多久御館
多久御館([梶峰城 周辺城郭])
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多久御館の口コミ情報
2024年06月01日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の多久市にある【多久御館】♪梶峰城の北側の平野部で、牛津川と小さな河川が合流する左岸に後多久氏の居館は存在しました♪
現在は一段高まり、畑となっている為、遺構は残りません。この地は中世の頃より、多久氏が在地領主として勢力を振るいました♪この元々いた多久氏を前多久氏と呼び、後に龍造寺長信から多久に所領を賜った多久氏が後多久氏と呼ばれています♪
後多久氏は別称を水ヶ江龍造寺氏とも呼ばれます♪戦国大名である龍造寺隆信の実弟・龍造寺長信(前多久氏の後の梶峰城主)の嫡男で、初代・多久領主の安順が後多久氏の祖となります♪龍造寺隆信が水ヶ江龍造寺氏から本家筋の村中龍造寺氏の相続者になった際に、水ヶ江家の名跡を継いだのが龍造寺長信であり、水ヶ江の流れを組みます♪
安順は『文禄・慶長の役』に参加し、その戦の引き揚げの時に、朝鮮から同行した陶工の李参平らを多久で預かり、肥前国磁器(伊万里焼)の源流を作りました♪関ヶ原の戦いでは主家に従い西軍に属しながらも、徳川家康に大量の米を送っています。慶長12年(1607年)龍造寺氏本家である龍造寺高房が死去し断絶すると、それを引き継いだ鍋島氏に重用されています♪以降の後多久氏は、親族と同等の待遇を得ており、佐賀藩請役を務めました♪
この多久御館に関しては、あまり利用されなかった様ではありますが、2万1700石余の多久領はその家臣達が守りました♪
後多久氏の当主は、佐賀城の多久屋敷で政務を全うしております♪
現在は畑になっているものの、そこは高まりを見せます♪東側の川には『唐堀』という名前が付いており、天然の濠として利用した事でしょう♪畑に立ってみて、御館を想像してしまいました♪