石井樋
石井樋([佐賀城 遺構・復元物])
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石井樋の口コミ情報
2021年06月11日 龍馬備中守【】
佐賀県の佐賀市にある【石井樋】♪ 嘉瀬川の洪水防止の目的と多布施川への取り水の為に成富兵庫茂安が江戸時代に築いた分水施設となります☆
多布施川は以前から佐賀城下の用水・下流の灌漑用水・舟運など城下町の経営と農業用水の確保に欠かせない川でしたが、洪水による井堰の破損などで用水の確保が難しい状態でした☆明治時代の長崎県の河上川筋等についての問答書には次の事が書かれています☆
北村から多布施川に通ずる分水はこだいからの事でつまびらかではない。とあり佐賀への流水は鎌倉時代にはあったモノで、と古書には記載されてます☆藩史にも『元亀二年北村の井関普請』と記されています☆という訳で鎌倉時代頃からはあった様です♪
その後、成富兵庫茂安が分水口を石井樋に変えて『象の鼻』や『川中島』を築き『天狗の鼻』を奇工し水流を循環させて石井樋にも巡らせました☆余水は島と井樋の間から、また本流に流失させました☆戸立を設けて橋を『島とり橋』と呼びました♪
成富兵庫茂安は佐賀で治水の神様なんです☆
『水にさかわらず』の立場を取りこの石井樋を設け洪水に対しては野越で溢水を遊水池に導くなど往時最新の土木技術を見せました♪
中小河川やクリークとか江湖等を巧妙に結び付け平野全体で治水、利水、排水を処理するというシステムを造り上げました☆この功績により江戸期を通じて佐賀藩では水争いや百姓一揆による暴動がほとんど起こらなかったんです☆凄い事ですね♪
その後も佐賀県に多くの堤を築き(千栗堤防、横落水路、中原水道、羽佐間水道、三方潟の大日堰などなど)川の流れを調節して多くの民を守りました☆
更には成富茂安の死後、時は流れて明治時代に入り、この内政手腕は明治天皇にも大いに賞賛される事になります♪この功績で従四位を追贈されました☆
荒くれ武将からいつしか『治水の神様へ』現在の佐賀県の治水事業は成富兵庫茂安から始まりました☆佐賀県のクリークや城下町用水から佐賀城を守る水堀♪見る目が変わりました☆