氏家行広陣

氏家行広陣([名護屋城  周辺城郭])

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氏家行広陣の口コミ情報

2024年10月06日 龍馬備中守【】


佐賀県唐津市の名護屋にある【氏家行広陣】♪足利義昭陣の真横、南西側の丘陵地に陣跡は築かれました♪波戸岬少年自然の家の辺りに築かれていました♪写真はほぼ無いですw

氏家行広は氏家氏の14代当主です♪父である氏家直元が伊勢長島攻めで戦死した後に、家督は兄・直昌が継ぎ、引き続き織田信長に仕えています♪本能寺の変で織田信長が倒れると、秀吉に従っています。兄の氏家直昌が病死してからは、行広が当主となっています♪
天正18年(1590年)、小田原征伐などで軍功を挙げ、同年には伊勢国桑名2万2000石に加増移封されました♪

文禄・慶長の役の際の氏家行広は、伊勢国桑名二万二千石の大名として参陣しています♪隣接して、弟の氏家行継の陣があります♪現在は少年自然の家の敷地になっている為、よく分かりませんが、発掘調査では裾部に溝(堀)を巡らせた丘陵地に、20棟以上の長屋構造の掘立柱建物群や、トイレ遺構などが発見されています♪堀秀治陣や豊臣秀保陣で発見されている、御殿建築の礎石とは異なる、兵舎的な機能が推定されています♪

さて♪秀吉死後の慶長5年(1600年)の会津征伐では、徳川家康軍に合流する為に東向中でありましたが、道中で石田三成挙兵(関ヶ原の戦い)の報を聞くと、家康に断りを入れた上で伊勢に帰還しています。豊臣秀頼が幼少である事を理由に、家康方・三成方いずれにも呼応せず、中立の立場を取りました。しかし桑名に西軍勢力が及んできた為に、中立の立場を維持できず、やむなく弟の氏家行継と共に西軍に与し、伊勢路を防衛しています。関ヶ原の戦い後、東軍が勝利すると家康の命で改易され、浪人になっています。。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では荻野道喜と変名を用い、大坂城に入城し豊臣氏に与して活躍しました♪家康は氏家行広の器量を惜しんで仕官を呼びかけましたが、応じなかったと伝わります。翌年の大坂夏の陣の際に、大坂城落城と共に自刃しちゃいました…。。

1つの判断や行動でその歴史が変わる…。
もしあの時、判断を東軍に与していれば…
士官の呼び掛けに応じていれば…
氏家行広の運命もまた違ったものになっていたのでしょうね。日常的な大小の出来事でも日々こういった事ってあるんだろうなぁと思うと日々を大切にしたいなぁ〜と考えさせられました♪

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