立花宗茂陣
立花宗茂陣([名護屋城 周辺城郭])
名護屋城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「立花宗茂陣」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
立花宗茂陣の口コミ情報
2026年06月30日 ᴿᴱᴰ副将軍
立花宗茂が朝鮮出兵に際して名護屋城に着陣した際の陣跡
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1592年の豊臣秀吉による朝鮮出兵に際して立花宗茂が造営した陣城。
文禄の役において、立花宗茂は小早川隆景を主将とする六番隊に2,500人の軍役を課せられて朝鮮に渡海し参陣しています。
六番隊は釜山から朝鮮半島を北上し、首都ソウル(漢城)を半月で制圧。立花宗茂は火計と釣り野伏せ戦法を用いたとされます。そのまま平壌(ピョンヤン)に向かいましたが、錦山で官軍・権慄と義兵将・郭再祐および金誠一の連合軍に敗退。
朝鮮軍は明に援軍を要請。明から提督・李如松が派遣されます。
李如松は四万の兵を率いて第一軍の小西行長が籠る平壌城を落とすとソウルを目指して南下します。
日本軍は宇喜多秀家を総帥として、碧蹄館で迎撃。この碧蹄館の戦いで先鋒を任されたのが立花宗茂であり、立花宗茂・直次の兄弟が明軍の側面を突いて2,000の敵兵を討ち取ったとされ、小早川隆景らの援軍が到着すると明軍は後退しています。
1593年の第二次晋州城の戦いにおいても、一番隊の加藤清正・黒田長政らともに小早川隆景と立花宗茂は晋州城を取り囲んでいます。激戦の末に晋州城は落城しました。
1597年、慶長の役が始まると再び立花宗茂は朝鮮へ渡海。侵攻軍には編成されず釜山の守備を命じられました。
1598年8月に豊臣秀吉が死去すると秘匿されたままでしたが、明・朝鮮と和議を結んだ上で諸軍を帰国させて終結する方針が決定。ようやく11月に帰国命令が降りましたが、順天沖に朝鮮水軍が現れて海路が封鎖。
順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを知ると、巨済島の島津義弘、立花宗茂、宗義智らの水軍が救援に現れて朝鮮水軍を敗り、小西行長らは無事帰還しました。
見所
名護屋浦に突き出た海岸段丘上に築かれています。
「石屋町船積基地」の敷地となっていますが、南側は残っている様です。削平地が広がりますが削平は甘い様に感じました。
県道23号沿いに標柱が立っているので分かりやすいです。
県道を挟んだところには太閤道があり、見事な切り通しが残存しているので合わせて訪れてください。写真⑥⑦⑧は太閤道
2022年05月08日 龍馬備中守【】
佐賀県の唐津市にある【立花宗茂陣】♪名護屋城の陣跡巡りをしてきました♪
名護屋城と云えば、文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉が朝鮮出兵の為に築いた巨大城郭です☆
秀吉は、この名護屋の地に全国から各諸大名を従え布陣しました☆
秀吉の九州平定の際に活躍をした立花宗茂ですが、その功を認められて筑後国柳川13万2000石を与えられ豊後国・大友氏から独立した直臣大名に取り立てられました☆
文禄の役では小早川隆景を主将とした6番隊に2500兵の軍役を課せられて参陣しました♪慶長の役では侵攻軍には編入されずに釜山の守備を命ぜられています☆
東側にある名護屋浦に突き出る形で丘陵上に陣所は存在します♪削平された数段の郭と低めの土塁が残ります☆陣跡の標柱が示す先は…イキナリの藪w登れば直ぐに、郭が広がります♪









