波多城
波多城([岸岳城 周辺城郭])
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波多城の口コミ情報
2022年05月03日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の唐津市にある【波多城】♪中世には松浦党の波多氏が支配した土地で往時は波多郷と称されています♪中世後期の戦国時代には波多氏が上松浦党の首領として、波多城の北方にある岸岳城に拠りました☆岸岳城をメインとして使用する以前の城郭かと思われます☆
始まりは渡辺綱が下向してこの地の畠城(波多城)を居城としたと伝わります♪
この渡辺綱の曾孫にあたる松浦久の二男の松浦持が波多の地に移り以後、波多持と波多姓を名乗っています☆後に岸岳城を本城として発展しました☆
波多城の突き出した先端部には波多八幡神社が残るのですがコレは、この時に氏神として波多八幡神社を創建したと云われます☆
波多氏は戦国時代の文禄の役では鍋島氏の与力大名として渡海しますが鍋島氏と行動を共にしようとせず軍令違反を犯してしまいます☆渡海中に所領を没収されていて徳川家康にお預けとなります…文禄③年に波多氏は滅亡☆秀吉から所領を没収されて武士・大名としての波多氏は滅亡しちゃいました☆
江戸時代には唐津藩の一寒村となってしまい唐津藩政期には唐津から武雄への街道(塚崎往還と伊万里街道)の追分の宿場町にすぎなくなりました☆
この波多城からは大量の中国、朝鮮半島からの輸入陶磁器が出土しています☆波多氏が異国との交易で財を成していた事が分かります♪波多八幡神社の背後の尾根上に城郭は立地しています♪岸岳から西に伸びる尾根上に城郭は存在☆低山ではありますが周囲は垂直の岩盤が切り立った険峻な地形になっていてイカにも松浦党らしい要害感がでた素敵な城郭となります☆岩盤の土橋、畝状竪堀群が見所です☆
2021年11月10日 RED副将軍
ほとんど整備されてませんが、残存度の高い堀切と畝状竪堀、主郭の垂直岩盤が見所です✨
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。松浦党の一族である波多氏の居城。
元々は波多城が波多氏の居城で岸岳城が詰め城であったが、戦国時代には岸岳城を改修し本城となり、波多城は支城となった。
波多氏は、約400年の17代波多親まで続いたが、1593年に改易。
発端は、豊臣秀吉による九州征伐において、秀吉と謁見したが島津と通じていたことから兵を送らずに秀吉に不興を買う。鍋島直茂により減知されたものの存続を認めらたが、文禄の役で鍋島氏の与力大名として渡海するものの、行動を共にしなかった事を軍令違反とみなされ、所領を没収、徳川家康預かりとされ常陸筑波山麓へと配流となったもの。
波多氏が改易され、唐津藩主・寺沢広高の支配となったが、交通の便のよい唐津城を建築して移り、廃城となったと見られる。
見所
主郭背後の堀切は深く尾根筋を分断。
主郭南側は傾斜が緩やかであり、防御線を張るため畝状竪堀を敷設。これらの残存度は極めて高い。
主郭は高さ4〜5mの垂直岩盤が切り立ち、ロープがかかってますが、回り込めば楽に登ることができます。
縄張り図を見れば、主郭背後の堀切の先には更に曲輪と堀切が続く様であったが、ヤブ化により進みませんでした。
行き方は波多八幡神社の背後より登城します。周辺の路肩に駐車は可能です。
ヤブ化してますが、尾根筋を進めば迷うことはありません。
比高は50mほどで15分も進めば主郭に辿り着きます。
写真
①②主郭は峻険な岩盤が切り立つ
③主郭背後の堀切
④主郭南側の畝状竪堀
⑤主郭を巡る土塁
⑥主郭の虎口
⑦⑧登城路