日本山城(ひもとやまじょう)
日本山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長崎県松浦市鷹島町原免
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 源久
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 松浦氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石積、腰曲輪
指定文化財
- 市史跡(日本山城)
再建造物
- -
周辺の城
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梶谷城(長崎県松浦市)[7.9km]
直谷城(長崎県佐世保市)[15.6km]
名護屋城(佐賀県唐津市)[16.4km]
籠手田城(長崎県平戸市)[16.9km]
深江氏館(長崎県佐世保市)[17.2km]
世知原氏館(長崎県佐世保市)[18.1km]
平戸城(長崎県平戸市)[19.2km]
伊万里城(佐賀県伊万里市)[19.4km]
平戸御館(長崎県平戸市)[19.5km]
大島城(長崎県平戸市)[19.9km]
日本山城の口コミ情報
2021年08月17日 龍馬備中守【】
医王城[日本山城 周辺城郭]
長崎県の松浦市の鷹島内にある【肥前・医王城】☆ 同島内にある日本山城とは時代感が異なる戦国の丘陵城になっています☆
城郭は鷹島の標高約70mの丘陵に位置します☆戦国時代に松浦党の25代目の当主の松浦隆信が相神浦松浦氏(松浦親)を攻めていて、一年余りに及ぶ激戦の末に松浦親が鷹島を平戸松浦氏に譲り鷹島が再び平戸松浦氏の支配下になりました☆肥前・医王城は、松浦党一族である大曲氏の居城跡といわれています☆
ほぼ円形の主郭と南東側に延びる副郭と形成されています☆主郭は高い土塁で輪郭を囲い主郭下の横堀は大きいです☆主郭切岸の角度が鋭く印象的でした♪
海に面した南西側は急峻な自然の地形をまんま利用し防御をおこなっています☆
2021年08月16日 龍馬備中守【】
日本山城
長崎県の松浦市にある日本山城♪城郭詳細が無い為記載します☆
ずっと行って見たかった城郭は西海一の水軍、松浦党の始祖・源久(みなもとひさし)が築城したと伝わります♪
鷹島という島の南側の中心部分、伊万里湾に突き出した場所に立地します☆
この場所は鎌倉時代に文永・弘安のモンゴル襲来でモンゴル軍が上陸した地になっています☆弘安の役では鷹島付近でモンゴル軍が大風の為に壊滅していて、この合戦の行方を決定づけました☆
源久は今福の梶谷城より日本山に移り住みました♪それがこの日本山城となります☆更に元寇襲来の際には松浦答が日本山城で奮戦した地として伝わっています☆
『鎌倉年代記裏書』には「今年〈弘安四〉七月、大元賊徒、自宋朝、高麗数千艘船寄来、数日漂対馬海上而後群集肥前国鷹島之処、同卅日夜、閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千万、但将軍范文虎帰国云々」と残っていてモンゴル軍は鷹島沖の海上に結集していましたが7月の大風で船は漂蕩し多くの乗員が死亡しちゃいます☆
台風により弱っている元寇を此度の戦で大将軍として命じられている鎮西の少弐三郎左衛門景資は生き残ったモンゴル兵の掃討戦を開始しました☆
島津長久証状には『次月七月七日鷹島合戦之時,自陸地馳向事,以同前,爰時範依合戦之忠勤」「同潤七月七日鷹島合戦之時,五郎次郎自陸地馳向候之条,令見知候了』と記されていて、大風から1週間後の7月7日に鷹島では両軍の間で戦いが行われました☆
肥前国を調べているとよく、蒙古合戦の恩賞地で〇〇を領した☆いう言葉を目にしますが、この蒙古合戦の事を指しているという訳なんです☆
大暴風の混乱で戦意を失ったモンゴル軍に対して日本軍は激しい攻撃を加え壊滅させました☆これは日本側唯一の合戦勝利となりました☆この日本山城周辺の海底からはモンゴル軍の遺物と思われる釈迦像(原免、市杵島神社蔵)や石臼・青竜刀・唐壺などが引き揚げられ保存されています☆
文永の役後、日本側はモンゴルの再来に備え、防塁を築き、警固番役の制を創設して日本の強化を行いました☆「とふひ」(烽火台)が壱岐・大島・この鷹島に設けられています☆
2021年06月23日 虹雷 大宰大弐 サンダー
日本山城
説明板越しに見渡すのみの攻城。
説明板前までバイクや車で行けますが、一車線程度の狭い道路、少しの間停めるスペースはありますが、駐車場はないので注意が必要です。
説明板付近に少し先まで通じてるような道はありましたが、私有地なのでそのルートからは接近不可。他に城跡までの攻城ルートは見当たりませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃったらぜひ教えてくださると助かります。
鷹島にはいくつか小型のフェリーも発着してるのでバイクなどでツーリング城攻めにはピッタリです。
日本山城の周辺スポット情報
逃の浦の石塁(元寇防塁)(遺構・復元物)
日本山城跡説明版(碑・説明板)
鷹島神崎遺跡説明看板(碑・説明板)
医王城(周辺城郭)
刈萱城(星鹿城山)(周辺城郭)