倉戸城
倉戸城([直鳥城 周辺城郭])
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倉戸城の口コミ情報
2021年08月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の神埼市にある【倉戸城と倉戸環濠】☆田手川と馬場川の合流点の、中洲北側の平地部に城郭は存在しました☆倉戸城は遺構は一切無しで現在は田んぼになってしまっていて、倉戸環濠は、その東側に隣接します♪地域のおじいちゃんに倉戸城の場所は確認しました☆おじいちゃんが子供の頃は田んぼではなく森が存在していたそうでその森が倉戸城だった様です(現、田んぼ)☆鎌倉時代から倉戸郷として存在し蒙古合戦の恩賞地として肥後国(現熊本)大野田嶋十郎幸隆と、同じく肥後国の大野岩崎太郎なる者に倉戸郷内の田地が配分されています☆更にこの倉戸郷は託田の詫磨氏にも配分されていて、この三氏が領しています☆詫磨氏に関しては託田も配分されている為、中々の広範囲にわたる領地を獲得している事が分かります☆中世の鎌倉期から室町期の詫磨道覚譲状案に初見として名前が出てきます☆この詫磨状案には、たくたのかう(託田郷)と、くらとのかう(倉戸郷)とその名前が記されていて、かつて詫磨直秀が幕府より与えられた土地でした☆詫磨道覚は、これを嫡男の『たけくま丸』に譲っています☆また南北朝時代の建武2年に本告氏、田嶋氏、香田氏の三氏が倉戸郷内の土地の地頭職を持っていました☆戦国時代になると小田弾正弼鎮光は東肥前に勢力を張った西島の在地豪族・横武資誠に『取成可申御領地之事』として5ヶ所をあげ、その中の1ヶ所に倉戸の名前が出てきます☆更に豊後国・大友宗麟の勢力を防戦していた龍造寺隆信は対大友戦で戦死した犬塚長門守鎮直の子『百十丸』へ倉戸郷の内の曽我部ヶ里を安堵しました♪また大友宗麟は横武資誠の孫、横武中務大輔(横武鎮貞)に『倉戸郷百四拾町』を含む神埼郡内の土地を預けています☆龍造寺隆信に大友宗麟に共に同土地を与えているという事はカナリバチバチなやり合いがあったと想像出来ます☆因みに倉戸集落には荒堅目遺跡という遺跡があります♪有明海からの対外交流の歴史を物語る弥生時代の遺跡です☆この時代から対外交流です☆進んだ文化が入り込んでいた証拠ですね〜☆『櫛田大明神由緒記』には櫛田宮造営の木材を倉戸津へ船で運んだとあり、当地に「津」が置かれ有明海だったという事が分かります♪この荒堅目遺跡からの出土遺物には、木簡や帯金具・硯など役所施設などで多く見られる遺物や、緑釉陶器や墨書土器なども多数見つかっています☆凄いです☆