杉ノ城

杉ノ城([高良山神籠石  周辺城郭])

高良山神籠石 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「杉ノ城」の地図・口コミがご覧頂けます。

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杉ノ城の口コミ情報

2024年07月04日 マグロ常陸介祐平


筑後の一の宮である高良大社の背後の尾根が城址となります。お城の歴史については、久留米市のサイトでは「南北朝時代に菊池氏が籠城したととも伝わるが来歴ははっきりしない」とあっさりしていますが、Wikiでは、
・1336年菊池武敏がこの城と毘沙門岳城を本拠地として大宰府の少弐氏をを攻撃(1500騎で籠城)。
・1359年菊池武光に奉じられた懐良親王が布陣し、少弐・大友氏と対決。
・1372年大宰府陥落の際に征西府が設置される。
・1564年筑後に進軍した大友義鎮が本陣として筑後平定を進める。高良山座主良寛も従う。
・1580年龍造寺隆信に攻められ良寛追放。
・1584年沖田畷の戦い後に立花道雪と高橋紹運が布陣。
・1586年島津家久に攻められ焼亡。
とビックネームが並びます。
実際に見てみると尾根を利用したお城ということで、曲輪もかなり狭く(写真5枚目)、大軍が駐留出来る感じには思えません(すぐ下の高良大社を利用?)。

お城は、高良大社のすぐ裏にある神籠石の坂道を西端の堀切(写真8枚目)として、ピークに二段の曲輪があります。下段の曲輪の北側には西側のやや広めの竪堀(写真4枚目)を起点に小刻みに30条ほどの畝状連続竪堀(写真6枚目)が見られます。通路からは少々薮に入ることになりますが、必見の遺構ですね。落ち葉の堆積が激しく薄めではありますが下草が少なめです。南側は傾斜もあり遺構は見られませんが、周囲には横堀(写真3枚目)や石積み(写真7枚目),堀切(写真2枚目)などもみられ、オススメのお城です。

2022年02月06日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


福岡県の久留米市にある【杉ノ城】♪別名を住厭城と呼びます☆高良山中に所在する中世の山城は正確な築城時期、築城者は共に不明の城郭となります☆

但し、高良神が西征の際、この杉ノ城を本城にしたと云う伝えも残っています♪
『住飽 城跡アリ 大谷ノ上 杉城トモ云 菊池氏ハ千五百騎ニテ籠城也』と残り南北朝時代に北部九州を手中に治めた菊池氏が出て来る☆つまり南北朝時代には城郭はあったと推測が出来ます☆南北朝時代に菊池氏が築城したと云うのが定説になっています☆
毘沙門嶽から伸びる尾根線上に♪個人的にはもっと古くから砦程度のモノはあったんじゃないかなぁ〜❓とも思います☆
高良山神籠石(古代山城)がそれを物語ます☆高良大社廻りには多くの城郭が存在した事は前に述べましたが、高良大社の背後に位置する杉ノ城はヤハリ高良大社が運営し城郭寺院として活用した可能性が高いと思われます☆
古代山城の高良山神籠石に中世の山城の数々☆更には筑後の一の宮と呼ばれる高良大社です♪古くから多くの戦乱を勝ち抜いて来た場所に間違いはありません☆
人々は古来より高い場所に陣を張り、initiativeを取りに行った☆
大和朝廷より命じられ古代には高良山神籠石を築き平安時代には高良大社(筑後国の一の宮として地域筆頭の格式を朝廷から賜る)を築き大社を護る為に戦乱には城郭を築いた☆
戦国の乱世には、豊後国の大友氏も薩摩国の島津氏も肥前国の龍造寺氏も更には太閤となった豊臣秀吉まで(吉見岳城口コミ済)♪
皆んな一度はこの高良山に陣を張りました♪
寺院と戦国武将とは京の比叡山同様に切っても切れない関係だと云う事は何度か述べていますが、ここ高良大社、更には杉ノ城を含む周辺城郭達は、つまりそう云う事なんでしょう☆高良大社は戦国大名化してカナリの幅を利かせていた☆容易に想像がつきます☆

