横溝氏館
横溝氏館([生津城 周辺城郭])
生津城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「横溝氏館」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
横溝氏館の口コミ情報
2024年09月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
福岡県久留米市の三潴町高三潴にある【横溝氏館】♪筑後平野のほぼ中央部で筑後川下流左岸、長峰筋の洪積台地の縁辺に立地した、中世の居館跡です♪地名の由来は古代水沼(水間)と称し、中世には三潴荘と記載があります♪
古代より海退現象によって形成された、広大なデルタを望む地は微妙に高台となっていて、往時はすぐ下に海が来ていた海退現象による僅かな高台が残っていき、この付近が三潴荘の中心地だったとされます♪
中世にも出てくる高三潴村は、鎌倉時代〜戦国時代に見える村名です♪正元元年(1259年)の将軍家政所下文(河原文書)によると、横溝五郎(生阿)が三潴庄内高三潴村の地頭に補任されています♪この横溝氏の居館という訳であります♪
南北朝時代である貞治4年(1365年)室町幕府2代目将軍・足利義詮は筑前安楽寺に九州探題の渋川義行の九州下向を告げ、天下静謐祈禱の為に横溝左衛門次郎に高三潴村田地20町などを寄進しています♪
更に永享9年(1437年)『高三潴村内横溝分壱町』などの田地が横溝助三郎に与えられています♪この頃までは横溝氏の名前は出てきますが永享頃に夜明(現久留米市大善寺)へ移り川原氏を名乗ったとされます♪
横溝氏館の東側には弓頭神社があり、この神社の西に入る小路は横溝と呼ばれています♪この小路より西の道路に囲まれた一角、東西52間×南北42間の地が館域とされます♪以前は濠を巡らし少し高めの土地であったと云われています♪
岸ノ江の地名や字北小路に最着塚があり付近には往昔船着場があったと伝わります♪久留米柳川往還と榎津町(現大川市)方面に至る街道(通称肥後街道)が通り字北田一里塚がありました♪
因みに高三潴村には天正6年頃に高三潴式部少輔という人物が居た事も分かっています♪筑後領主附には、高三潴に依り300町余を領するとあって、場所は違えど同村に居館を構えていた様です♪高三潴氏の居館の場所はイマイチ良く分かりませんでした。。