寺は在地領主・板部成尚の開基が開山している為、肥前・板部城はやはり板部氏の根城だったと思います♪

城郭は物部神社の西にある南北に舌状に伸びた台地上に築かれました☆宅地、畑になっている部分もあり完存では無いものの堀底道を残して分かりにくいですが、土塁も残ります☆

2021年06月08日 龍馬備中守【】
千栗土居[海津城  遺構・復元物]



佐賀県のみやき町にある【千栗土居】☆城郭ではありませんが、治水の神様である佐賀藩の重臣・成富兵庫茂安が築いた堤防になります☆北茂安と三根町を結ぶ堤防は長さ12㌔という素晴らしいものになっていて千栗神社下から下流にある三根坂口までを結ぶ大堤防を築きました☆

コレは筑後川の氾濫、水害を防ぐ為事を目的としたモノですが大堤防が完成した代わりに対岸である久留米藩が、しばしば水害を受ける事になり、その為に『鬼兵庫』とも呼ばれました☆

現在は一部を保存するのみにはなりますが、千栗土居の恩恵を受けた流域の住民は成富兵庫茂安の名前を取り北茂安・南茂安という地名を付けました♪

佐賀城、佐賀城下の近隣を流れる多布施川♪城内、城下の生活用水などなど成富兵庫茂安の功績で肥前国には多くの生活堤防が残ります☆

2021年06月07日 龍馬備中守【】
千栗城[海津城  周辺城郭]



佐賀県の鳥栖市にある千栗城と千栗八幡宮☆千栗八幡宮の西に400mの場所が御嶽山跡で城域となっています☆
但し採土の為の為に御嶽山、千栗城ともに失われました☆遺構らしきものは見当たりませんでした☆

千栗城は南北朝時代に足利尊氏の部将・小俣道剰の築城に成ると伝わります☆
足利尊氏は東上に際し一色範氏を博多に留めて鎮西探題としていて、綾部城とコノ千栗城を築かせて菊池方に対する抑えとしました☆

筑後の菊池勢を討つ為に上野頼兼が肥前の兵を率いて千栗城に入り拠点として筑後で転戦をしています☆

以後は探題と菊池氏の間で千栗城は争奪戦となっていきました☆のちに一時廃城となったとされていますが、千栗八幡宮の社伝によれば南北朝時代に少弐頼澄の甥の少弐頼資が城郭を修理して代々、千栗八幡宮の祠人として更に武事に従事していました☆
コレによって中世の千栗八幡宮の大宮司は武力を蓄えました☆大宮司は養子に従軍について軍忠を上進し足利尊氏の評判を受けています☆そうです♪千栗八幡宮も城郭の性格を持つ神社という訳なんです☆

戦国時代には勝尾城の出城となっていて宗次郎左衛門が入りました♪筑紫古書文には『此城龍造寺江渡す』と出ています☆

この千栗城と千栗八幡宮はめちゃくちゃ近いです☆恐らく一つの城郭として機能していたのでしょう☆

後は肥前・狛犬です☆
特徴的な狛犬は癖があって可愛いで〜す☆

2020年12月21日 鬼羊大学助与六
海津城



本当に何もない田んぼの道端に唐突に石碑があります。恐らく当時は何も遮るものもなく遠くから城の場所が見えたことでしょう。
恐らく圃場整備されており何も遺構はないように思います。

2020年11月30日 こにゃんこ武将
海津城

四方を田畑に囲まれていて、そばに筑後川。遠く九州の山々を望むことができます。なぜこの地に城を築いたのか、尋ねてみたくなるお城です。もしかすると平和な時代を予見してのことだったのかな、と妄想が走り出す城跡でした。

2011年08月21日 筑後守もんど
海津城

周りはぐるっと畑でした。

2011年08月21日 筑後守もんど
海津城

城主 安武安房守鑑教

河内国よりやってきた安武氏の城
龍造寺家に従う。

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