籠手田城(こてだじょう)
籠手田城の基本情報
通称・別名
- 城山城
所在地
- 長崎県平戸市田平町山内免
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 籠手田栄
築城年
- 文明年間(1469〜1487)
主な改修者
- -
主な城主
- 籠手田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
平戸城(長崎県平戸市)[2.8km]
平戸御館(長崎県平戸市)[3.5km]
深江氏館(長崎県佐世保市)[7.1km]
箕坪城(長崎県平戸市)[9.7km]
直谷城(長崎県佐世保市)[13.0km]
大島城(長崎県平戸市)[13.3km]
沖田城(長崎県佐世保市)[14.9km]
日本山城(長崎県松浦市)[16.9km]
梶谷城(長崎県松浦市)[18.8km]
世知原氏館(長崎県佐世保市)[20.0km]
籠手田城の口コミ情報
2025年12月02日 龍馬備中守【】
籠手田城
長崎県平戸市の田平町山内免にある【籠手田城】♪城めぐに歴史詳細がない為に記載します。釜田川流域に位置し、北は玄界灘、西は平戸瀬戸に面します。籠手田城の北側の釜田川は蛇行し、里田原を挟んで、北東台地の里城と600mの距離で相対峙しています。また籠手田城からは、田平港や籠手田の集落など、田平町西部を望む事が出来て、東方は松浦市の陣内城、南西は北松浦郡鹿町町にあった深江氏館へ通じる、旧街道を掌握する位置でもあります。田平町の中央部を占める、里田原の西端、残丘上の平山城となります。
築城年は不明ですが、松浦党の一族の籠手田氏の城郭となります。松浦豊久の三男である松浦栄は、田平安照の養子となり、下松浦8家の1つとして、田平籠手田の地を賜っています。松浦栄は籠手田左衛門と名乗り、平戸の武将として、兄・松浦弘定の為に、その片腕となって支えました。ここに、籠手田氏および籠手田城の歴史が始まったものと思われます。
栄以降の籠手田氏は、延徳3年(1491年)平戸・田平合戦、また明応7年(1498年)相神浦・大智庵城攻撃に際して、平戸方として奮戦し、活躍しています。
さらに永禄年間(1558年)大村純忠との戦いでは、平戸勢の主将として彼杵・針尾に戦い、元亀3年(1572年)壱岐合戦、朝鮮出兵においても、平戸松浦氏の重臣としての力を発揮しています。しかしながら、松浦鎮信の治世下の慶長4年(1599年)松浦信実の讒言にあって、肥後に追放され、ここに籠手田氏の1世紀に及ぶ歴史は、終わりを告げる事になります。
里田原の西端の残丘上に、城郭は立地します。大きく、主郭、副郭と2つの郭で構成されているのですが、現在、主郭と副郭は松浦線によって分断されています。竹が群生していますが、主郭と周りの空堀などは、良好な状態で残されています。丘陵地と釜田川を巧みに活用した、戦国期の城郭形式を今に伝えています。
2025年11月24日 龍馬備中守【】
向山館[籠手田城 周辺城郭]
長崎県松浦市の御厨町里免にある【向山館】♪北松浦半島の北部に立地し、龍尾川流域に位置します。北部は伊万里湾に面し、南部に石森山・二ッ岳が聳え、西端には坂瀬川が流れます。地名の御厨は、皇室・神社などの御供所『みくりや』に由来し、西松浦郡・南松浦郡・北松浦郡に及ぶ、字野御厨荘の一部でありました。
小字名として、坊ノ山と残ります。
この向山館と御厨の関係は不明ではありますが、宇野御厨荘内であったかと思われます。
先に述べておくと、向山館の築城、城主は不明です。が、長崎県の中近世城郭跡調査では、シッカリ中世と記載されています。
さて、この御厨の地名は、鎌倉期から御厨荘などとして現れますが、これは宇野御厨の事を指し、現在の御厨とは、直接繋がりません。が、向山館のある現・御厨の地名、地域を含むと考えて良さそうです。つまり、向山館のある場所も宇野御厨荘だったと思われます。弥生時代からの遺跡が多数発見されているこの場所では、同様に多くの遺物も検出されていて、実際、現・御厨は壱岐、対馬を挟み、朝鮮半島に近い場所である為、当時の交易の痕跡も含め、人々がこの地に繁栄した証拠が残ります。古墳時代以降は、よく分かっていませんが、こういった流れを組み、宇野御厨荘は、この繁栄を元に成立したのかもしれません。
