晴気城
晴気城([千葉城 周辺城郭])
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晴気城の口コミ情報
2022年02月04日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の小城市にある【晴気城】♪肥前・千葉氏の初期の城郭(山城)となります☆別名を西千葉城とも呼びます☆千葉胤貞は南北朝時代に下総国より小城に下向してきました☆
この晴気は平安時代より晴気庄として成立したと考えられています☆鎌倉時代には藤原隆頼宛、源頼朝消息に『筑紫ニ肥前ニ晴気領と申候ところ一所、為御志所令進候也』と残り源頼朝から尾張少将隆頼に与えられています♪その後は藤原隆頼の嫡子、参河前司藤原成亮に譲られています☆一時、宗像神社大宮司の荘園として成立しますが、その後は小城郡支配の実力者に名乗りを上げた肥前千葉氏が押さえていきます♪
結果的に肥前千葉氏の荘園侵略により晴気庄は荘園としての機能を終えたと考えられています♪
さて♪晴気城は西晴気の西方の城山と呼ばれる標高200mに立地しました☆
戦国時代の初期に土一揆合戦の後、肥前千葉氏は二家に分かれますが、吉田の千葉城に拠る東千葉に対して、この晴気城の西千葉と呼ぶ様になります☆少し時が進み千葉胤資の時には少弐政資と少弐高経と籠城戦を展開し、東千葉の千葉興常が率いる大内軍と戦い、敗北しています☆
千葉胤資は此処で討死、少弐政資は多久の専称寺で自刃、少弐高常は市ノ川(現、佐賀市富士町)で自刃☆その後も大内氏、少弐氏の力がブツカリこの晴気城では何度か攻防戦が繰り広げられました☆
龍造寺隆信の支援を受けた牛尾城(口コミ済み)城主・千葉胤連♪
少弐時尚を擁した、晴気城主・千葉胤頼を攻めて落城に追い込んでいます☆
少弐時尚は神埼にある勢福寺城へ逃げ込みますが耐え切れなくなり自殺☆コレにより少弐氏は絶え晴気城主・千葉胤頼も討死しています☆
城郭遺構としては削平地(郭)箱堀状の堀切、尾根を切断した堀切、土塁等が残っています☆斜面鋭い山肌が印象的でした☆
有事に籠った山城の晴気城に対して居館は寄居一帯にあったと思われます☆
明確な登山道はありませんでした☆
等高線を見ながら行かれてください☆