長宗我部元親陣
長宗我部元親陣([名護屋城 周辺城郭])
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長宗我部元親陣の口コミ情報
2024年09月16日 星穏
長宗我部元親は豊臣秀吉の四国征伐に降伏した後の文禄元年元親54歳の時、朝鮮出兵に従軍しました。
文禄の役では五番隊として福島正則らとともに三千の兵を率いて朝鮮に渡海しています。漢城が陥落した後元親は南朝鮮方面を転戦しますが、義軍の抵抗や土佐に比べて厳寒な朝鮮の気候などに苦戦を強いられたと思われます。そのような状況の中でも元親は秀吉への奉仕を忘れず、加徳島在城中に皮付きの樟木三百本、大竹三百本を大阪へ送り秀吉をうならせています。慶尚道晋州城の戦いで元親軍は1300の首級をあげたとされます。その後元親は土佐へ帰国しますが、朝鮮に残っていた弟の香宗我部親泰が病死。元親の四国統一事業当初から片腕となりともに戦ってきた親泰を失ったことは、元親にとってかなりの痛手となりました。
帰国後も出兵の準備を整えていた元親は、慶長二年59歳となり、出兵に先立ち「長宗我部元親百箇条」を定めています。その後再び三千の兵を率い藤堂高虎らとともに六番隊として慶長の役に従軍しました。釜山到着後、全羅道の経略をめざし加藤清正らとともに黄石山城を攻めて陥落させました。その後、島津氏の番城である泗川城の普請に加わっています。慶長三年、秀吉の帰朝命令により帰国しました。
元親陣屋跡は、名護屋城の南東(現住所で佐賀県唐津市鎮西町名護屋2010)にあります。小高い丘陵地に築かれ、曲輪と石垣が確認できるそうですが、現在は竹藪となっており確認できませんでした(丘陵の麓に石垣を発見しましたが当時のものかはわかりません)。元親陣屋跡を示す標柱は、なぜか「阿波 徳島」となっていました⋯
今後、調査・整備が進むのを期待します。
最後に、一つ気になったことが⋯
豊後戸次川の戦いで嫡男信親を失った時の豊臣方の軍監であった千石秀久の陣屋跡が、元親の陣屋跡とかなり近かったこと。元親は何か思うことがあったのでしょうか⋯