日本山城(ひもとやまじょう)

日本山城の基本情報

通称・別名

所在地

長崎県松浦市鷹島町原免

旧国名

肥前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

源久

築城年

不明

主な改修者

主な城主

松浦氏

廃城年

遺構

曲輪、腰曲輪、石積

指定文化財

市史跡(日本山城)

再建造物

周辺の城

梶谷城(長崎県松浦市)[7.9km]
直谷城(長崎県佐世保市)[15.5km]
名護屋城(佐賀県唐津市)[16.4km]
籠手田城(長崎県平戸市)[16.9km]
深江氏館(長崎県佐世保市)[17.2km]
世知原氏館(長崎県佐世保市)[18.1km]
平戸城(長崎県平戸市)[19.2km]
伊万里城(佐賀県伊万里市)[19.3km]
平戸御館(長崎県平戸市)[19.5km]
大島城(長崎県平戸市)[19.9km]

日本山城の口コミ情報

2024年11月03日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
刈萱城(星鹿城山)[日本山城  周辺城郭]



長崎県松浦市の星鹿町にある【刈萱城 】♪城山の標高128mに立地した、中世の山城です♪
中世といっても、初期段階の鎌倉時代の城郭と伝わり、現在は城山展望台となっています♪星鹿町下田免の東部に突き出した半島があり、コレが城山です♪展望所からは元寇で激戦となった、鷹島や青島を見る事が出来ます♪

建久2年(1191年)、源頼朝から下向を命ぜられた加藤左衛門重氏が、この城山に城郭を築いたと云われています♪加藤左衛門重氏という人物ですが、元々は平家方の大将でありましたが、平家が戦いに敗れた際に源氏に降り、源頼朝に仕えたといいます♪加藤左衛門重氏は、やがて付近6ヵ国を支配する様になり、さらに肥前松浦一族の本貫の御厨庄に出向いて、みずから城山に築城をしたと伝わります(西陽記録・肥前記 )♪その後、加藤左衛門重氏は、この城を棄て紀州高野山に移ったとも伝えられています♪

高野山に移ったとされるものが、松浦の民話に残っていました♪『重氏には千里姫という美しい側室がおり、世継ぎとして生まれた子供は、千里姫の子供、石童丸でした。これが正室のねたみをかい、ある夜、千里姫の身の危険を感じて身代わりとなって寝ていた侍女が、とうとう刀で刺されてしまいました。重氏は心を痛めた末、ある夜とうとう城を捨て、行方知れずとなりました。石童丸は成長すると父を慕う気持ちが強くなり、風の便りに重氏のことを聞いていた母の千里姫と一緒に、和歌山の高野山まで会いに行くことにしました。千里姫は長旅の疲れと持病のため、重氏に会えないまま高野山の麓の宿屋で亡くなりました。石童丸は、父上に間違いないのに父とは名のらない「刈萱童心」という僧の弟子となり、一生を送ったそうです。』
ファンタジーですね♪

展望台の整備などにより、大分形は変わっていそうですが、山頂には本丸の輪郭が残っており、看板もありました♪
凄く気持ちが良い場所で、付近一帯を見晴らす展望が楽しめます♪
少し前に口コミをした逃の浦の石塁(元寇防塁)♪時を後にして、この地域の領主・関係者が築いたものなのでしょうね♪自分達の領地を守りたい一心♪沿岸部沿いは石塁で防御を、いざとなれば星鹿城山に籠り戦う♪まさにその後の乱世(南北朝、戦国時代)に通じていく、もっと古い時代に育まれた造り方、場所の選定や効果などなど、改めて感じ考える事が出来ました♪中世はどうなっていたのか?は解らず仕舞いでした。。ただ、ロケーションの良い場所である事から、伊万里湾に侵攻する物見の様なものだったり、狼煙台的な役割はあったんでは無いか?と思われます♪つまり、松浦党の城郭かな?因みに、時代感が変わるのですが、第二次世界大戦中には砲台が構築されています♪

星鹿城山展望台に向かう道路は崩れによる、工事で通行止めになっていました。

2024年10月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
逃の浦の石塁(元寇防塁)[日本山城  遺構・復元物]