城郭には堀切、土橋、切岸、郭、虎口、石積み、何でも残ります♪更には畝状竪堀群まで残っています♪戦国時代後期まで使用されたのでしょう☆この高良山は妄想の宝庫ですw

何度でも足を運んでしまう素敵な城郭です☆

写真の石列は高良山神籠石♪
写真の建物は格式の高い高良大社です♪

2021年11月25日 RED副将軍


別名を住厭城(すみあけじょう)。
名城が多い耳納山系の中世城館のひとつで高良大社の背後から直ぐの城跡です✨

オススメ度 ★★★★⭐︎

高良山山頂から西方の標高約310mの尾根に位置します。山頂には毘沙門岳城、周辺にも吉見岳城等の城跡が点在しています。

南北朝時代に菊池氏によって築かれたと言われています。筑紫平野に突き出した高良山は、筑紫平野を一望できる交通の要所であり、九州の要と見られ、高良山をめぐる戦いが繰り広げられていました。

戦国時代には大友氏の城となり、1580年には龍造寺隆信が侵攻し攻略。その後は再び大友氏が奪還したと言われています。廃城時期は不明です。

見所
城域北側には畝状竪堀がビッシリ残ります。東郭の東側には土橋付きの二重堀切にて城域端部を防御。東郭北側には深い横堀が確認できます。

写真
①②城域東端の二重堀切には土橋が架かる。
③主郭。
④城域西端の堀切は登山道で薄め。竪堀が落ちる。
⑤⑥城域北側には畝状竪堀がビッシリ。
⑦⑧東郭北側の横堀。

2021年03月02日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


福岡県の久留米市にある杉ノ城♪別名を住厭城と呼びます☆

高良大社のある高良山の山頂に位置する毘沙門岳城から西に伸びる尾根上に城郭は展開されています☆

この高良山もまた山城が多くて、古くは高良神籠石、鶴ヶ城、毘沙門岳城、吉見岳城に、ここ杉ノ城☆更に西側には鷹取城、発心城、発心本城と激戦に塗れていたエリアとなっております♪眼下には久留米市が見え遠くは鳥栖方面☆西には龍造寺氏が抑える肥前国☆東には大友氏が構える豊前・豊後国☆秋月氏が睨む筑後、筑前国とも交わる交通の要衝地になります☆

この杉ノ城は古くは南北朝時代に菊池氏によって築かれたと伝わります☆
戦国時代には大友氏の城になり直ぐに龍造寺隆信が攻略☆その後再び大友氏が奪還しました☆この2つの勢力が、菊池氏時代の杉ノ城を拡大、改修したのでしょう☆
主要部分の切岸側面には連続畝状竪堀☆その数は30条近くあります☆北側の街道側に向けられています☆後、同山、別峰の斜面に明らかに人の手が入った様な痕が♪畝竪状になっているので此れも写真に上げておきます♪

自分が思った事としてはこの辺りに目紛しく立地する城郭群達は同山にある高良大社の力が強く働いている様な気しかしません☆
農民も時には戦時に向かっていた乱世の時代ですから高良大社とゲキ近の場所にあるコレらの城郭群は紛れも無く配下に加えられていた訳で居住は勿論、時には戦時に向かっていたのでは無いか?戦で負けてしまった場合の敗戦処理後は殺されてしまうかもしれない時代なだけに傍観すると言う事はしないし出来ないでしょう☆何らかの形で関わっていた事は間違いないでしょう☆
情報も金も集まってくる自社仏閣だからこそ石山本願寺や叡山の様な『城郭寺院』だったんでは無いか?杉ノ城に関しては高良大社を取込む様な形で位置しているのでそんな疑問が湧いてきました☆もう少し掘り下げてみるか〜☆とその場を後にしました♪(*´∀`*)

駐車場は高良大社の駐車場をお借りしました♪
全く登らないので直ぐに行ける城郭でオススメです♪


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