北条氏盛陣

北条氏盛陣([名護屋城  周辺城郭])

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北条氏盛陣の口コミ情報

2024年09月29日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


佐賀県唐津市の鎮西町波戸にある【北条氏盛陣】♪波戸の先端部の高台に立地している、北条氏盛陣です♪生駒親正陣が東側にあり、西側には増田長盛陣があります♪北条家と云えば相模国・小田原を本貫地とした名族です♪
そんな北条氏もまた小田原征伐後に豊臣秀吉に下り、従い、遠く朝鮮半島を見据える為、名護屋の地に陣所を設けております♪

この陣城を築いた北条氏盛♪北条氏盛は北条氏康の五男である北条氏規の嫡男ですが、従兄の後北条氏5代目の当主・北条氏直と徳川家康の次女・督姫の養子となっています♪秀吉の小田原征伐によって、後北条家は滅亡。その後、養父である北条氏直(征伐後に一命を助けられたのは徳川家康のお陰)に随行し、父・北条氏規と共に高野山(蟄居の為)に向かいました。北条家は、のちに豊臣秀吉に許しを得ています。

天正19年(1591年)、養父・北条氏直が病死すると、遺領である下野4千石の所領を与えられ、北条家は存続しています♪翌年の天正20年(1592年)、朝鮮出兵で肥前名護屋に従軍し在陣しています♪北条氏は小田原征伐の際に、豊臣秀吉にボロボロにされていますが、蟄居を許された後は、旗本家臣として存続。北条氏直は1万石、北条氏規は7000石を拝領されています♪養父である北条氏直は、文禄・慶長の役の前に逝去。北条氏盛は本家・北条氏直の後継と認められ、下野4000石を拝領しています♪

やがて慶長5年(1600年)、父・北条氏規の死去に伴い、河内7000石の継承が許され、自領の下野4000石と合わせて1万1千石の大名となっています♪江戸時代には、河内国狭山藩初代となりました♪北条氏盛は文永の役に続き関ヶ原合戦にも、東軍の将として参戦していますが、慶長13年(1608年)、大坂で亡くなっています。。

北条氏盛の子・2代目の北条氏信は大坂狭山へ移り、陣屋を構築♪明治維新まで、北条家は12代に渡り続きました♪最後の藩主・北条氏恭は、明治天皇の侍従を務めています♪

北条氏盛陣には石塁、削平地、旗竿石がありました♪因みに実父である北条氏規も名護屋に陣を張っています♪

2021年05月30日 国府左京大夫城介


後北条氏が名護屋に従軍した際の陣屋

【歴史】
北条氏盛は北条氏規の子で、天正19年(1591)に養父である北条氏直の遺領(下野国足利)を継いだ。文禄の役が始まると、父・氏規と共に名護屋に兵200を引き連れて、従軍している。

【遺構】
名護屋城から北北西2.8kmに位置し、大名陣屋の中では最も北にある。周囲には、島津義弘、生駒親正、増田長盛らの陣屋がある。遺構としては、石塁や旗竿石(手水石)が残っている。
なお、国指定「特別史跡」には指定されていない。

【感想】
関東の雄・後北条氏も、豊臣秀吉に従い、朝鮮へ出兵しています。当時の北条氏盛は僅か四千石しか知行がないため、他の陣屋に比べて、だいぶ規模が小さいです。石塁もありますが、あまり高くなく、あくまでも曲輪などの区画を整理するために築かれたものと思われます。
北条氏盛自身は最終的に渡海していないとは言え、関東から九州、朝鮮へ行くとは夢にも思っていなかったはずです。自分自身の身を嘆いたのか、それとも武功を挙げて、家名を少しでも取り戻そうとしたのか、果たしてどんな思いを抱いていたのか興味深いです。

【アクセス】
「名護屋城博物館入口」バス停から、「波戸岬国民宿舎」行きに乗車し、終点で下車。そこから徒歩1分。

【写真】
1:説明版
2:石塁
3:旗竿石

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