長崎県松浦市の星鹿町にある【逃の浦の石塁(元寇防塁)と千人塚】♪鎌倉時代の文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡り、元軍は日本侵略を試みました♪1度目を『文永の役』、2度目を『弘安の役』と呼びます♪

正元元年(1259年)、モンゴルは高麗国を服従させます♪当時のモンゴルはアジアから東ヨーロッパまでもその領土とし、史上最大の帝国となっていました♪
翌年の1260年には、フビライハンがモンゴルの帝位に就いています。高麗を経て日本へ入る予定だったのですが、この時は対馬を前にして帰還しています。
文永5年(1268年)、高麗の使者はモンゴルの国書を持って太宰府へ来ています。国書は鎌倉へ送り届けられていますが、鎌倉幕府はコレに返答をしていません。
文永6年(1269年)、今度は対馬に上陸していますが、日本側が拒否。対馬島民2名を捕らえ帰還しています。

使者は再びモンゴルの国書を持って大宰府に到着し、対馬島民を送還させています。
が、この国書に鎌倉幕府はまたまた返書せずですw

文永8年(1271年)趙良弼ら使節団が、モンゴルの国書を携えて今津(今津元寇防塁の場所)へ到着し、大宰府に向かっています。が、特に対応せずwモンゴルは苛立っていたでしょうね。。因みに、この頃にモンゴルは国号を『元』しています♪

文永9年(1272年)、趙良弼ら使節団は再び大宰府に来ていますが、日本側はついに返書を出さず。。

で、文永11年(1274年)、文永の役という流れとなります。シカトを決め込んだ幕府w中々やりますねww
1回目の日本への侵攻は元軍2万6千、900艘で初めは対馬を侵攻しています。
その後、博多湾に上陸し、日本軍と交戦していますが、元軍の船団は姿を消します。。

健治元年(1275年)、再びモンゴルからの使者が長門国へ到着していますが、鎌倉幕府は鎌倉の竜ノ口で使者を処刑しています。
そして…健治2年(1276年)に石築地の築造に取り掛かる。この石築地が、元寇防塁という訳です。その頃に築かれた松浦側の元寇防塁が、この【逃の浦の石塁】です♪博多、今津を繋ぐ約20キロにも渡る元寇防塁の方がメジャーではありますが、松浦を守る為に、沿岸部を守る為に、松浦側にも築かれていた遺構なのであります♪んで、その後の弘安の役へと繋がっていくのです♪
余談ではありますが、この蒙古襲来によって、その後、九州に土着した東国御家人は多くて、肥前千葉氏や豊後大友氏などもその頃より戦国時代まで勢力を奮っています♪

文永、弘安の役共に『神風』なる大暴風雨が吹き荒れ、モンゴル軍は壊滅したとされています。

この逃の浦のくだりが、竹崎季長詞書に『御厨海上合戦図』にあります♪
嵐の5日後、御厨千崎、青島にかけ元軍の残党を掃討する海上戦がありました。この結果、『死屍潮流に従い浦に入り 海の漂いて歩いて渡るべし 屍臭浦をおおって魚これがために皆死す』という惨状が記されています。
星鹿には、上陸した元兵との血みどろの戦いを想起させるような痕跡が残っています。血が流れまるで血の様な田になった、『血田』という地名、鷹島から船橋を、かけ攻め上ってきたという伝えから、元軍敗退乗船した地に『逃げの浦』といった地名も残されていました♪地元では逃げが訛ってか?『ぬげの浦』とも呼ばれています♪
近隣には千人塚があり、これは海岸に打ち寄せられる大量の死屍を丘上の森に、星鹿半島の陸上戦での死者は、大堂の森に塚を掘り葬ったと云われています。

弘安の役の際、元軍は御厨半島に上陸する為に逃げの浦に船橋を掛けて上陸したと伝わります。この頃は沿岸防備の為に、九州の北岸には石築地が多く築かれています。星鹿の石塁もそのころ築かれたものと思われますが、実際の確証はありません。星鹿城山の北岸にあった金倉の石塁と併せたら、総延長千mの防塁が築かれていました。戦争時の採石や、昭和の台風の被害によって、石塁はほとんど崩壊しており、現在はわずかな石積みを残すのみとなっています。

2021年08月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
医王城[日本山城  周辺城郭]