荘園域は、松浦や五島、伊万里など、広範囲となっています。このエリアと言えば、やっぱり松浦党でありますが、松浦党の祖と呼ばれる源久は、延久元年(1069年)現在の松浦市今福町に下向し、土着したと伝わります。以後の松浦党の諸氏は源久を祖とし、宇野御厨荘一帯に土着し、武士団を形成して、西北九州で絶大なる影響力を持つ様になっています。
時を下り、鎌倉期には『御厨熊徳』なる人物が見え、弘安4年(1281年)宇野御厨の預所から、無主の荒野1町を給田として与えられていて、すでに今日へ繋がる『御厨』の地名があった事が考えられます。御厨熊徳なる人物が何者か?判りませんし、向山館との直接的な関係は判りませんが、この地の名を名乗った豪族がいたという事は、何か繋がりがあったのかもしれません。
というのが、向山館の空堀の規模はどう考えても、戦国時代の規模の掘り方ですし、虎口の造り方も同様に戦国時代のものなので、その子孫が繁栄していたのかなぁ〜?と考えてしまいました。いずれもやっぱり不明なのです。
南北朝期に入ると、松浦党は地域支配の体制を強化しています。永徳4年(1384年)下松浦一族一揆契諾状には、「〈御厨〉三河守守」、「〈御厨坂本〉源宥」の当地を本拠とする土豪名が残り、室町期に入ると、御厨氏は、盛んに朝鮮貿易を行っています。御厨氏は松浦党であり、その一族なのでしょうが、不明点が多すぎて、ギブアップですw
2024年10月17日 龍馬備中守【】
里城[籠手田城 周辺城郭]
長崎県平戸市の下里にある【里城】♪平戸街道を見渡せる、丘陵地に立地した里城です♪釜田川河口付近の東岸に立地する場所で、釜田川は内海である釜田湾に流れ出し、外海へと繋がる沿岸監視も出来る場所となります♪現在、主郭部にお住まいの方がいらっしゃいますが、一声かけてwell come見学可能となっています♪
別名を田平城と呼ぶこの城郭は、鎌倉時代初期♪伊万里の峯邑から峯五郎披という人物が田平に移り、里城を整備し、峯五郎披の3男・弥四郎馴と共に、田原里の開拓を行いました♪峯五郎披が平戸松浦氏の始祖となります♪平安末期以降から、一族野党で田平に勢力を奮っています♪峯五郎披は文治元年(1185年)源頼朝の家臣となり、建久3年御厨荘地頭職となり、田平町の北部里田原の地に移り、里城もこの頃に築城されたと云われています♪また、源五郎披の子・源持、その弟・源弥四郎馴に至るまで、田平は峯氏の拠点となります♪
延徳元年(1489年)、松浦一族である松浦弘定は田平里城主である田平峯昌を、里城で攻め破っています。平戸松浦弘定は、田平里城主である田平峯昌の兄であり、兄弟で家督を継ぐか?お家騒動による争いです(平戸田平合戦です)。
この平戸田平合戦の際、平戸松浦弘定は大島胤政を副将として、この里城を攻撃しました。田平峯昌は18日間籠城しましたが、ついに開城となり、この地は平戸領となっています(平戸郷土誌より)。
田平方には援軍として島原・有馬氏の大軍が来ていて、陣笠城に布陣しました。この勢いは平戸瀬戸を超えて、勝尾嶽城や箕坪城まで攻め入ったと伝えられています。結果的に、弟である田平峯昌は兄である松浦弘定と和睦し、松浦氏に帰属しました。
この戦いの際に有馬貴純は、大村純忠、西郷氏、志佐氏松浦定、佐々刑部を頼み、攻め込んでいます。見所は空堀、石積みで素晴らしく残っていました♪
2022年05月06日 MACHT征夷大将軍
籠手田城
どこからアプローチしていいのかよくわからなかったのでとりあえず西側から城内を目指してみました。民家ではなさそうなところを通っていくと松浦鉄道の線路あり。柵等がなかったので線路を渡ってさらに先に進み畑の間を通って行き着いた先が写真のような竹藪でした。ここからは簡単に入れそうなところがなかったので先に進むのは断念。
2019年06月15日 笑門来猫
籠手田城
世界遺産の春日集落。領主の籠手田安経と共に領民は一斉にキリスト教に改宗。その後の禁教令により迫害を受けながらも、信仰を代々受け継いだ春日集落は、潜伏キリシタンの地として世界遺産に。
2019年06月15日 笑門来猫
籠手田城
松浦隆信の有力家臣、籠手田氏の城跡。小高い丘にあり、石垣が垣間見える。しかし中は藪すごくて訳わからん。









