隈城
隈城([海津城 周辺城郭])
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隈城の口コミ情報
2024年12月14日 龍馬備中守【】
福岡県久留米市の大善寺町夜明にある、【隈城と大善寺】♪夜明集落は、広川の右岸でやや微高地となります♪西側には筑後川が流れる場所に、城郭は存在しました♪古代『和名抄※平安時代に作られた辞書』に夜開郷があり、ヤケと記されています♪永仁5年(1297年)近藤文書にも『みぬまのやけ』とあり、コレは現・三潴の夜明の場所です♪地内には夜明神社があるのですが、境内にある乙名塚は、国司であったという筑後国司道君首名の墳墓と伝わります♪
この夜明神社から西側の場所が、隈城と伝わります♪
夜明村として、鎌倉時代〜戦国時代からある村名で、三潴荘の内です♪この三潴荘ですが、現・三潴郡と、大川、久留米、筑後、柳川各市にまたがるほど広域に渡り、平安末期には、宝荘厳院領として経営されています♪
鎌倉初期に一時、和田義盛が地頭に補任されますが、後期には一部が元寇の恩賞地として、肥前の山城氏、白魚氏などに給された為、在地領主との間に深刻な対立を生みだしたりもしました。弘和2年・永徳2年(1382年)には、三潴荘は鷲尾家の領有するエリアになり、戦国時代の明応元年(1492年)までは鷲尾家の領家職保有が確認されますが、この頃の三潴荘は、守護大友氏の領国支配下にあり、その実、支配は消滅していたのでしょう。
さて、この隈城ですが、詳細不明です。
永仁5年(1297年)近藤文書に『みぬまのやけのうち』とあり、荒木宗心は三潴荘夜明の内の家10ヶ所などを、嫡男の『六郎むねすみ』という人物に譲っています。
下り南北朝時代の貞和2年(1346年)三潴荘鎮守社高良玉垂宮政所・広右法師は、重代相伝の上、当知行をしている夜明村蔵数屋敷1ヶ所を、将来の為に確認してほしい旨を言上しています(梅津文書)。これに対し、翌貞和3年(1347年)得王美麗という人物は、夜明村内屋敷1ヶ所は、三潴荘領家の下文と相伝議状により、自分の所有である事は明白だと、薬師美麗(高良玉垂宮政所広右法師の事か?)の不法を主張しています。得王美麗と薬師美麗(広右法師と思われます…)は、三潴・鰺坂両荘の師子勾当職や、北野天満宮田楽政所職などを勤めた美麗家の一族で、当時これらの所職をめぐって、両家は争っていました…。
夜明村屋敷をめぐる争いも、その1つなのです。夜明村屋敷=隈城なのかもしれませんね。
イマイチ、分からない事ばかりでしたが、戦国時代の明応元年(1492年)には、鷲尾家の領家職保有となっている為、鷲尾家が城館、城郭化させたのかな?筑後平野も佐賀平野も、集落が外部環境(軍事的な緊張)により、城郭に発達するケースは多い為、集落から城郭へ。ということが、この夜明にも同様に、起こっていたのかもしれません♪
大善寺についてですが、大善寺町宮本に鎮座する大善寺玉垂宮は、白鳳元年(672年)の建立と伝えられ、現在の祭神は玉重命・八解大神・住吉大神の三神です。
早くから領内に高法寺、後に船山大善寺と称した神宮寺が建立され、以後、神仏習合し繁栄しました♪弘化5年(814年)には、嵯峨天皇の勅命で三池郡司師直により、殿堂・楼門・回廊などが造営され、盛時は45坊、社領3000町だったと伝わります。
中世には豊後の大友親匡の社領寄進などもあり、地域の宗教勢力として力を奮い、大いに栄えています。近世に入ると、小早川秀包から社領を没収され、一時的に衰退するも、その後、田中吉政・有馬豊氏ら国主の社領寄進があり、復興しました。江戸時代は、天台宗座主と大祝隈氏により運営され、地域の宗教的な中心として崇敬を集めていますが、明治2年(1869年)神仏分離により寺が廃止され、玉垂宮のみが残り、現在まで人々の崇拝を集めています。
因みに、佐嘉の勝尾城を本拠地とした筑紫氏ですが…。
天正14年(1586年)薩摩国の島津氏は九州統一の為、筑前国への侵攻を開始しています。筑紫氏は島津氏とも連携していたにも関わらず、島津氏侵攻の直前になって大友氏へと降った為、筑前国の要衝である勝尾城は、島津軍の格好の標的となり、合戦が行われています。勝尾城は島津忠長の攻撃を受け、麓の総構えが破られ、結果、落城。勝尾城主の筑紫広門が、降伏し一時幽閉されたのが、この大善寺です。その後に、挙兵して勝尾城を奪還していますが。
集落になっている為、隈城の遺構は分かりません。が、南側の水路となっている部分が濠か?現在、微高地になっている部分が、主要部と思われます。夜明神社の場所も城域か?最早、集落からの発達と思える城郭なので、村民皆んなで寄り添って守っていたのでしょう。
隈城から広川を挟み北東側には、大善寺が残ります。大善寺の北側には、中世大善寺土塁遺構が残ります。