長崎県の松浦市の鷹島内にある【肥前・医王城】☆ 同島内にある日本山城とは時代感が異なる戦国の丘陵城になっています☆

城郭は鷹島の標高約70mの丘陵に位置します☆戦国時代に松浦党の25代目の当主の松浦隆信が相神浦松浦氏(松浦親)を攻めていて、一年余りに及ぶ激戦の末に松浦親が鷹島を平戸松浦氏に譲り鷹島が再び平戸松浦氏の支配下になりました☆肥前・医王城は、松浦党一族である大曲氏の居城跡といわれています☆

ほぼ円形の主郭と南東側に延びる副郭と形成されています☆主郭は高い土塁で輪郭を囲い主郭下の横堀は大きいです☆主郭切岸の角度が鋭く印象的でした♪
海に面した南西側は急峻な自然の地形をまんま利用し防御をおこなっています☆

2021年08月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
日本山城



長崎県の松浦市にある日本山城♪城郭詳細が無い為記載します☆
ずっと行って見たかった城郭は西海一の水軍、松浦党の始祖・源久(みなもとひさし)が築城したと伝わります♪
鷹島という島の南側の中心部分、伊万里湾に突き出した場所に立地します☆
この場所は鎌倉時代に文永・弘安のモンゴル襲来でモンゴル軍が上陸した地になっています☆弘安の役では鷹島付近でモンゴル軍が大風の為に壊滅していて、この合戦の行方を決定づけました☆

源久は今福の梶谷城より日本山に移り住みました♪それがこの日本山城となります☆更に元寇襲来の際には松浦答が日本山城で奮戦した地として伝わっています☆

『鎌倉年代記裏書』には「今年〈弘安四〉七月、大元賊徒、自宋朝、高麗数千艘船寄来、数日漂対馬海上而後群集肥前国鷹島之処、同卅日夜、閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千万、但将軍范文虎帰国云々」と残っていてモンゴル軍は鷹島沖の海上に結集していましたが7月の大風で船は漂蕩し多くの乗員が死亡しちゃいます☆
台風により弱っている元寇を此度の戦で大将軍として命じられている鎮西の少弐三郎左衛門景資は生き残ったモンゴル兵の掃討戦を開始しました☆

島津長久証状には『次月七月七日鷹島合戦之時,自陸地馳向事,以同前,爰時範依合戦之忠勤」「同潤七月七日鷹島合戦之時,五郎次郎自陸地馳向候之条,令見知候了』と記されていて、大風から1週間後の7月7日に鷹島では両軍の間で戦いが行われました☆

肥前国を調べているとよく、蒙古合戦の恩賞地で〇〇を領した☆いう言葉を目にしますが、この蒙古合戦の事を指しているという訳なんです☆

大暴風の混乱で戦意を失ったモンゴル軍に対して日本軍は激しい攻撃を加え壊滅させました☆これは日本側唯一の合戦勝利となりました☆この日本山城周辺の海底からはモンゴル軍の遺物と思われる釈迦像(原免、市杵島神社蔵)や石臼・青竜刀・唐壺などが引き揚げられ保存されています☆

文永の役後、日本側はモンゴルの再来に備え、防塁を築き、警固番役の制を創設して日本の強化を行いました☆「とふひ」(烽火台)が壱岐・大島・この鷹島に設けられています☆

2021年06月23日 虹雷 大宰大弐 サンダー
日本山城



説明板越しに見渡すのみの攻城。
説明板前までバイクや車で行けますが、一車線程度の狭い道路、少しの間停めるスペースはありますが、駐車場はないので注意が必要です。
説明板付近に少し先まで通じてるような道はありましたが、私有地なのでそのルートからは接近不可。他に城跡までの攻城ルートは見当たりませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃったらぜひ教えてくださると助かります。
鷹島にはいくつか小型のフェリーも発着してるのでバイクなどでツーリング城攻めにはピッタリです。

日本山城の周辺スポット情報

 逃の浦の石塁(元寇防塁)(遺構・復元物)

 日本山城跡説明版(碑・説明板)

 鷹島神崎遺跡説明看板(碑・説明板)

 医王城(周辺城郭)

 刈萱城(星鹿城山)(周辺城郭)

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